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頌徳碑
金子直吉翁は土佐の産まれ、資性高潔、識見高邁、奇策縦横の士也。身を貧窶に起こし苦学力行す。二十一歳の時神戸鈴木商店に仕え、終生献身忠誠を尽くす。同店が五十有余の事業会社を興しこれを海外貿易に結合し驚異の世界的発展を遂げ其の名声を四海に轟かし、あるいは第一次世界大戦当時の日米船鉄交換の如き何れも翁の天稟と努力に因る。而して翁伝統の遺業は帝国人絹、神戸製鋼、播磨造船、豊年製油、クロード式窒素工業等皆人口に膾炙し其の商略店風は日商産業等に継承せられ各々国家に貢献する処頗る大也。晩年同店蹉跌の後、太陽産業に拠り挽回に奮闘したるも惜しい哉、業半ばにして逝く。維時昭和十九年二月二十六日享年七十九歳也。
祥龍寺
※訳者註
神戸市灘区には鈴木よねが再興した祥龍寺という禅寺があります。
その寺には鈴木商店番頭の金子直吉と柳田富士松の功績を称えた頌徳碑が建立されています。
これは墓地に至る祥龍寺の庭園です。
神戸市灘区には鈴木よねが再興した祥龍寺という禅寺があります。
その寺には鈴木商店番頭の金子直吉と柳田富士松の功績を称えた頌徳碑が建立されています。
これは金子直吉の頌徳碑です。
こちらは柳田富士松の頌徳碑です。
両番頭の頌徳碑に並んで鈴木よね刀自の胸像が建てられています。
さらにその隣には、ロンドン支店長だった高畑誠一の墓があります。高畑誠一は二代目鈴木岩治郎の娘ちよ(よねの孫)と結婚しており、実質的に鈴木家の後継者でした。
さらにその奥には鈴木商店OB会である辰巳会が建てた供養塔もあります。物故先覚同僚を追慕する目的で建てられました。これは墓地に至る祥龍寺の庭園です。
墓も碑も庭も管理が行き届いており、清潔な感じの良い寺でした。
序文
金子直吉翁が亡くなってから五年、柳田富士松翁が去ってから二十一年。みじめな敗戦後日本再建途上の困難を味わうにつけ、ありし日の鈴木商店とその二大柱石だった両翁に対する追慕の情はいよいよ切なるものがある。この時にあたり両翁頌徳会の一事業である金子直吉伝上巻と柳田富士松伝下巻の脱稿を見るに至ったことはまことに欣懐に堪えない。
本書の編纂執筆に当たられた白石友治氏は金子翁の祖先金子家発祥の地伊予金子村の出身で、かつて金子備後守の史伝をものされて江湖に問われたことがある。かかる由縁のある同氏が今回的確詳細に事実を調査しかつ関係各方面から得た山なす両翁の資料により真の姿を彷彿させることに苦心が払われたため、微に入り細を穿って偉人金子翁の面目躍如たるものがある。また商傑柳田翁の事跡についてもよく正確平明に叙述されており興味深く描写して余すところがない。けだし両翁伝記編纂執筆者として最適任であり、かつ伝記発刊の目的を十二分に達成し得たものと信ずる。
この伝記上下両巻を旧鈴木関係の方々に頒布するにあたり今更のごとく、その偉大を敬仰するとともに地下の故人を迎えて再び過去を追想し吾人の指導者たらしめ、新日本再興に寄与するところあらんとするものであって、意義まことに深重であると思う。
最後に我ら二大恩人である両翁に格別親炙した有志の方々から寄せられた追想文を巻末に載せ得たことは錦上さらに一段の花を添えたものである。また各方面から貴著な資料を頂戴したことに対してあわせてここに感謝の意を表する。
本会発起人の一人としてこの伝記の原稿を通覧する機会を得たので僭越ながら拙文を草し敢えて序文とする次第である。
昭和二十四年二月十一日
本書の編纂執筆に当たられた白石友治氏は金子翁の祖先金子家発祥の地伊予金子村の出身で、かつて金子備後守の史伝をものされて江湖に問われたことがある。かかる由縁のある同氏が今回的確詳細に事実を調査しかつ関係各方面から得た山なす両翁の資料により真の姿を彷彿させることに苦心が払われたため、微に入り細を穿って偉人金子翁の面目躍如たるものがある。また商傑柳田翁の事跡についてもよく正確平明に叙述されており興味深く描写して余すところがない。けだし両翁伝記編纂執筆者として最適任であり、かつ伝記発刊の目的を十二分に達成し得たものと信ずる。
この伝記上下両巻を旧鈴木関係の方々に頒布するにあたり今更のごとく、その偉大を敬仰するとともに地下の故人を迎えて再び過去を追想し吾人の指導者たらしめ、新日本再興に寄与するところあらんとするものであって、意義まことに深重であると思う。
最後に我ら二大恩人である両翁に格別親炙した有志の方々から寄せられた追想文を巻末に載せ得たことは錦上さらに一段の花を添えたものである。また各方面から貴著な資料を頂戴したことに対してあわせてここに感謝の意を表する。
本会発起人の一人としてこの伝記の原稿を通覧する機会を得たので僭越ながら拙文を草し敢えて序文とする次第である。
昭和二十四年二月十一日
金子柳田両翁頌徳会 発起人 高畑誠一
金子直吉伝序
私は大正の末期頃から時々伊豆の湯郷、長岡に来浴していた。私はある日按摩を呼んで、肩を揉ませながら四方八方話を聞いていると、按摩が「近くの旅館に珍しいお客さんが滞在しています。その人はいつも温泉から上がると、頭に氷嚢を乗せて私に体を揉ませながら、秘書を枕辺に呼び寄せ、何事かとうとうと喋ってその話を書き取らせています。その話しぶりを聞いていると何でも偉いお方の評判です」という。
私はこれを聞いて「なかなかもって精力絶倫の先生だわい。一体誰だろう」と好奇心を抱いていると、その後二三日経って刺を通じて私に面会を求める客があった。会ってみるとそれが按摩が話題にしていたご本尊神戸鈴木商店の大番頭金子直吉君であった。早速会見してみると、談もなかなか上手で記憶も非常によく、当時の社会各階層の名士と相往来し高邁な識見と卓越した手腕を有しているようで、私はこの人は世の中を闊歩して相当大きな仕事が出来る好漢であると感じた。
この会見を契機としてそれ以来、懇親にお付き合いを願い、時々お目にかかった。そして色々な機会を通じ、同君から啓沃を受けることが非常に少なくなかった。
君は慶応二年の初夏、土佐の片田舎に呱々の声を上げたのである。土佐の国は外に黒潮跳ねる太平洋の荒波がたけり、内には朱子学の大義名分思想が透徹して沢山の志士論客を出している。これらの人は相携えて明治維新の鴻業を助け、日本国内で率先して自由民権を昂揚したのである。君はかかる海南の雰囲気の裏に切磋琢磨して成長した人であるから、その性格や気概も略々推想することができると思う。そして弱冠志を立てて身を実業界に投じ、鈴木商店に入りよく主家を助けて刻苦精励すること六十年、遂に同店が東亜の産業貿易界の王座を占めるに至らせ、その声明を世界に轟かせたのである。この間、君が発揮した手腕と力量は、我が実業界中他に比肩すべきものはなく、正に当代の偉観であったが、君はただそれだけでなく、政事外交方面においても非凡な卓見と力量を有していたが、これまた世間周知の事実である。
しかしながら有為転変、栄枯盛衰は世の常である。第一次欧州大戦後、全世界を覆った大恐慌と関東大震災以来打ち続く財界不況の煽りを受けて鈴木商店もまた少からざる痛手を被り、ほとんど再起不能の悲運に遭遇したのである。それでも君はこの怒涛狂乱に遭っても屈せず、老躯を提げて敢然と立ち上がり、日夜精進健闘してほとんど寧日なき有り様であった。そしてその功はむなしからず、まさに盛運回復の彼岸に漕ぎ着こうとした刹那、君は幾多の抱負を残して溘焉として逝ったのである。実に千秋の恨事と言わなければならない。
君は資性剛穀朴訥にしてしかも果断に富み、創意工夫の天分に恵まれていた。君の計画創始した事業施設は数十種の多さに及んでいるが、そのすべてはほとんどが君の独創工夫に関わるものである。
君はまた情味まことに厚く、主家に対しては終始一貫極めて忠実に仕え、その反面己を持すること甚だ薄く、子孫のためには全く美田を買わず、滅私奉公、常に清貧に安んじたことは世間まれに見る廉潔の士にして一世の師表であった。私は君を智情意の三者が健全に発達した偉傑であったと称えたい。
今や国歩艱難の秋、しかも廃墟経済復興の急を要する今日、私は君のような達識堪能な偉人の出現を待望してやまない。ねがわくは後進諸君は本書により、この一先覚者の業績を詳らかにし、諸業における進路の指標として君の抱懐を仔細に研究するならば、けだし時局匡救のために金玉の智識や資料を収得し、啓沃されるところ多大なるものがあろうと信じる。
ここに金子君の伝記編纂されるにあたり、追憶の念真に切なるものあり、編者に請われるままに所蔵の一端を述べて序とする次第である。
緒言
金子柳田両翁頌徳会の一事業として両翁の伝記を編纂することとなり、私にその編纂が委嘱されましたが、私は鈴木商店にも関係なくまた重厚なる商傑柳田翁に一面識もありません。まして金子翁のような我が財界不世出の偉人の伝記を書してその全貌を余蘊なく描写することなどは私のような浅学凡慮の者には到底なしがたいところであります。しかし、私は商売以外の点で常に翁のご愛顧を受けていたのでその片鱗ぐらいは観察できるであろうと言うことと、私が日本財界人として一番翁を崇拝尊敬しておりました点、また、わたしの先祖が元亀天正の昔伊予金子城の家老職であって、翁の祖先とともに戦死したこと等の関係から先年翁がこの史実を私に書かせられたこともあるので、両翁伝記編纂委員諸氏から是非ともやってみよとの仰せがありましたから、私は一は金子翁の知遇に報いる最後のお勤めであると思い、一は翁は我が実業界の偉人であると同時にその品性篤行が稀に見る聖人であって主家鈴木家に対する忠順遺芳とともに永く後人が亀鑑とすべきものであることを考え、これらの事柄をつぶさに鮮明にし、終戦後ややもすれば思想が悪化しようとする世相に鑑み、万人敬仰の師表でありまた立志伝中の大人物である両翁の事歴を描写しその人となりをあまねく江湖に推奨することは時局匡救の一助と、後進奮起の清涼剤ともなり、いささか世道人心に役立つであろうと思料し、敢えて非力を顧みず、私の余技として寸暇を割き、禿筆を呵して本書の編纂を引き受けるに至ったのであります。
しかしながら金子翁の機略と智謀は到底凡夫の筆では限りある紙面をもってよくその全貌を尽くすことはできないのはもちろんであります。故にその神機妙算等に至っては、私の拙文に拘泥することなくよろしく読者の推察自得の工夫を凝され、自ら無形に見、無声に聴くの妙境に至るのを待つものであります。この苦心、努力、自得があってしかる後にはじめて生きた金子翁なり柳田翁なりの全生涯を伺うことができれば編者の幸い、何ものかこれに過ぐるものはありません。
本書の巻頭に宇垣一成翁および編纂委員代表高畑誠一氏がいずれもご自身が執筆された序文を掲載することができまして、本書に一段の光彩を添えましたことは誠に光栄として感謝措く能わざるところであります。
本書の校正がほぼできた日、八月中旬、金子翁と親交があった松方幸次郎翁を鎌倉長谷に伺い序文を請おうとしましたが、病が重く意識を弁ぜられずこれを果たすことができなかったことを甚だ遺憾に思いました。
本書編纂に当たり編纂委員中、主として高畑誠一氏のお骨折りを煩わし、長崎英造、住田正一両氏のご校閲とご意見を拝聴し、橋本隆正、金子文蔵、柳田義一、同彦次から色々な参考書を拝借し、なおまた、西川玉之助、芳川筍之助両老を訪問して両翁の懐旧談を聞き、また鈴木関係の田宮嘉右衛門、高畑誠一、中井義雄、落合豊一、田中秀夫、楠瀬正一、竹岡筍三、越智望、小川実三郎、竹村房吉、平岡寅太郎その他諸賢から座談会において色々有益な材料を提供され、金光庸夫氏から金子翁に対する面白い記事を氏一流の名文で寄稿され、また両翁の感想文として鈴木岩蔵、金子文蔵、長崎英造、久村清太、田宮嘉右衛門、辻湊、平高寅太郎、西岡啓二、柳田義一、樽谷勘三郎、杉山金太郎、永井幸太郎、高畑誠一、賀集益蔵、浅田長平、小野三郎、森本準一、高橋半助、松島誠、亀井英之助、上村政吉、小川実三郎、柳田彦次、谷治之助、諸氏の玉稿を登載させていただき本書の価値を高めたことは編者が謹んで感謝する次第であります。なお、田代義雄、鈴木正、藤原楚水(東洋経済新聞社)、前田馬城太、清水長郷、倉田平治諸氏らより出版上いろいろな奔走や有益な助言を与えられ、また松嶋誠、青木一葉、滝川儀作、伊藤寿、浅田長平、竹村房吉、松本三平、西岡勢七、武藤作次、武岡忠夫、近藤正太郎、井原美三、荒木忠雄、浅田泉次郎、肥後誠一郎、矢野謙治、狩野蔵次郎、土居英成、寺崎栄一郎、西岡啓二、野並臣夫、安藤珍成、楓英吉、その他の諸氏から多彩な感想文をたまわりましたが、これを本文中に挿入し、あるいは紙面に限りがあることと他の記事と重複する点から、僭越ながら編者において取捨塩梅したことを謹んでお詫びをかね深く御礼申し上げます。
以上のとおり、各方面から折角貴重な玉稿と資料を頂戴しましたので、私としては拮据黽勉いやしくも遺漏がないことを期しましたが、ただただ不文非才のため、意余りあるも力足らず諸賢のご期待を満たすに至らず、かつこの偉大なる両翁の全貌を描写することができなかったことは衷心遺憾に堪えない次第であります。
なお編纂上左の諸点を特におことわり致しておきます。
一、本書の記述はつとめて口語体とし専ら達意を旨として潤色を加えないこととしました。
一、本書中にある人物の氏名は煩雑を避けるため、すべて敬称を用いませんでしたから特にお許しを願っておきます。
一、行文中両翁の幼少を氏とか翁と呼ぶことはふさわしくないので便宜上幼時は彼と呼び、壮年期は氏と呼び、晩年は翁と呼ぶことにいたしました。
一、金子翁の詩藻中の和歌、俳句の中の「之」「而」「江」「茂」「那」等は「の」「て」「え」「も」「な」等に改めました。
一、金子翁の詩藻は主として元秘書椋野武吉氏の集蔵に関わるものから採りました。
一、金子翁の書簡中の送り仮名もすべて前同様に改め、またひらがなとカタカナとを混用した書簡類はすべてこれをひらがなに統一しました。
以上のように沢山の資料がありましたが、編者は柳田翁に一面識もなかったので、翁の私的方面の記事はすべてご令息諸氏からの聞き書きであるので、文中隔靴掻痒な間の抜けた点が多々ありましょうが、これまた私の未熟の致すところとして何卒読者のご了恕を乞う次第であります。
一、金子翁には十数年来の知遇を得、直接ご面語を得たので永い間の翁の直話、および前項諸氏のご高説やその書簡の披見を許され、また事業に関係する公私の文書、秘録、著作等を参考とすることができましたが、幼時の事歴は翁のご舎弟、楠馬翁の直話から採取したのであります。
しかしながら金子翁の機略と智謀は到底凡夫の筆では限りある紙面をもってよくその全貌を尽くすことはできないのはもちろんであります。故にその神機妙算等に至っては、私の拙文に拘泥することなくよろしく読者の推察自得の工夫を凝され、自ら無形に見、無声に聴くの妙境に至るのを待つものであります。この苦心、努力、自得があってしかる後にはじめて生きた金子翁なり柳田翁なりの全生涯を伺うことができれば編者の幸い、何ものかこれに過ぐるものはありません。
本書の巻頭に宇垣一成翁および編纂委員代表高畑誠一氏がいずれもご自身が執筆された序文を掲載することができまして、本書に一段の光彩を添えましたことは誠に光栄として感謝措く能わざるところであります。
本書の校正がほぼできた日、八月中旬、金子翁と親交があった松方幸次郎翁を鎌倉長谷に伺い序文を請おうとしましたが、病が重く意識を弁ぜられずこれを果たすことができなかったことを甚だ遺憾に思いました。
本書編纂に当たり編纂委員中、主として高畑誠一氏のお骨折りを煩わし、長崎英造、住田正一両氏のご校閲とご意見を拝聴し、橋本隆正、金子文蔵、柳田義一、同彦次から色々な参考書を拝借し、なおまた、西川玉之助、芳川筍之助両老を訪問して両翁の懐旧談を聞き、また鈴木関係の田宮嘉右衛門、高畑誠一、中井義雄、落合豊一、田中秀夫、楠瀬正一、竹岡筍三、越智望、小川実三郎、竹村房吉、平岡寅太郎その他諸賢から座談会において色々有益な材料を提供され、金光庸夫氏から金子翁に対する面白い記事を氏一流の名文で寄稿され、また両翁の感想文として鈴木岩蔵、金子文蔵、長崎英造、久村清太、田宮嘉右衛門、辻湊、平高寅太郎、西岡啓二、柳田義一、樽谷勘三郎、杉山金太郎、永井幸太郎、高畑誠一、賀集益蔵、浅田長平、小野三郎、森本準一、高橋半助、松島誠、亀井英之助、上村政吉、小川実三郎、柳田彦次、谷治之助、諸氏の玉稿を登載させていただき本書の価値を高めたことは編者が謹んで感謝する次第であります。なお、田代義雄、鈴木正、藤原楚水(東洋経済新聞社)、前田馬城太、清水長郷、倉田平治諸氏らより出版上いろいろな奔走や有益な助言を与えられ、また松嶋誠、青木一葉、滝川儀作、伊藤寿、浅田長平、竹村房吉、松本三平、西岡勢七、武藤作次、武岡忠夫、近藤正太郎、井原美三、荒木忠雄、浅田泉次郎、肥後誠一郎、矢野謙治、狩野蔵次郎、土居英成、寺崎栄一郎、西岡啓二、野並臣夫、安藤珍成、楓英吉、その他の諸氏から多彩な感想文をたまわりましたが、これを本文中に挿入し、あるいは紙面に限りがあることと他の記事と重複する点から、僭越ながら編者において取捨塩梅したことを謹んでお詫びをかね深く御礼申し上げます。
以上のとおり、各方面から折角貴重な玉稿と資料を頂戴しましたので、私としては拮据黽勉いやしくも遺漏がないことを期しましたが、ただただ不文非才のため、意余りあるも力足らず諸賢のご期待を満たすに至らず、かつこの偉大なる両翁の全貌を描写することができなかったことは衷心遺憾に堪えない次第であります。
なお編纂上左の諸点を特におことわり致しておきます。
一、本書の記述はつとめて口語体とし専ら達意を旨として潤色を加えないこととしました。
一、本書中にある人物の氏名は煩雑を避けるため、すべて敬称を用いませんでしたから特にお許しを願っておきます。
一、行文中両翁の幼少を氏とか翁と呼ぶことはふさわしくないので便宜上幼時は彼と呼び、壮年期は氏と呼び、晩年は翁と呼ぶことにいたしました。
一、金子翁の詩藻中の和歌、俳句の中の「之」「而」「江」「茂」「那」等は「の」「て」「え」「も」「な」等に改めました。
一、金子翁の詩藻は主として元秘書椋野武吉氏の集蔵に関わるものから採りました。
一、金子翁の書簡中の送り仮名もすべて前同様に改め、またひらがなとカタカナとを混用した書簡類はすべてこれをひらがなに統一しました。
以上のように沢山の資料がありましたが、編者は柳田翁に一面識もなかったので、翁の私的方面の記事はすべてご令息諸氏からの聞き書きであるので、文中隔靴掻痒な間の抜けた点が多々ありましょうが、これまた私の未熟の致すところとして何卒読者のご了恕を乞う次第であります。
一、金子翁には十数年来の知遇を得、直接ご面語を得たので永い間の翁の直話、および前項諸氏のご高説やその書簡の披見を許され、また事業に関係する公私の文書、秘録、著作等を参考とすることができましたが、幼時の事歴は翁のご舎弟、楠馬翁の直話から採取したのであります。
編著 白石友治
金子直吉年譜
※小さいフォントは国家的重要事。それ以外は経歴
慶応2年 | 1才 | 6月13日高知県吾川郡名野川村に生まれる。 父金子甚七(45才)(高知藩免許商人)、母タミ(40才) |
同3年 | 2才 | 弟楠馬誕生 長州再征、大政奉還、王政復古 |
明治元年 | 3才 | 鳥羽伏見の戦い、五箇条の御誓文煥発 |
同2年 | 4才 | 聖上東京行幸、東京横浜間電信開通 |
同3年 | 5才 | 英、仏、米に行使を置く |
同4年 | 6才 | 高知市に移り住む 廃藩置県 |
同5年 | 7才 | 学制頒布 鉄道開通 |
同6年 | 8才 | 徴兵令発布 征韓論 |
同7年 | 9才 | 佐賀の乱 台湾征伐 |
同8年 | 10才 | 千島樺太の交換 |
同9年 | 11才 | 紙くずを買い歩く 帯刀禁止、熊本萩の乱 |
同10年 | 12才 | 長尾という砂糖屋の丁稚となる 西南の役 東京大学創立 西田よね鈴木岩治郎に嫁す。二代目岩治郎誕生 |
同11年 | 13才 | 乾物商野中幸右衛門方に雇われる 参謀本部設置 |
同12年 | 14才 | 5月金子夫人徳子誕生 |
同13年 | 15才 | 春、野中の店を退店しまた長尾砂糖店に戻る この年質商傍士久万次方に雇われる |
同14年 | 16才 | 1月鈴木岩治郎の先主松原恒七逝去 国会設置詔書下る |
同15年 | 17才 | 刑法実施 日本銀行設立 |
同16年 | 18才 | 岩倉具視薨去 |
同17年 | 19才 | 鈴木岩蔵誕生 第二回朝鮮京城の変、横須賀鎮守府を置く |
同18年 | 20才 | 主家傍士氏のため弁護士北川貞彦を向こうに回し法廷に立ち訴訟に勝つ。2月柳田富士松、鈴木商店に入る。内閣制度を定める。天津条約成立 |
同19年 | 21才 | 4月12日父甚七退隠。傍士久万次や菜園場の久保芳太郎らの推薦で神戸に出て鈴木商店(栄町4丁目45番屋敷)に雇われる 日本赤十字社創立 |
同20年 | 22才 | 政府各地富豪に献金を慫慂 |
同21年 | 23才 | 枢密院創立 |
同22年 | 24才 | 憲法発布 鉄道神戸新橋間開通 |
同23年 | 25才 | 初めて帝国議会が開かれる 教育勅語が下付される |
同24年 | 26才 | 濃尾地方大震災死者7200余名 |
同25年 | 27才 | 鈴木岩治郎、日向土佐から砂糖を買いこれを売りさばく |
同26年 | 28才 | 鈴木岩治郎、樟脳の販売・製造を計画する |
同27年 | 29才 | 6月15日鈴木商店先代主人岩治郎死亡。干時よね女43才(嘉永5年生)。よね未亡人を助けて店舗を支配する |
同28年 | 30才 | 下関条約成立 三国干渉が起こる |
同29年 | 31才 | 弟楠馬氏結婚入籍。この頃松島誠、鈴木商店入店 |
同30年 | 32才 | 6月鈴木の資本10万円となる |
同31年 | 33才 | 1月6日父甚七死亡77才(文改9年1月生) |
同32年 | 34才 | 台湾樟脳専売法発布 |
同33年 | 35才 | この頃台湾の樟脳の販売が鈴木商店と台湾貿易会社に許可される。住居は雲井通り樟脳会社内だった。 この頃台湾に行く。この年春傍士亀寿妹徳(21才)と結婚する |
同34年 | 36才 | 11月長男文蔵誕生 |
同35年 | 37才 | 11月資本金50万円で鈴木商店の組織を合名会社に改め責任社員となる。当時鈴木商店の所在地は栄町通3丁目。この年雲井通に初めてハッカの工場を設ける。けだし鈴木商店最初の工場経営となった。採錫工場を興す |
同36年 | 38才 | 大里製糖所創立。小林製鋼所に投資する |
同37年 | 39才 | 鈴木商店が住友樟脳製造所を買収する |
同38年 | 40才 | 1月大里製糖所へ視察に行く。田宮に小林製鋼所から引き受けるかも知れないと語る。9月18日次男武蔵誕生。9月小林製鋼所を買収し神戸製鋼所と改称する。10月1日田宮初めて小林製鋼所に出勤する 児玉源太郎薨去 |
同39年 | 41才 | ロシアから樺太北緯50度以南を受領する |
同40年 | 42才 | 痔の手術を行ったが出血が激しく、それ以来貧血の症状がある。竹村房吉が鈴木商店に入る 日韓条約および日露協約成立 |
同41年 | 43才 | 村橋素吉に命じて樟脳油の製造を研究させる。桂首相および後藤男と砂糖のことを論ずる 戊辰詔書下る |
同42年 | 44才 | 大里製糖工場を大日本製糖に650万円で売り、北海道、九州、山陰、山陽、朝鮮における砂糖の販売権を獲得する。東工業株式会社、大日本藍業株式会社、合同油脂株式会社、日本商業株式会社等創立。12月13日依岡省輔、金子の口頭試問にパスし鈴木商店に入る |
同43年 | 45才 | 北港製糖株式会社、再製樟脳株式会社設立。株式会社神戸製鋼所(資本金1150万円)を創立しその創立総会を開く。44年6月28日役員会の結果、社長に黒川勇熊、取締役に依岡省輔、田宮嘉右衛門、監査役に吉井孝蔵、鈴木岩治郎当選就任する |
同44年 | 46才 | 1月9日三男猪一誕生。株式会社大里製粉所および帝国ビール株式会社、東亜煙草株式会社等設立。札幌製粉株式会社設立。1月日沙商会の依岡省三逝去 |
同45年 | 47才 | 東洋海上火災設立。関東州普蘭店藍田開設。 明治天皇崩御 乃木大将殉死 |
大正2年 | 48才 | 日本酒類醸造株式会社、日本製粉株式会社、日本酒精醸造株式会社、日本輪業株式会社(現日輪ゴム工業株式会社)、山陽電気鉄道株式会社、大正生命保険、日本教育生命保険等設立。この年鈴木商店は東川崎町1丁目に移る |
同3年 | 49才 | 2月大正生命保険株式会社監査役となり、大正7年2月に至る。明治44年以来帝国麦酒株式会社監査役だった |
同4年 | 50才 | 南洋製糖株式会社、日本金属株式会社、播磨造船所、沖見初炭坑株式会社等創立 |
同5年 | 51才 | 株式会社六十五銀行、日本セルロイド株式会社、日本クロード式窒素肥料株式会社、帝国染料株式会社等創立。満鉄から大連油房を譲り受ける |
同6年 | 52才 | 明治41年頃から研究中の樟脳油の製造が完成する。台湾炭業株式会社、南朝鮮鉄道、東洋ファイバー株式会社、株式会社浪華倉庫、信越電力株式会社、大田川水電株式会社等の設立に関与する |
同7年 | 53才 | 8月米騒動が起こる。日本冶金株式会社、旭石油株式会社、大陸木材株式会社、東洋燐寸株式会社、帝国樟脳株式会社、支那樟脳株式会社、長府土地株式会社等を設立。2月、日本樟脳株式会社取締役となり昭和8年4月に至る。横浜、清水港、鳴尾で製油工場を始める。米国大使モリスと日米船鉄交換問題を協議して成功させ官から正六位に叙せられる。母堂タミ逝去。享年92才 |
同8年 | 54才 | 7月国際汽船株式会社取締役となり9年2月に至る。帝国炭業株式会社、太陽曹達株式会社、米星煙草株式会社等を設立する |
同9年 | 55才 | 当時、鈴木商店は海岸通1丁目10番地に移る。帝国人造絹糸株式会社、新日本火災保険株式会社等設立。国際汽船株式会社会長に就任。昭和2年10月に至る。この年鈴木商店の資本金を5000万円に増資し製鋼を初め金属精錬、造船、人絹、毛織、セルロイド、窒素肥料、染料、皮革、製糖、製藍、製粉、製油、毛織、樟脳、ゴム、麦酒、酒精、マッチ、煙草、鉱工業、英領ボルネオのゴム栽培ならびに海運、倉庫、保険業等にわたり経営する |
同10年 | 56才 | 東京無線電機株式会社、株式会社東海製油所を設立 |
同11年 | 57才 | 4月4日伏見宮貞愛親王殿下が全国の実業家を招き午餐会を催され神戸から金子と川西清兵衛の二人が出席する。4月20日、豊年製油株式会社創立。この年鈴木商店は財政窮迫に陥り、金子は債権者と折衝の時に窓外の桜を眺め「背水の陣屋を囲む桜かな」と詠む |
同12年 | 58才 | 3月、株式会社鈴木商店(資本金8000万円)専務取締役、鈴木合名会社(資本金5000万円)理事となる。9月1日震災。鈴木商店は東京に買い付けておいた木材100万円を東京市に寄付する他、大工を東京に派遣し永大橋を修理架橋させる。井上蔵相の斡旋により12月、杉山金太郎氏に豊年製油株式会社の件について会談する。鈴木商店はこの事業から手を引く。 |
同13年 | 59才 | 5月、豊年製油会社を杉山金太郎らの経営に渡す。 東京中央放送局設立。6月11日三派内閣成立、加藤首相薨去 若槻内閣成立、濱口内務大臣となる |
同14年 | 60才 | 普通選挙法制定 |
同15年 | 61才 | 5月8日先代鈴木岩治郎33回忌金子の弔詞あり |
昭和元年 | 61才 | 大正天皇崩御 |
同2年 | 62才 | 鈴木商店破綻。鈴木薄荷株式会社、東神興業株式会社等設立 ジュネーブ軍縮会議 大正天皇大喪 |
同3年 | 63才 | 当時、鈴木商店は栄町3丁目に移る 今上天皇御即位式 普通選挙第一回総選挙 |
同4年 | 64才 | サラワクのラジャ・ヴァイナーブルック卿来朝。2週間にわたる日本滞在中日沙商会にて名勝を案内する。この機会にレジャン河流域の調査、日本農民の移民および水田米作の問題を議す 不戦条約成立 10月濱口内閣金解禁 |
同5年 | 65才 | 日沙商会にてサラワクのレジャン河流域調査 ロンドン軍縮会議 |
同6年 | 66才 | 9月、太陽曹達株式会社相談役就任。昭和14年7月まで。引き続き日沙商会員をサラワクに派遣 満州事変が起こる。12月25日金輸出禁止 |
同7年 | 67才 | 昭和8年以来マレー半島のボーキサイトの調査の稼行を企てる 満州建国、上海事変 |
同8年 | 68才 | 10月9日、孫たみ(武蔵長女)誕生。秋、松尾晴見、藤森馨らを協力させ白石友治を信州へ派遣し、松本市外で馬場氏(金子氏先祖の母系)の深志城、蓮名寺等祖先関係の事項を調査させる 9月20日、孫惠子(文蔵長女)誕生 |
同9年 | 69才 | 5月、白石友治に祖先金子備後守伝を著作させ、また土佐に遣わし、馬場系図関係を調査させる。8月、伊予窯業株式会社再興を引き受ける 12月、ワシントン条約が破棄される |
同10年 | 70才 | 6月、祖先金子備後守贈位請願のため、白石友治に関係者に調印を求めさせ愛媛県庁に提出させる 9月22日、孫国(猪一長女)誕生 |
同11年 | 71才 | 2月15日、孫直道(文蔵長男)誕生。西豪州の鉄鉱を調査させる。3月22日、甥孫(丑蔵の子)直伝誕生 2月、226事件起こる 軍縮会議脱退 |
同12年 | 72才 | 盧溝橋事件から日支事変が起こる 日独伊防共協定が成立 12月、鈴木商店関係者から金子に喜寿を祝い寿像が贈られる。金子これに謝辞を送るの句に曰く 「幸いに盗人に似ず我が姿友の惠のありがたきかな」 3月7日、孫甚一(猪一長男)誕生。10月14日甥甚蔵妻園花入籍。11月3日、孫すず(武蔵二女)誕生。空冷式自動車装置ならびに消音装置の特許を日、英、米、独、伊、露6か国に出願して許可される |
同13年 | 73才 | 国家総動員法公布 張鼓峰事件起こる |
同14年 | 74才 | 7月、太陽産業株式会社相談役、昭和19年2月に至る 満州国日独伊防共協定に参加する |
同15年 | 75才 | ジャワの砂鉄を調査させる。頃年大陸運河計画を目論む |
同16年 | 76才 | 右大陸運河計画の調査を行わせる 12月8日、日本海軍ハワイ・ホノルル奇襲 |
同17年 | 77才 | 漁業農業の件につき、舟山列島を調査しようとするも成らず |
同18年 | 78才 | 夏、東京で風邪にかかり神戸御影に帰り療養する。これ以来病床に親しみがちとなる |
同19年 | 79才 | 正月頃再起不能を自覚したらしい。2月26日ツンドラ事業の画策を認めた書簡を鈴木正に発送する。2月18日セメント、アルミナ事業に関し近藤正太郎に書状を認めて発送する。蓋し絶筆になった。2月26日未明逝去 |
金子氏の祖先
金子氏は桓武天皇から出た平氏の後裔で、その発祥の地は武蔵国入間郡である。武蔵七党の中、村山党の旗頭として、保元、平治から頼朝崛起の頃、一騎当千の勇士として驍明を輝かせた金子十郎家忠が、氏の祖先である。家忠の孫、三郎広家承久の乱の戦功により、旧領武蔵入間郡阿主の外、伊予新居郷(承久の乱に敗れた河野通信の旧領地の一部)を受領し、その子広綱がこの分領地に入り橘江城に居り、居村河内村を金子村と改称し、代々ここに住んだ。その子孫の十一代目金子備後守元宅という元亀は、天正の頃、東伊予に雄飛し、智勇抜群の名将だったが、天正十三年豊臣秀吉が四国の長宗我部元親を征服するに際し、その部将小早川隆景と戦い衆寡敵せずで一族郎党六百余人とともに高尾城外野々市で戦死した。その子は五子いて皆土佐に逃れ、長宗我部元親によって厚遇された。
桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王―良文―忠頼―忠恒―恒親―頼任―頼家―家範―家忠―家高―廣家―廣綱―頼廣―康廣―忠綱―元綱―網明―元継―元忠―元家―元信―元成―元宅(金子備後守)―新発智丸―唯元―唯次―明唯―盈唯―唯俊―唯攸―唯久―唯直―直吉
以上のように、金子新発智丸は馬場甚左衛門の養子となり馬場家を継ぎ、唯元、唯次、唯明、唯盈と五代は馬場氏を称し、唯俊の時、文政五年から旧姓の金子に改めたのである。
「金子備後守元宅」の著者白石友治は昭和九年五月二日、土佐に至った。妙国寺は伝兵衛唯元の墓を弔っており、表面には夫妻の法名があり、裏面には馬場伝兵衛唯元墓と刻んであった。普通の墓石よりも高く屹然とした趣があり、どうしても千石以上の士人で、生前何らかの勲功があった人と思われる。
寛政何年かに馬場甚助が藩庁に差し出した年譜書によると「伝兵衛儀浪人相立申候」と記してある。しかし、彼は決して単なる素浪人ではなく、またいたずらに長刀を撫でて所在に物騒な空気を漂わすような浪人でもなく、至極穏健な常識の持ち主で、その態度は鷹揚としており、押しも押されぬ男子であった。終始ひとつの目的を蔵し、いつも当時の上流と交わり、なんらかの仕事に従事していた。また上流の士人は彼の才幹を知り、他日何かの場合、重要な事業を託すべき男であるとみなし、常に少し宛の用事を与え関係を保っていたらしい。
しかし、金子家の伝説には伝兵衛には二人の弟がおり、伝兵衛はその長男であった。弟らは武士の家に生まれたのだから侍になると言ったが、伝兵衛は一人これを聞かず、私は武士であることを欲せず、町人になると言って遂に浪人を立てたのである。思うに、彼が成年に達し、ようやく東西を弁じた頃には、武士の真価は最早慶長元和で終わりを告げ、まさに偃武時代に達しようとする時であったから、彼はこの時勢を見て、その身は武士の資格を備えていたが、泰平の将来武士になるよりも町人となり時勢に順応して思うがままにその抱懐を展べようと心中深く思い定め、武士階級にのしをつけたのである。
そうでありながら、全くの丸腰にも成り兼ね、いわゆる士魂商才を実行するつもりで壮心しきりな折り、たまたま自分の叔母が藩の君側にあることを利用して高知藩の権門に出入りし何らかの御用を承り、ひそかに産を作り富を蓄えていたのである。それは彼の死後金子家数代約百五十年間は高知城の富豪と言われ、分限者と称せられ、最も富裕な歳月を送ったのも皆伝兵衛遺産の余沢である。そしてまた浪人伝兵衛が当時の社会に重要され、その貫禄を認められていたことは、時の山内家国老百々伊織安集から伝兵衛へ宛てた書状からもわかる。この書面は奉書紙で丁寧に認められ儀礼を尽くしたもので、しかも帰宅の上御目にかかり話をしようといったように、当時最も権威があった国老から一浪人へ送った書面としては一寸破格のものである。また当時伝兵衛が何事かひとつの仕事をやっていたことは、山内家の老臣百々伊織が伝兵衛から年頭の祝儀として牡蠣をもらった礼状の末文に、大変多忙で年始の例にもこられないとのことはもっともである云々と記してある。すなわち、これによって見るも彼は遊んで食っていたただの浪人ではなかったことを想像し得る。また、山内家の老臣および諸奉行らの連著になる売米御算用書を一見すると、一入その奥底の知れない偉大さが知れる。すなわち、これは当時の仕置役および各奉行らが伝兵衛に与えた計算書である。これを一見すると伝兵衛が藩庁から剰余米を買い受けた計算書のように思われるが、熟覧すると各奉行が署名し、最後に勘定奉行が加判し仕置役が奥書をなし、伝兵衛に与えた書類であって、単なる売下米の計算書ではない。果たしてしかし、官尊民卑の時代において、このような藩の重役が連著してその相違がないないことを保証し、買受人である一浪人に交付するといったようなことは絶対にない。もし売米の依託を受けていたものとすれば、反対に伝兵衛からかくのごとくであるという計算書を藩庁に差し出すべきはずのものである。しかしこの計算書はまたその反対で買受人に対して後日間違いを発見したならば責を負うという書類を、しかも各奉行と勘定方と御仕置役から渡しているのである。ここにおいて伝兵衛がいかなる地位にいたのか判らないが、いずれにしてもこの場合は伝兵衛の方が少し強い地位にあり、今日の言葉で言えば債権者のような資格に見える。そしてこの仕置役の安田弥右衛門と岡田嘉右衛という人は野中兼山の次期の御仕置役である。このような人が一浪人の伝兵衛にこの計算書を渡したということは誠にもって解し難いことである。
しかしこの書類が出来た時代に伝兵衛はどこにいたかというと、大阪にいたようである。すなわち南路誌百八執政孕石小左衛門日記寛政十一年の条下に豊政公の仰せによる、黄鷹代銀二貫六十三匁、大阪において御横目馬場伝兵衛より相渡候由、渡辺忠左衛門吉田伊右衛門より申し来る云々。また豊政公から小池坊に銀十枚遣わされ、頼母兵庫書状相添え大阪から馬場伝兵衛持参するよう申し付ける云々の記事がある。これによると伝兵衛は当時大の蔵屋敷におり金融上の事を扱っていたものと思われる。しかし上記のように御横目とあるが、これは何かの方便でこう記したもので、身分は年譜書にあるよう浪人で無禄無官であったろう。しかし、当時の土佐藩は非常に貧乏で京都大阪あたりで借金ばかり続けており日々の支払いにも困った時代であった。伝兵衛に理財の才識と信用があるのを幸いとし、彼に仮の資格をつけ、藩から大阪の金融を担当させていたものと思われる。そしてこの仕事は大阪における藩の支払いは金の有無にかかわらず、伝兵衛が他に才覚するかまたはこれを立て替えて支払いを了し、他日土佐から送って来る物産の売上金で相殺するような仕組みであったらしい。伝兵衛はこの仕事が自己の適任と考え大いに喜んで熱心に働いていたらしい。ここにおいてこの売米計算のような藩の米稟にある米を売り下げてその代銀を納付させたものではなく、伝兵衛の方からいうと、大阪において藩に対し米代金の前渡しをしておいて、その後に米を送らせ、それを受け取って売却し、前渡しと相殺したのである。すなわちこの書類はその計算書であるから、このように主客転倒の奇観を呈しているのである。
そして伝兵衛はいかなる素性の者であったかというと、前掲の系図にあるように金子備後守元宅の孫で、その父は元宅の末子でおしめの中から伊予国新居郡氷見を領した金子新発智(後の勘介)である。新発智は金子城落去の後、土佐に来た姉かね女、兄専太郎、毘沙寿、鍋千代等と群居しており、慶長の初め大忍庄王寺村西光名付近に住む馬場甚右衛門(「信玄公人数積之巻」にある越中先方衆にして馬場美濃守信房の弟で兄の与力を勤めた人である)の婿となり、馬場勘介と称するに至った。そして諸兄の中には長宗我部盛親に従い大阪陣に参加した者もあり、また、伊予に帰り亡き父の後を弔った者もあり、あるいは旧領地に住んで昔の領民の間で月日を送った者もあるだろう。
勘介は後年養父馬場甚右衛門の命により信州の松本に赴き、美濃守信房の遺産を整理し、後馬場家の菩提寺だった蓮名寺の僧を伴って伊予国氷見の旧領地に帰り、蓮生庵なるものを建立し寛永三年丙寅極月十八日ここに生涯を遂げたのである。この蓮生庵は後蓮生寺と改めさらに昌林寺と改称し今日なお現存しており、勘介の墓は今なおこの寺に残っている。しかし、勘介には四男一女がおり、はじめは氷見に親子が同棲していたと思われる。そして、長子を伝兵衛といい、次男が甚右衛門秀政で、その次の名は分からないがとにかく長男の伝兵衛は前述のとおり武士であることを欲せず町人になると言って土佐に赴き、伯母かね女の推薦により山内家の要路に知られ、後に大阪に出たのである。弟の某々等はそれと反対に武士を志願しやはり高知に出て山内侯に仕えた。そして伝兵衛は土佐における同族の遺産や松本における美濃守の遺産ならびに伊予における祖父の遺産を大阪に集め、かなり多大な資産で大仕事をしようと志した。時偶々高知藩が大変な貧乏で大阪の蔵屋敷に敏腕で信用のある理財家を要するというので、伝兵衛はこれに採用され、土佐藩の御用を承ることになったのである。
しかし当時の土佐藩は前述のとおり貧乏であるから、常に国産の紙、鰹節、木材、米等を大阪に送り、これを蔵屋敷で販売させ、その収入で参勤交代の費用や藩内の必需品を買い入れた代金を支払っていたのである。しかし、常に収入よりも支出の方が多大なため、この大阪の蔵屋敷の当事者はいつも大阪の町人から借金を行い、その不足を補い、その後に土佐から送られた国産を売り払い、その代金を払っていかなければならないので、なかなか至難な役目で、表面は藩の中老とか家老とかいうものが担当していたけれども、かくのごとく資格の人では少し挺に合わない。ここにおいて伝兵衛がその次席とか何とか言う役目に任ぜられ、実際の繰り回しを彼が扱っていたものと思われる。ゆえに、伝兵衛はこの仕事につき、大阪の町人から時に借金もしたであろうが、また自分の蓄財もその中にやっていたもので、前掲の計算書のようなものはすなわちその一例を物語るものであろう。
これを要とし、伝兵衛はこれらの仕事を鞅掌しつつひとつの意図を有していたらしい。いまだ佳境に入らず志業央にして大阪で客死したものと思う。彼が常に当時の国老その他から重んぜられたのはおそらくその知力よりも財力だったであろう。そして、その資源は伊予、土佐、信州等から祖父の遺産を集めたものであって、彼の嗣子甚介以下三代の間殷富を極め、財力で地方に鳴らしたのは実にその余沢であった。
ちなみに、伝兵衛が大阪で死んだであろうというのは、前説山内家家老孕石氏の日記によるも寛文十二年、彼が大阪にいたことは明らかであり、彼はその後わずかに一、二年を隔て延宝元年一月死去したことと、彼の墓は彼よりもはるか後に死んだ妻との合葬であると家伝に書かれており、また金子直吉氏が幼時、父老とともに彼の墓を詣で、これは空墓であるかも知れないと聞かされたということを聞き、著者は、伝兵衛はどうも晩年大阪において客死したように思う。
この伝兵衛唯元の生涯と人となりは金子翁の鈴木商店に対する一生と酷似している。金子翁が後藤新平伯、大隈重信侯、寺内正毅伯、濱口雄幸、井上準之助氏らと親交を結び我が実業界に財政的手腕を振るったように伝兵衛唯元も徳川時代の大藩山内家の国老および奉行等と相親眤して土佐の財政窮乏を整理した手腕と全く類似点があったので、翁は特にこの人物に心酔し右に掲げた伝兵衛唯元伝は翁自ら調査し大部分は翁の手記にかかるものであるから、特に全文を記載することとした(詳細は白石友治著「金子備後守元宅」参照)。
ことの序に金子翁母系の先祖馬場氏のことも記しておこう。
甚右衛門―甚内(夭逝)、女子(婿金子新発智後馬場勘介と称す)
この馬場甚右衛門は竹田勝頼が天目山で滅ぼされた天正十年以後、一族相携え竹田の遺族と共に土佐に来て長宗我部に仕えたのである。甚右衛門の兄馬場信房は初名教来石民部少輔景政といったが、後に武田家の名将馬場氏の明跡が絶えたのを信玄の命により継ぎなお信玄の偉字を授けられ信房という。世々教来石・白須、台が原、三吹、逸見の小渕沢等を伝領し武田七隊将の一人で智謀衆で越える者はいないが、天正三年五月二十一日三河長篠において壮烈な戦死を遂げた。時に六十二歳だった。墓は甲州武川筋白須村自元寺《美濃守開墓》と戦死した付近の三河国田口福田寺にあり、その子民部少輔氏員が引き継ぎ、深志城《松本》に在番するも天正十年《壬午の乱》勝頼天目山に滅ぼされた時深志城も落城した。
信房は信虎の時十八才で初陣し、二十五才から信玄に仕え勝頼に至るまで三代の間いずれの戦にも真っ先に馳駆して抜群の功名を顕すこと二十一回、勝負の運命を制するほどの働きを為すこと九回に及ぶも長篠陣まで未だ身にひとつの傷も受けたことがなかった。金子翁も昭和二年まで実業場裏千軍万里の間を往来して擦り傷ひとつ受けなかったのと機をいつにするが、翁もこの信房を崇拝し昭和九年長篠の古戦場を弔い、福田寺に信房の墓を展し、写真を撮り白石友治著「金子備後守元宅」伝中に挿入した。
桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王―良文―忠頼―忠恒―恒親―頼任―頼家―家範―家忠―家高―廣家―廣綱―頼廣―康廣―忠綱―元綱―網明―元継―元忠―元家―元信―元成―元宅(金子備後守)―新発智丸―唯元―唯次―明唯―盈唯―唯俊―唯攸―唯久―唯直―直吉
以上のように、金子新発智丸は馬場甚左衛門の養子となり馬場家を継ぎ、唯元、唯次、唯明、唯盈と五代は馬場氏を称し、唯俊の時、文政五年から旧姓の金子に改めたのである。
「金子備後守元宅」の著者白石友治は昭和九年五月二日、土佐に至った。妙国寺は伝兵衛唯元の墓を弔っており、表面には夫妻の法名があり、裏面には馬場伝兵衛唯元墓と刻んであった。普通の墓石よりも高く屹然とした趣があり、どうしても千石以上の士人で、生前何らかの勲功があった人と思われる。
寛政何年かに馬場甚助が藩庁に差し出した年譜書によると「伝兵衛儀浪人相立申候」と記してある。しかし、彼は決して単なる素浪人ではなく、またいたずらに長刀を撫でて所在に物騒な空気を漂わすような浪人でもなく、至極穏健な常識の持ち主で、その態度は鷹揚としており、押しも押されぬ男子であった。終始ひとつの目的を蔵し、いつも当時の上流と交わり、なんらかの仕事に従事していた。また上流の士人は彼の才幹を知り、他日何かの場合、重要な事業を託すべき男であるとみなし、常に少し宛の用事を与え関係を保っていたらしい。
しかし、金子家の伝説には伝兵衛には二人の弟がおり、伝兵衛はその長男であった。弟らは武士の家に生まれたのだから侍になると言ったが、伝兵衛は一人これを聞かず、私は武士であることを欲せず、町人になると言って遂に浪人を立てたのである。思うに、彼が成年に達し、ようやく東西を弁じた頃には、武士の真価は最早慶長元和で終わりを告げ、まさに偃武時代に達しようとする時であったから、彼はこの時勢を見て、その身は武士の資格を備えていたが、泰平の将来武士になるよりも町人となり時勢に順応して思うがままにその抱懐を展べようと心中深く思い定め、武士階級にのしをつけたのである。
そうでありながら、全くの丸腰にも成り兼ね、いわゆる士魂商才を実行するつもりで壮心しきりな折り、たまたま自分の叔母が藩の君側にあることを利用して高知藩の権門に出入りし何らかの御用を承り、ひそかに産を作り富を蓄えていたのである。それは彼の死後金子家数代約百五十年間は高知城の富豪と言われ、分限者と称せられ、最も富裕な歳月を送ったのも皆伝兵衛遺産の余沢である。そしてまた浪人伝兵衛が当時の社会に重要され、その貫禄を認められていたことは、時の山内家国老百々伊織安集から伝兵衛へ宛てた書状からもわかる。この書面は奉書紙で丁寧に認められ儀礼を尽くしたもので、しかも帰宅の上御目にかかり話をしようといったように、当時最も権威があった国老から一浪人へ送った書面としては一寸破格のものである。また当時伝兵衛が何事かひとつの仕事をやっていたことは、山内家の老臣百々伊織が伝兵衛から年頭の祝儀として牡蠣をもらった礼状の末文に、大変多忙で年始の例にもこられないとのことはもっともである云々と記してある。すなわち、これによって見るも彼は遊んで食っていたただの浪人ではなかったことを想像し得る。また、山内家の老臣および諸奉行らの連著になる売米御算用書を一見すると、一入その奥底の知れない偉大さが知れる。すなわち、これは当時の仕置役および各奉行らが伝兵衛に与えた計算書である。これを一見すると伝兵衛が藩庁から剰余米を買い受けた計算書のように思われるが、熟覧すると各奉行が署名し、最後に勘定奉行が加判し仕置役が奥書をなし、伝兵衛に与えた書類であって、単なる売下米の計算書ではない。果たしてしかし、官尊民卑の時代において、このような藩の重役が連著してその相違がないないことを保証し、買受人である一浪人に交付するといったようなことは絶対にない。もし売米の依託を受けていたものとすれば、反対に伝兵衛からかくのごとくであるという計算書を藩庁に差し出すべきはずのものである。しかしこの計算書はまたその反対で買受人に対して後日間違いを発見したならば責を負うという書類を、しかも各奉行と勘定方と御仕置役から渡しているのである。ここにおいて伝兵衛がいかなる地位にいたのか判らないが、いずれにしてもこの場合は伝兵衛の方が少し強い地位にあり、今日の言葉で言えば債権者のような資格に見える。そしてこの仕置役の安田弥右衛門と岡田嘉右衛という人は野中兼山の次期の御仕置役である。このような人が一浪人の伝兵衛にこの計算書を渡したということは誠にもって解し難いことである。
しかしこの書類が出来た時代に伝兵衛はどこにいたかというと、大阪にいたようである。すなわち南路誌百八執政孕石小左衛門日記寛政十一年の条下に豊政公の仰せによる、黄鷹代銀二貫六十三匁、大阪において御横目馬場伝兵衛より相渡候由、渡辺忠左衛門吉田伊右衛門より申し来る云々。また豊政公から小池坊に銀十枚遣わされ、頼母兵庫書状相添え大阪から馬場伝兵衛持参するよう申し付ける云々の記事がある。これによると伝兵衛は当時大の蔵屋敷におり金融上の事を扱っていたものと思われる。しかし上記のように御横目とあるが、これは何かの方便でこう記したもので、身分は年譜書にあるよう浪人で無禄無官であったろう。しかし、当時の土佐藩は非常に貧乏で京都大阪あたりで借金ばかり続けており日々の支払いにも困った時代であった。伝兵衛に理財の才識と信用があるのを幸いとし、彼に仮の資格をつけ、藩から大阪の金融を担当させていたものと思われる。そしてこの仕事は大阪における藩の支払いは金の有無にかかわらず、伝兵衛が他に才覚するかまたはこれを立て替えて支払いを了し、他日土佐から送って来る物産の売上金で相殺するような仕組みであったらしい。伝兵衛はこの仕事が自己の適任と考え大いに喜んで熱心に働いていたらしい。ここにおいてこの売米計算のような藩の米稟にある米を売り下げてその代銀を納付させたものではなく、伝兵衛の方からいうと、大阪において藩に対し米代金の前渡しをしておいて、その後に米を送らせ、それを受け取って売却し、前渡しと相殺したのである。すなわちこの書類はその計算書であるから、このように主客転倒の奇観を呈しているのである。
そして伝兵衛はいかなる素性の者であったかというと、前掲の系図にあるように金子備後守元宅の孫で、その父は元宅の末子でおしめの中から伊予国新居郡氷見を領した金子新発智(後の勘介)である。新発智は金子城落去の後、土佐に来た姉かね女、兄専太郎、毘沙寿、鍋千代等と群居しており、慶長の初め大忍庄王寺村西光名付近に住む馬場甚右衛門(「信玄公人数積之巻」にある越中先方衆にして馬場美濃守信房の弟で兄の与力を勤めた人である)の婿となり、馬場勘介と称するに至った。そして諸兄の中には長宗我部盛親に従い大阪陣に参加した者もあり、また、伊予に帰り亡き父の後を弔った者もあり、あるいは旧領地に住んで昔の領民の間で月日を送った者もあるだろう。
勘介は後年養父馬場甚右衛門の命により信州の松本に赴き、美濃守信房の遺産を整理し、後馬場家の菩提寺だった蓮名寺の僧を伴って伊予国氷見の旧領地に帰り、蓮生庵なるものを建立し寛永三年丙寅極月十八日ここに生涯を遂げたのである。この蓮生庵は後蓮生寺と改めさらに昌林寺と改称し今日なお現存しており、勘介の墓は今なおこの寺に残っている。しかし、勘介には四男一女がおり、はじめは氷見に親子が同棲していたと思われる。そして、長子を伝兵衛といい、次男が甚右衛門秀政で、その次の名は分からないがとにかく長男の伝兵衛は前述のとおり武士であることを欲せず町人になると言って土佐に赴き、伯母かね女の推薦により山内家の要路に知られ、後に大阪に出たのである。弟の某々等はそれと反対に武士を志願しやはり高知に出て山内侯に仕えた。そして伝兵衛は土佐における同族の遺産や松本における美濃守の遺産ならびに伊予における祖父の遺産を大阪に集め、かなり多大な資産で大仕事をしようと志した。時偶々高知藩が大変な貧乏で大阪の蔵屋敷に敏腕で信用のある理財家を要するというので、伝兵衛はこれに採用され、土佐藩の御用を承ることになったのである。
しかし当時の土佐藩は前述のとおり貧乏であるから、常に国産の紙、鰹節、木材、米等を大阪に送り、これを蔵屋敷で販売させ、その収入で参勤交代の費用や藩内の必需品を買い入れた代金を支払っていたのである。しかし、常に収入よりも支出の方が多大なため、この大阪の蔵屋敷の当事者はいつも大阪の町人から借金を行い、その不足を補い、その後に土佐から送られた国産を売り払い、その代金を払っていかなければならないので、なかなか至難な役目で、表面は藩の中老とか家老とかいうものが担当していたけれども、かくのごとく資格の人では少し挺に合わない。ここにおいて伝兵衛がその次席とか何とか言う役目に任ぜられ、実際の繰り回しを彼が扱っていたものと思われる。ゆえに、伝兵衛はこの仕事につき、大阪の町人から時に借金もしたであろうが、また自分の蓄財もその中にやっていたもので、前掲の計算書のようなものはすなわちその一例を物語るものであろう。
これを要とし、伝兵衛はこれらの仕事を鞅掌しつつひとつの意図を有していたらしい。いまだ佳境に入らず志業央にして大阪で客死したものと思う。彼が常に当時の国老その他から重んぜられたのはおそらくその知力よりも財力だったであろう。そして、その資源は伊予、土佐、信州等から祖父の遺産を集めたものであって、彼の嗣子甚介以下三代の間殷富を極め、財力で地方に鳴らしたのは実にその余沢であった。
ちなみに、伝兵衛が大阪で死んだであろうというのは、前説山内家家老孕石氏の日記によるも寛文十二年、彼が大阪にいたことは明らかであり、彼はその後わずかに一、二年を隔て延宝元年一月死去したことと、彼の墓は彼よりもはるか後に死んだ妻との合葬であると家伝に書かれており、また金子直吉氏が幼時、父老とともに彼の墓を詣で、これは空墓であるかも知れないと聞かされたということを聞き、著者は、伝兵衛はどうも晩年大阪において客死したように思う。
この伝兵衛唯元の生涯と人となりは金子翁の鈴木商店に対する一生と酷似している。金子翁が後藤新平伯、大隈重信侯、寺内正毅伯、濱口雄幸、井上準之助氏らと親交を結び我が実業界に財政的手腕を振るったように伝兵衛唯元も徳川時代の大藩山内家の国老および奉行等と相親眤して土佐の財政窮乏を整理した手腕と全く類似点があったので、翁は特にこの人物に心酔し右に掲げた伝兵衛唯元伝は翁自ら調査し大部分は翁の手記にかかるものであるから、特に全文を記載することとした(詳細は白石友治著「金子備後守元宅」参照)。
ことの序に金子翁母系の先祖馬場氏のことも記しておこう。
甚右衛門―甚内(夭逝)、女子(婿金子新発智後馬場勘介と称す)
この馬場甚右衛門は竹田勝頼が天目山で滅ぼされた天正十年以後、一族相携え竹田の遺族と共に土佐に来て長宗我部に仕えたのである。甚右衛門の兄馬場信房は初名教来石民部少輔景政といったが、後に武田家の名将馬場氏の明跡が絶えたのを信玄の命により継ぎなお信玄の偉字を授けられ信房という。世々教来石・白須、台が原、三吹、逸見の小渕沢等を伝領し武田七隊将の一人で智謀衆で越える者はいないが、天正三年五月二十一日三河長篠において壮烈な戦死を遂げた。時に六十二歳だった。墓は甲州武川筋白須村自元寺《美濃守開墓》と戦死した付近の三河国田口福田寺にあり、その子民部少輔氏員が引き継ぎ、深志城《松本》に在番するも天正十年《壬午の乱》勝頼天目山に滅ぼされた時深志城も落城した。
信房は信虎の時十八才で初陣し、二十五才から信玄に仕え勝頼に至るまで三代の間いずれの戦にも真っ先に馳駆して抜群の功名を顕すこと二十一回、勝負の運命を制するほどの働きを為すこと九回に及ぶも長篠陣まで未だ身にひとつの傷も受けたことがなかった。金子翁も昭和二年まで実業場裏千軍万里の間を往来して擦り傷ひとつ受けなかったのと機をいつにするが、翁もこの信房を崇拝し昭和九年長篠の古戦場を弔い、福田寺に信房の墓を展し、写真を撮り白石友治著「金子備後守元宅」伝中に挿入した。
生い立ちと環境
かつて財界の奇傑といわれた金子直吉翁は慶応二年六月十三日、土佐の片田舎吾川郡名野川村に生まれた。彼の家はもと高知の城下町の富商であった。しかし三、四代前に茶の湯、生け花、俳諧などと風流三昧に浸った当主が生まれ、その後家運は次第に衰えた。彼の父甚七の代になってからはその日の生活にも困るほどの境遇に落ちた。今の高知市水道町二丁目に昔ながらの店を構え、安芸郡和食村方面から、呉服反物を買い、これを吾川郡名野川村方面に販売して苦しい生計を営んでいた。幸いなことに、以前土佐藩家老吉田東洋方の出入り商人であったという縁故を頼って名野川村に店を出す許可をしてもらうよう頼んだ。東洋は庄屋に命じて許可をしてやるようにとの達示をした。庄屋も甚七の廉直を愛し、直に同村に店を出すことが許された。
これが彼の生まれた名野川の家で、土地の人は御免許店と呼んでいたそうである。名野川は土佐と伊予との国境で百姓樵夫の輩が住んでいた土地で、商人を入り込ませると純朴な地方民が虐げられるといって、従来そこに商店を出すことは藩から禁じられていた。そこへ唯一軒出来た店であったから、山間僻地ではあるが、商売は割合に繁盛した。しかし、それも束の間で、世は王政維新となり、太政官札価格の下落と、不換紙幣増発の影響等も手伝って、金子の店も彼が五、六歳の時には名野川から高知へ引き上げなければならないほどの苦境に陥った。当時零落しても高知の家構えは相当立派なもので、彼はそのことを前年帰った時に知っているので、道すがら子供心にもその旧宅に帰るものと思っていた。ところがいよいよ高知の町に着いて連れて行かれたのが思いもよらない高知乗出の貧乏長屋の四畳半の一室であった。どんな仔細でこんなところにつれて来られたのか子供心で確かな記憶はない。後に母親に尋ねると、母が弟の楠馬をつれて先に高知の旧宅にいると一日金貸し風の男がやって来て「この家は名野川でご主人からじかに買い受けたのだから出て行ってもらいたい」ということであった。多分甚七が借金のかたに売り渡したのだろう。そのような経緯を妻子は少しも知らなかったが、譲り受けた人が先にやって来たものと考えて別段騒ぎもせずに弟の手をとって乗出に引き移った。その先がその貧乏長屋の一室であったということである。
彼の母は名を「民」と呼び男勝りの女で、同じ安芸郡赤野村有光常蔵の長女であった。同女が子供を引き連れ乗出に帰って来てから後は父親は唐様で書く三代目で、貧乏世帯を張っていくには何の役にも立たなかった。そのため家政一切は母親が引き受け、日々家中を回り古着の行商をして彼ら兄弟を養っていた。日に一丁字もないが厳格な一見識を備えた婦人で子供のしつけ方も至って厳しかった。ある夏の夜など眠っていると突然母親が早く起きろというので飛び起きてみると、蚊帳の上に雨が漏っている。雨が降り止むまで室の隅で雨漏りを避けながら夜を明かしたこともあった。そんな時に限って母親はいつも決まって、「直吉、お前たちもよく心得ておけよ。金子の家は長く続いた金持ちだったが、金持ちの時代に貧乏人をいじめたのでその因果が祟って今その子孫がこんなひどい目に遭うのであろう。お前たちは立身出世して金持ちになっても決して貧乏人をいじめてはならないぞよ」とよく言い聞かせたものである。彼女はまたなかなかの精力家で朝は未明に起きてわんぱく盛りの子供二人の洗濯をして物干しにほし、飯を炊いて食べさせて子供には別に弁当をこしらえ、その弁当をもって水道の鍛冶屋に行けと言って遊びに出し、貧乏長屋には錠をおろし家中へ行商に出かけた。夕方帰って来るのはいつも夜の六、七時頃で、母親が先に帰っていることもあれば子どもたちの方が先になることもあった。母親が先の時は帯の間から鍵を出して戸を開け、火打ち石を擦って火をつけ、夕飯を炊いて食べさせた。子供を寝かしたあとで着物や足袋のほころびを縫ってやった。夜が明けるとまた弁当をもたせて遊びに出し、自分は行商に出かけた。毎日それを繰り返して兄弟の子供を育てていたのである。しばらくしてこの乗出の住居から通町一丁目和食屋という貸家に引き移った。しかし、これもささやかな粗末な家で惨めなものであった。
そのような中、彼も九つになったので、ある時母は父に向かって「直吉にも読み書きを教えないで無筆にしておくのは可哀想だ」といった。父親は「近頃学校が出来て読み書きを教えているからそこにやってはどうか」といったが、「それはいけません。借金がこんなにあるのに子供を学校などにやっては世間に申し訳がない」と答えた。どうしようこうしようと頭を悩ませた挙句「神主の常平に頼んだらよかろう」ということになり、彼は父親に連れられて常平の家に手習いに行くことになった。常平は姓を藤田という神主であるが、神社をもった神主ではなく加持祈祷の真似をしたり、その日のたつきに提灯張りや塵取りなどを作るかたわら、子供に手習いを教えていた爺さんである。その後彼は毎日この常平爺さんのところに手習いに行ったが他の友達は皆小学校へ通っていた。学校に行っている友達は手習いの他に読み方の稽古をするので大声をあげて何かを暗唱で読んでいるが、彼には何も読むものがない。「私にも読むことを教えてくれませんか」と常平爺さんに頼むと何やら教えてくれたが、友達のとはどうも違う。後で分かったのであるが、この時常平爺さんが教えたのは高天原の祝詞であった。ある時、友達が字を百知っていると自慢したので自分はろくに学校にも行っていないが、いろは四十八文字と干支の十二字と、一より十、百、千、万の十三字と合わせて七十三字知っていると威張り返してやったという。その頃の学問としてはまずその程度で、その上土佐往来と商売往来を習得するのが普通であるが、彼は土佐往来だけを修了し、両親の貧乏を見るに見かねて暮らしの助けに籠を背に紙くず買いを始めた。これが彼の商売の第一歩の踏み出しで、それは彼が十一才の時であった。
これが彼の生まれた名野川の家で、土地の人は御免許店と呼んでいたそうである。名野川は土佐と伊予との国境で百姓樵夫の輩が住んでいた土地で、商人を入り込ませると純朴な地方民が虐げられるといって、従来そこに商店を出すことは藩から禁じられていた。そこへ唯一軒出来た店であったから、山間僻地ではあるが、商売は割合に繁盛した。しかし、それも束の間で、世は王政維新となり、太政官札価格の下落と、不換紙幣増発の影響等も手伝って、金子の店も彼が五、六歳の時には名野川から高知へ引き上げなければならないほどの苦境に陥った。当時零落しても高知の家構えは相当立派なもので、彼はそのことを前年帰った時に知っているので、道すがら子供心にもその旧宅に帰るものと思っていた。ところがいよいよ高知の町に着いて連れて行かれたのが思いもよらない高知乗出の貧乏長屋の四畳半の一室であった。どんな仔細でこんなところにつれて来られたのか子供心で確かな記憶はない。後に母親に尋ねると、母が弟の楠馬をつれて先に高知の旧宅にいると一日金貸し風の男がやって来て「この家は名野川でご主人からじかに買い受けたのだから出て行ってもらいたい」ということであった。多分甚七が借金のかたに売り渡したのだろう。そのような経緯を妻子は少しも知らなかったが、譲り受けた人が先にやって来たものと考えて別段騒ぎもせずに弟の手をとって乗出に引き移った。その先がその貧乏長屋の一室であったということである。
彼の母は名を「民」と呼び男勝りの女で、同じ安芸郡赤野村有光常蔵の長女であった。同女が子供を引き連れ乗出に帰って来てから後は父親は唐様で書く三代目で、貧乏世帯を張っていくには何の役にも立たなかった。そのため家政一切は母親が引き受け、日々家中を回り古着の行商をして彼ら兄弟を養っていた。日に一丁字もないが厳格な一見識を備えた婦人で子供のしつけ方も至って厳しかった。ある夏の夜など眠っていると突然母親が早く起きろというので飛び起きてみると、蚊帳の上に雨が漏っている。雨が降り止むまで室の隅で雨漏りを避けながら夜を明かしたこともあった。そんな時に限って母親はいつも決まって、「直吉、お前たちもよく心得ておけよ。金子の家は長く続いた金持ちだったが、金持ちの時代に貧乏人をいじめたのでその因果が祟って今その子孫がこんなひどい目に遭うのであろう。お前たちは立身出世して金持ちになっても決して貧乏人をいじめてはならないぞよ」とよく言い聞かせたものである。彼女はまたなかなかの精力家で朝は未明に起きてわんぱく盛りの子供二人の洗濯をして物干しにほし、飯を炊いて食べさせて子供には別に弁当をこしらえ、その弁当をもって水道の鍛冶屋に行けと言って遊びに出し、貧乏長屋には錠をおろし家中へ行商に出かけた。夕方帰って来るのはいつも夜の六、七時頃で、母親が先に帰っていることもあれば子どもたちの方が先になることもあった。母親が先の時は帯の間から鍵を出して戸を開け、火打ち石を擦って火をつけ、夕飯を炊いて食べさせた。子供を寝かしたあとで着物や足袋のほころびを縫ってやった。夜が明けるとまた弁当をもたせて遊びに出し、自分は行商に出かけた。毎日それを繰り返して兄弟の子供を育てていたのである。しばらくしてこの乗出の住居から通町一丁目和食屋という貸家に引き移った。しかし、これもささやかな粗末な家で惨めなものであった。
そのような中、彼も九つになったので、ある時母は父に向かって「直吉にも読み書きを教えないで無筆にしておくのは可哀想だ」といった。父親は「近頃学校が出来て読み書きを教えているからそこにやってはどうか」といったが、「それはいけません。借金がこんなにあるのに子供を学校などにやっては世間に申し訳がない」と答えた。どうしようこうしようと頭を悩ませた挙句「神主の常平に頼んだらよかろう」ということになり、彼は父親に連れられて常平の家に手習いに行くことになった。常平は姓を藤田という神主であるが、神社をもった神主ではなく加持祈祷の真似をしたり、その日のたつきに提灯張りや塵取りなどを作るかたわら、子供に手習いを教えていた爺さんである。その後彼は毎日この常平爺さんのところに手習いに行ったが他の友達は皆小学校へ通っていた。学校に行っている友達は手習いの他に読み方の稽古をするので大声をあげて何かを暗唱で読んでいるが、彼には何も読むものがない。「私にも読むことを教えてくれませんか」と常平爺さんに頼むと何やら教えてくれたが、友達のとはどうも違う。後で分かったのであるが、この時常平爺さんが教えたのは高天原の祝詞であった。ある時、友達が字を百知っていると自慢したので自分はろくに学校にも行っていないが、いろは四十八文字と干支の十二字と、一より十、百、千、万の十三字と合わせて七十三字知っていると威張り返してやったという。その頃の学問としてはまずその程度で、その上土佐往来と商売往来を習得するのが普通であるが、彼は土佐往来だけを修了し、両親の貧乏を見るに見かねて暮らしの助けに籠を背に紙くず買いを始めた。これが彼の商売の第一歩の踏み出しで、それは彼が十一才の時であった。
丁稚奉公時代
当時乗出に長尾某という人がいた。その弟が上方から帰り屋敷の一部で小さな店を出し砂糖や茶を商っていた。そこへたまたま彼は紙くずを買いに行ったら、紙くず買いに歩くより俺のところへ奉公しないかと言う。誘われるままに、長尾の家へ丁稚奉公で住み込む事になった。長尾の弟はそろばんが上手なので夜なべにそろばんの稽古をつけてもらった。天秤衡は紙くずやで修行しているのでお手のものだし、細かいそろばんも次第に上手になった。当時一斤五銭くらいの砂糖を買いに来て、「三銭五厘だけつかあさい」などというお客様が来たら直吉少年の独壇場で、主人や家族は士族の商法で面倒くさくて仕方がない。そこで彼は細かい計算表を作って樽に貼り主人に褒められたという話さえある。主人も彼がこまめに立ち働くのと勘が良いのには感心して、将来を嘱目し、「いつまでもこんな小さな店にいては立身出世が出来ないから、どこでも望むところがあれば行け。もし行った先が気に入らなかったらいつでも俺の家へ戻って来い」と言われた。次に、本町一丁目の乾物屋で野中幸右衛門という店へ丁稚として住み込んだ。時に彼は十三才であった。丁稚としての第一の学問は秤を使うことで次にそろばんを一から十まで教わることであったが、雑用としては朝は掃いたり拭いたりの掃除から昼は店の使い走りや子守りまでやらされた。夜は主人の按摩や挽臼で粉をひかされることもあった。
頃は明治十一、二年となり時勢も大分進んでいたが彼は前に述べたようなお話にならない程度の教育しか受けていなかった。そのため皆から無学文盲だ貧乏だ馬鹿だと罵られて常に人々から軽蔑の的となった。主人からも絶えず馬鹿扱いにされるので自分でも遂には実際己は馬鹿だと思い込むようになってしまった。「こんなに馬鹿ではとても人並みのことは出来ない。早く資本の二百円を作って小店でも開き、父や母や弟と一緒に細々でも暮らしを立てていけるようになりたい。そのためにもせめて月給に五円でも貰えば三年経てば百八十円になる。早くそうなりたい」と心に願っていたがどうも思うようにならず、この店に勤めるのもいやになり元の長尾の店へ帰ってぶらぶらしていた。母が家中に出入りしているうちに没落した武士に頼まれて時々質物を持っていく傍士久馬次という質屋が農人町にあった。この店は質屋が本業で紙も売っていた。母が出入りするうちに傍士の主人に「家の倅を使って下さるまいか」と頼んだところ快く承知してくれたので、彼はこの店に奉公することになった。それは彼が十四才の春であった。彼の成長した時代は日本の最も多難な時代であった。そして彼が育てられた土佐の高知は新日本の一つの揺籃であった。
その頃店から使いに行く途中に士長屋を切り上げて桃花堂という看板をかけ、鉄で作った板のようなもので何かを刷っているのがあった。それが今日でいう活版屋で新聞を刷っていた。物珍しいので皆が立って読んでいる。彼も愛読者の一人でかなを拾って読んでいる中、段々と読めるようになった。しかし論説にはかながないので少しも読めない。読めはしないが何か勿体らしいことが書いてあるらしい。何とかしてその論説を読んでみたいものだと思い字引と首っ引きで一所懸命読むことにした。丁稚としての仕事は朝六時に起きて夜は十時に店をしまう。その後は自分の時間だ。その余暇を利用して字引をひきひき読んでいるとだんだん分かってくる。なんべんも繰り返して読むと次第に意味もよく徹底するようになった。そうなると商売往来や祝詞と違って世態人心の帰趨が手にとるように判り非常な興味を感じてきた。
そのうち彼も十五才の秋ともなったが、この頃に至って彼はだんだんと鋭鋒を出してきた。主人は切に驚いたがその中でも彼が非凡な記憶力と推理力を有することが著しく目立ってきた。しかしまだ読書に格別興味が湧くという風でもなかったが、当時丁度陸奥宗光伯が西南戦後獄中から出て四方に遊説し高知に来て演説を行った。その演説の筆記が新聞に載っていた。当時自由民権論が盛んな頃で板垣退助、後藤象二郎、陸奥宗光、大石正己、片岡健吉などといえば自由の神様のように思われていた時でのことであるから、彼が陸奥伯がどんな偉いことを言っているのかと新聞の記事を熟読玩味してみた。しかし、特にこれと言って驚くほどの名論もない。「これでは陸奥、板垣も評判ほど偉くはないんだ。勉強さえすれば俺もこの程度にはなれよう。人は俺のことを馬鹿馬鹿というが俺は人の言うほどそんなに馬鹿ではあるまい」という自信が勃然として初めて胸裏に湧いてきた。幸い質屋は座って客を待つという商売であるから、読書の機会も多かった。根気のよい彼は暇さえあれば質物の軍書本や翻訳本を手当り次第に乱読し、まるでここを図書館のようにして独学勉強し飽くことを知らなかった。そしてついに孫子の兵書を見つけ出し、これに非常な共鳴をもち熟読玩味し、よくその大体に通じ、これを後年商売に応用したそうである。そのうち、手紙も書けるようになり、大抵の書いたものも読める程度になり、徐々に成功の素因が出来るようになった。俺も同じ人間だから世の中に出たら相当の仕事は必ずやれるという確信がついて来た。
由来質屋稼業はなかなか頭の働きが要る。質を取る瞬間に、「この品物はその者のものであるのか、借りてきたものであるのか、あるいは盗品ではないか」という点を注意し、それから「この品物にいくら貸してよいか、流れた時はどうしたらよいか」というようなことを胸算用で直ちに計算しなければならない。しかし、鋭敏な頭脳の持ち主である彼は、いくらもたたないうちにこの道を感得し、質を置きに来る人の品物の出し振りで、「質屋通いは初めての人か、または二度も三度も度々質を入れに来る人であるか」を容易に判断出来るようになった。後年彼の直話によると、職人とか月給取りが質屋通いをしてもそのために身を誤るようなことはないが、小間物屋とか魚屋とか八百屋とか小売商売をする者が質を置くようになったら、おそくも三年も経たないうちにその家は潰れるそうだ。その真理を彼は幼少の頃既に体験していた。後年金銭運用の妙算から、相手の心理を看破する透視能力、およそ彼の商売のアウトラインは、実にこの質屋奉公中に会得したのである。
彼がこの店に入って間もなく、質の方を担当していた番頭が不正を働き暇を出されたので彼は番頭になった。ある日巡査が質の帳簿の検査に来たところ、帳簿に先日の未記入の箇所があったので巡査がこれを指摘して大いに脅かした。彼は昨夜遅かったので記帳できなかったというと巡査は「どんなに遅くなってもその日のことはその日のうちに必ずつけておけ」とまた怒りだしたので彼は「神様は夜を寝るために与えてあるのだから寝た。夜寝るのがなぜ悪いのか」となかなか屈しなかった。巡査もやむを得ず帰ったが翌日になって店の名義人である長男久吉に対し警察から呼出状が来た。官吏を侮辱したという廉で一週間の拘留になった。そこで弁護士がことの顛末を書いて裁判所へ提出する書類を作ろうとしたところ、彼が「その書類なら一番良く事情を知っている私が書きましょう」というので、彼に一任した。彼はつぶさに顛末を書いて弁護士に見せたところ一字一句も訂正しないで良いように立派に書けていた。名文だったので弁護士はじめ関係者はいずれもその才気に驚嘆した。
事件は落着したが、主人もこんな面倒な商売は止めようということで質屋を廃し、菜園場というところで砂糖店を開いた。一切は番頭直吉任せということであったが、体格の良い方でもなく、未だ十七、八才の若い衆であるから、彼に大金を持たせて遠く幡多郡方面まで砂糖の買い出しにやるには危険だった。そこで、使用人の中で屈強な熊蔵という男に金を持たせてお供をさせた。彼は各地の農家を回る時、家々から買い取る斤量の多寡を克明に記入しておき、翌年仕入れに回る時の参考に供するという商売熱心振りであった。
主人は魚釣りが好きで早朝釣り竿を持って店を飛び出すが、平素は至って朝寝坊だったので、朝の起こし役は直吉だった。直吉は向学心に燃え徹宵読書に浸りいつも寝ずの番をしていたから、泥棒除けと早出の人を起こすには最適任であった。それでいつも朝は目を真っ赤にしていたが、主の命なら時刻を違わず起こすので主人も直吉なればこそと感心していた。
彼は非常に傍士家の寵愛を受け、一族は皆この男を信頼していた。鈴木商店へ入るのもこの家の推薦であったし、後年の金子夫人の徳子さんはこの傍士家久万吉の娘である。
直吉は菜園場から本店通町の店に行ったら、帰りには主人のであろうと女中のであろうと誰れ彼の差別なく人の履物を引っ掛けていく。そのため、店中で「直吉が来た!履物を隠せ!」というくらい青年時代から物に無頓着であった。
話は元に戻るが、当時土佐は立志社の極盛期で社長は片岡健吉、副社長は福岡静馬で、林有造、中村貫一は幹事であった。板垣退助は全社員の信頼と尊敬を受け、事実上の統率者であった。海南の成年は皆、青雲の志を抱いて奮起したものである。彼の血を沸かしたのもまた政治である。身は丁稚奉公をしているが未来の大政治家気取りでいろいろ政治関係の本を読んだり研究もした。こうして明治も十八年となり彼も既に二十歳となった。相当本も読み頭も一通り出来ていたので何か腕試しを考えていた矢先、たまたま主人の家に訴訟事が起こったので是非ともこれに主人の代理として出廷してみたいという望みを起こし、そのことを主人に願い出た。当時先方の相手はというと、この地方でならした北川貞彦という弁護士が代理を引き受けていた。せっかくの希望だが先方は名だたる大家、お前の如き若造の及ぶところではないといって主人は容易に承諾しない。しかし彼としては相手が大家であってこそ一層張り合いがあるということで、無理やりに主人を承知させ、勧解、民事訴訟で二度も勝った。そこで主人も彼が凡人でないことを驚き、将来を見込んだのである。彼もこれに自信を得て、益々政治や法律の本を読み、これならばという確信を得るまでに至った。
けれどもまた一面自分の過去と経歴を省みると、自分は如何にも政治家を志し多少の修養は積んだ。けれども、その知識たるやたかが知れたものである。政治家となっても結局一陣笠くらいに終わる程度であろう。しかしもし自分が商人になるとして見るとまず第一に自分は代々商家に生まれ、商家に育ち、現に商家に奉公している。いわば生まれながらの商人である。商売にかけてはまんざら人後に落ちるようにも思えない。政治家になるよりもこれは一つ立派な商人になってやろう。そう気がついてみると最早政治の本など読む必要はない。もう二十歳にもなるのにこのままこの土地で砂糖屋奉公をしていたのでは立派な商人にもなれない。それには万国の人が沢山集って商売をしている神戸に行って西洋人相手に商売を覚えるに限る。そこは目先の利く男だけに気がついたが、折悪く父の甚七が中風の病に罹り病床に就いたので一年ほど延ばして、二十一才の時、主家傍士久万次の推薦で高知浦戸港の埠頭から将来の大計画を夢み青雲の志を抱いて汽船に乗り神戸に出て先代鈴木岩治郎の店に雇われることになった。
頃は明治十一、二年となり時勢も大分進んでいたが彼は前に述べたようなお話にならない程度の教育しか受けていなかった。そのため皆から無学文盲だ貧乏だ馬鹿だと罵られて常に人々から軽蔑の的となった。主人からも絶えず馬鹿扱いにされるので自分でも遂には実際己は馬鹿だと思い込むようになってしまった。「こんなに馬鹿ではとても人並みのことは出来ない。早く資本の二百円を作って小店でも開き、父や母や弟と一緒に細々でも暮らしを立てていけるようになりたい。そのためにもせめて月給に五円でも貰えば三年経てば百八十円になる。早くそうなりたい」と心に願っていたがどうも思うようにならず、この店に勤めるのもいやになり元の長尾の店へ帰ってぶらぶらしていた。母が家中に出入りしているうちに没落した武士に頼まれて時々質物を持っていく傍士久馬次という質屋が農人町にあった。この店は質屋が本業で紙も売っていた。母が出入りするうちに傍士の主人に「家の倅を使って下さるまいか」と頼んだところ快く承知してくれたので、彼はこの店に奉公することになった。それは彼が十四才の春であった。彼の成長した時代は日本の最も多難な時代であった。そして彼が育てられた土佐の高知は新日本の一つの揺籃であった。
その頃店から使いに行く途中に士長屋を切り上げて桃花堂という看板をかけ、鉄で作った板のようなもので何かを刷っているのがあった。それが今日でいう活版屋で新聞を刷っていた。物珍しいので皆が立って読んでいる。彼も愛読者の一人でかなを拾って読んでいる中、段々と読めるようになった。しかし論説にはかながないので少しも読めない。読めはしないが何か勿体らしいことが書いてあるらしい。何とかしてその論説を読んでみたいものだと思い字引と首っ引きで一所懸命読むことにした。丁稚としての仕事は朝六時に起きて夜は十時に店をしまう。その後は自分の時間だ。その余暇を利用して字引をひきひき読んでいるとだんだん分かってくる。なんべんも繰り返して読むと次第に意味もよく徹底するようになった。そうなると商売往来や祝詞と違って世態人心の帰趨が手にとるように判り非常な興味を感じてきた。
そのうち彼も十五才の秋ともなったが、この頃に至って彼はだんだんと鋭鋒を出してきた。主人は切に驚いたがその中でも彼が非凡な記憶力と推理力を有することが著しく目立ってきた。しかしまだ読書に格別興味が湧くという風でもなかったが、当時丁度陸奥宗光伯が西南戦後獄中から出て四方に遊説し高知に来て演説を行った。その演説の筆記が新聞に載っていた。当時自由民権論が盛んな頃で板垣退助、後藤象二郎、陸奥宗光、大石正己、片岡健吉などといえば自由の神様のように思われていた時でのことであるから、彼が陸奥伯がどんな偉いことを言っているのかと新聞の記事を熟読玩味してみた。しかし、特にこれと言って驚くほどの名論もない。「これでは陸奥、板垣も評判ほど偉くはないんだ。勉強さえすれば俺もこの程度にはなれよう。人は俺のことを馬鹿馬鹿というが俺は人の言うほどそんなに馬鹿ではあるまい」という自信が勃然として初めて胸裏に湧いてきた。幸い質屋は座って客を待つという商売であるから、読書の機会も多かった。根気のよい彼は暇さえあれば質物の軍書本や翻訳本を手当り次第に乱読し、まるでここを図書館のようにして独学勉強し飽くことを知らなかった。そしてついに孫子の兵書を見つけ出し、これに非常な共鳴をもち熟読玩味し、よくその大体に通じ、これを後年商売に応用したそうである。そのうち、手紙も書けるようになり、大抵の書いたものも読める程度になり、徐々に成功の素因が出来るようになった。俺も同じ人間だから世の中に出たら相当の仕事は必ずやれるという確信がついて来た。
由来質屋稼業はなかなか頭の働きが要る。質を取る瞬間に、「この品物はその者のものであるのか、借りてきたものであるのか、あるいは盗品ではないか」という点を注意し、それから「この品物にいくら貸してよいか、流れた時はどうしたらよいか」というようなことを胸算用で直ちに計算しなければならない。しかし、鋭敏な頭脳の持ち主である彼は、いくらもたたないうちにこの道を感得し、質を置きに来る人の品物の出し振りで、「質屋通いは初めての人か、または二度も三度も度々質を入れに来る人であるか」を容易に判断出来るようになった。後年彼の直話によると、職人とか月給取りが質屋通いをしてもそのために身を誤るようなことはないが、小間物屋とか魚屋とか八百屋とか小売商売をする者が質を置くようになったら、おそくも三年も経たないうちにその家は潰れるそうだ。その真理を彼は幼少の頃既に体験していた。後年金銭運用の妙算から、相手の心理を看破する透視能力、およそ彼の商売のアウトラインは、実にこの質屋奉公中に会得したのである。
彼がこの店に入って間もなく、質の方を担当していた番頭が不正を働き暇を出されたので彼は番頭になった。ある日巡査が質の帳簿の検査に来たところ、帳簿に先日の未記入の箇所があったので巡査がこれを指摘して大いに脅かした。彼は昨夜遅かったので記帳できなかったというと巡査は「どんなに遅くなってもその日のことはその日のうちに必ずつけておけ」とまた怒りだしたので彼は「神様は夜を寝るために与えてあるのだから寝た。夜寝るのがなぜ悪いのか」となかなか屈しなかった。巡査もやむを得ず帰ったが翌日になって店の名義人である長男久吉に対し警察から呼出状が来た。官吏を侮辱したという廉で一週間の拘留になった。そこで弁護士がことの顛末を書いて裁判所へ提出する書類を作ろうとしたところ、彼が「その書類なら一番良く事情を知っている私が書きましょう」というので、彼に一任した。彼はつぶさに顛末を書いて弁護士に見せたところ一字一句も訂正しないで良いように立派に書けていた。名文だったので弁護士はじめ関係者はいずれもその才気に驚嘆した。
事件は落着したが、主人もこんな面倒な商売は止めようということで質屋を廃し、菜園場というところで砂糖店を開いた。一切は番頭直吉任せということであったが、体格の良い方でもなく、未だ十七、八才の若い衆であるから、彼に大金を持たせて遠く幡多郡方面まで砂糖の買い出しにやるには危険だった。そこで、使用人の中で屈強な熊蔵という男に金を持たせてお供をさせた。彼は各地の農家を回る時、家々から買い取る斤量の多寡を克明に記入しておき、翌年仕入れに回る時の参考に供するという商売熱心振りであった。
主人は魚釣りが好きで早朝釣り竿を持って店を飛び出すが、平素は至って朝寝坊だったので、朝の起こし役は直吉だった。直吉は向学心に燃え徹宵読書に浸りいつも寝ずの番をしていたから、泥棒除けと早出の人を起こすには最適任であった。それでいつも朝は目を真っ赤にしていたが、主の命なら時刻を違わず起こすので主人も直吉なればこそと感心していた。
彼は非常に傍士家の寵愛を受け、一族は皆この男を信頼していた。鈴木商店へ入るのもこの家の推薦であったし、後年の金子夫人の徳子さんはこの傍士家久万吉の娘である。
直吉は菜園場から本店通町の店に行ったら、帰りには主人のであろうと女中のであろうと誰れ彼の差別なく人の履物を引っ掛けていく。そのため、店中で「直吉が来た!履物を隠せ!」というくらい青年時代から物に無頓着であった。
話は元に戻るが、当時土佐は立志社の極盛期で社長は片岡健吉、副社長は福岡静馬で、林有造、中村貫一は幹事であった。板垣退助は全社員の信頼と尊敬を受け、事実上の統率者であった。海南の成年は皆、青雲の志を抱いて奮起したものである。彼の血を沸かしたのもまた政治である。身は丁稚奉公をしているが未来の大政治家気取りでいろいろ政治関係の本を読んだり研究もした。こうして明治も十八年となり彼も既に二十歳となった。相当本も読み頭も一通り出来ていたので何か腕試しを考えていた矢先、たまたま主人の家に訴訟事が起こったので是非ともこれに主人の代理として出廷してみたいという望みを起こし、そのことを主人に願い出た。当時先方の相手はというと、この地方でならした北川貞彦という弁護士が代理を引き受けていた。せっかくの希望だが先方は名だたる大家、お前の如き若造の及ぶところではないといって主人は容易に承諾しない。しかし彼としては相手が大家であってこそ一層張り合いがあるということで、無理やりに主人を承知させ、勧解、民事訴訟で二度も勝った。そこで主人も彼が凡人でないことを驚き、将来を見込んだのである。彼もこれに自信を得て、益々政治や法律の本を読み、これならばという確信を得るまでに至った。
けれどもまた一面自分の過去と経歴を省みると、自分は如何にも政治家を志し多少の修養は積んだ。けれども、その知識たるやたかが知れたものである。政治家となっても結局一陣笠くらいに終わる程度であろう。しかしもし自分が商人になるとして見るとまず第一に自分は代々商家に生まれ、商家に育ち、現に商家に奉公している。いわば生まれながらの商人である。商売にかけてはまんざら人後に落ちるようにも思えない。政治家になるよりもこれは一つ立派な商人になってやろう。そう気がついてみると最早政治の本など読む必要はない。もう二十歳にもなるのにこのままこの土地で砂糖屋奉公をしていたのでは立派な商人にもなれない。それには万国の人が沢山集って商売をしている神戸に行って西洋人相手に商売を覚えるに限る。そこは目先の利く男だけに気がついたが、折悪く父の甚七が中風の病に罹り病床に就いたので一年ほど延ばして、二十一才の時、主家傍士久万次の推薦で高知浦戸港の埠頭から将来の大計画を夢み青雲の志を抱いて汽船に乗り神戸に出て先代鈴木岩治郎の店に雇われることになった。
鈴木商店に雇われる
鈴木商店に雇われた後の彼はまず最初三ヶ月程度一生懸命骨を折って働いてみた。しかし、一向に主人に気にいられず、いつも小言ばかり食らっていた。しかし、一度ハサミを砥がされた時、「お前は何をさせてもろくなことは出来ないがハサミだけはよく砥げた。よく切れる」と褒められた。しかしその後でまた直ぐにだが「柄の方の錆が落ちていない。こんなことではダメだ」とまた小言を食らった。このくらい細かいところに気がつくのだから、店員も葉書一枚書き損じたって大目玉を食う。しかも非常に気性の激しい人で、ある時は直吉の失策を怒ってソロバンで彼の頭を殴って血を出したこともあった。それでも彼はじっと耐え忍び平身低頭して謝った。こんなに毎日叱られ通しなのでさすがの彼も度々逃げ出そうと思ったが、夫人よねさんが調停役をしてくれたりねぎらってくれるのでまた思い返し、直接西洋人と商売が出来るまではいかなることがあっても辛抱しようと覚悟した。毎日深刻に憂き身を揉まれながらも、朝は六時に起き夜は十時になるまで精魂を打ち込んで働いた。その頃鈴木商店では砂糖、石油、大豆粕などを商っていたが、その後商売も振るわないのでドル相場と砂糖の二つをやることに決めた。もっとも砂糖の方は競争の弊に耐えず同業者と謀って洋糖商会というのを組織し、店からはその方へ柳田富士松を派遣したので、鈴木商店の仕事はただドル相場だけが残されていた。そのドル相場も既に末路に近づき商売はほとんどしなかった。ただ彼の仕事は鈴木商店が砂糖やドル相場をやった時代の貸金の取り立てをするだけの用事で肝心な貿易を見習う機会がなかった。そのため、いっそ父の病気にかこつけて郷里へ帰り、帰った上で暇を取ろうと考え、ひとまず郷里へ帰る決心をした。
後年天下に大をなす男も、運命の神はまだまだ二十一や二の彼に幸福の甘菓子を飽食させてはくれなかった。そればかりか、その代わりにむしろ苦渋難渋の大杯をこれでもかこれでもかとばかりしこたま授けるのであった。
先代岩治郎は、評判のやかましやだったが、人間は相当偉かった。ことに夫人のおよねさんは太っ腹な女でよく世間のこともわきまえ、主人の欠点を知り抜いていた。彼が国へ帰ると言い出したので、およねさんは、てっきり店を逃げ出すのだなと看破し引き止め策にいろいろ物を与えて慰めた。しかし久しく父母にも会っていないし、他国で苦労するくらい父母に仕えたらどんなに喜ぶだろうかと帰心矢の如く望郷の念は日にいやまさり、彼はとうとう郷里へ帰ってしまった。国へ帰って手紙を出して暇をとろうと考えていると、神戸からいろいろ用を言いつけて来て暇をとることが出来ないように仕向けてくる。両親もそれほど主人が気に入っているのなら続けて奉公してはどうかと、「橋と主人は弱くてはいけない。強い主人に揉んでもらえば将来必ず見込みがあろう」と苦労人の彼の母に訓戒されて再び神戸に帰った。帰ってみると、これはまた意外にも「何か商売をやりたいものがあったらやって見よ。何でもお前に任せるから」という話になった。彼はもとより望むところと、早速内地の砂糖、鰹節、茶、肥料等の商売を始めてかなりの成績を収めた。
その後主人の言いつけで彼が樟脳の商売を担任してやることになったが、その樟脳の商売も追々大きくなっていった。
その後明治二十七年四月、彼が二十九歳の時、主人の岩治郎氏が病死したので親戚友人が集って鈴木商店の今後をどうするかということを相談した。その時商売をやめて引っ込んだ方が気楽だという説も出たが、後家のおよねさんは「主人が死んだからといって商売を止めたくない。是非継続したい」と言い張り、洋糖商会の方を解散して砂糖部を復活させた。鈴木商店の代表者として洋糖商会に行っていた相番頭の柳田富士松に砂糖部を担任させ、ハッカは長久某が管掌し、彼は専ら樟脳の方を担当して鈴木商店経営の任に当たった。当時鈴木商店の取扱品は以上の他に石油、小麦粉、その他天産物の売買でその財産は約九万円くらいのもので、まだまだ町の一商店に過ぎなかった。
後年天下に大をなす男も、運命の神はまだまだ二十一や二の彼に幸福の甘菓子を飽食させてはくれなかった。そればかりか、その代わりにむしろ苦渋難渋の大杯をこれでもかこれでもかとばかりしこたま授けるのであった。
先代岩治郎は、評判のやかましやだったが、人間は相当偉かった。ことに夫人のおよねさんは太っ腹な女でよく世間のこともわきまえ、主人の欠点を知り抜いていた。彼が国へ帰ると言い出したので、およねさんは、てっきり店を逃げ出すのだなと看破し引き止め策にいろいろ物を与えて慰めた。しかし久しく父母にも会っていないし、他国で苦労するくらい父母に仕えたらどんなに喜ぶだろうかと帰心矢の如く望郷の念は日にいやまさり、彼はとうとう郷里へ帰ってしまった。国へ帰って手紙を出して暇をとろうと考えていると、神戸からいろいろ用を言いつけて来て暇をとることが出来ないように仕向けてくる。両親もそれほど主人が気に入っているのなら続けて奉公してはどうかと、「橋と主人は弱くてはいけない。強い主人に揉んでもらえば将来必ず見込みがあろう」と苦労人の彼の母に訓戒されて再び神戸に帰った。帰ってみると、これはまた意外にも「何か商売をやりたいものがあったらやって見よ。何でもお前に任せるから」という話になった。彼はもとより望むところと、早速内地の砂糖、鰹節、茶、肥料等の商売を始めてかなりの成績を収めた。
その後主人の言いつけで彼が樟脳の商売を担任してやることになったが、その樟脳の商売も追々大きくなっていった。
その後明治二十七年四月、彼が二十九歳の時、主人の岩治郎氏が病死したので親戚友人が集って鈴木商店の今後をどうするかということを相談した。その時商売をやめて引っ込んだ方が気楽だという説も出たが、後家のおよねさんは「主人が死んだからといって商売を止めたくない。是非継続したい」と言い張り、洋糖商会の方を解散して砂糖部を復活させた。鈴木商店の代表者として洋糖商会に行っていた相番頭の柳田富士松に砂糖部を担任させ、ハッカは長久某が管掌し、彼は専ら樟脳の方を担当して鈴木商店経営の任に当たった。当時鈴木商店の取扱品は以上の他に石油、小麦粉、その他天産物の売買でその財産は約九万円くらいのもので、まだまだ町の一商店に過ぎなかった。
樟脳の空売りで大失敗
主人岩治郎が死んで間もなく日清戦争が始まった。明治二十八年それも済み、台湾が我が領土に帰したという電報がロンドンに入った頃のことである。ロンドンに「ノース」という海軍士官上がりの大相場師がいてこれに目をつけた。台湾は日本の領土となったが、島民は必ずこれに服従せず一騒動起こるに違いないから樟脳は当分出て来まいと看取し、この機運にウンと樟脳を買い占め一儲けしようと考え、世界的に樟脳の大買い占めを行ったのである。しかし一方金子は「ノース」がそれほどまでの大方針で樟脳を買い占めていようなどとは夢にも気が付かず、樟脳が高騰してきたのを見て好機逸すべからずと、四十円から外国商館へ盛んに先物の売約を始めた。ところが、売り進めば進むほど相場は上がる一方だった。七十円から八十円、一時は九十五円までに暴騰した。この値上がりで鈴木商店が被ることになる損害は莫大な額に達した。もし契約通りに品物を渡すことを実行するなら、全財産を拠出しても足りないという破目に陥った。世間でも鈴木商店は破産の他あるまいと噂されるに至った。事実明治二十九年八月頃は破産の他ない運命にまで立ち至っていた。さすがの彼も進退維れ谷まり、独り帳場に座ってソロバンを前に起き腕を組み沈思黙考に浸った。鈴木の店はその時分普通の店と同じ構造で、奥から格子戸を経て店の様子は見通しであった。お家さん(阪神地方では女主人のことをこのように呼ぶ)は奥から遥かに金子の思案投首萎るばかりの風情を見て、多分現金と帳面の辻褄が合わないので悩んでいるのだろうと想像し、金子を呼んで「直吉どうしたのか、金が足らないのなら少しくらいは奥の方から足しておこうか」と言って慰めた。彼は、お家の浮沈に関する一大事最早隠すに隠されぬ瀬戸際になったので、実は斯く斯くの次第と一部始終を打ち明けて只々詫び入った。しかし、さすがは太っ腹のお家さん。小言ひとつ言わず、「そうなったら仕方がない。善後策を講じよう」と、二人一緒に当時大阪の北浜(現在の日商ビルのある所)にいたおよねさんの兄で鈴木商店の後見をしていた西田仲右衛門を訪ねて相談した。西田も一人ではよい知恵も浮かばなかったと見え、先代鈴木と朋輩であった大阪の砂糖商藤田助七をも呼んで西田、藤田、よね、金子の四人額を集めて善後策を相談した。その時西田は彼に向かって、善後策とあわせてお前の一身上のことも相談するからちょっと外出してくれと言うので、彼はかしこまりましたと表へ出掛け、安治川橋のかたわらにある藤沢弥三郎という店に立ち寄った。安物の樟脳を掘り出して幾分でも損の穴埋めを思い立ったからであった。素知らぬ顔で売り物がないかと聞くと、あることはあったが、たった今七十五円で売ってしまったとの返事。彼はビックリしまったと思ったが仕方がない。それから肥後橋の福永次郎兵衛を尋ねたが、そこでも今相場が八十円に上がったと聞いて二度吃驚。ところが東京の銀行家で樟脳を担保にとっている肥田景之という男が花屋旅館に泊まっていることを思い出し、「肥田ならば素人だからまだ相場が上がったことは知るまい。うまく頼んで同人が住友倉庫に入れてある樟脳を手に入れよう」と花屋で肥田に会って話している最中、神戸の住友から電話がかかり、樟脳がまたまた暴騰して八十円を突破したとのことであった。彼は開いた口がふさがらず三度吃驚。早々いとまを告げて肥田と別れた。それでもなお最後のベストをつくし谷禎造という人を訪ね、この人をもって住友に掛けあったところ、住友でも大いに同情して破格の値段で少々手に入れることができた。しかし、ほんの九牛の一毛にも足りない数量で問題にならなかった。「もうこうなっては運の尽きだ。樟脳を探すよりも何か気分転換できるものを」と、苦しい時の神頼み、天満の天神様を参詣して無事難関を切り抜けの祈願をかけた。それから庭園の中にある池に臨み、鶴にドジョウをやったり鯉に麸をやったりして、「ああもう人間をやめてこの鶴や鯉になりたい」と熟々嘆息した。かれこれするうちに日も西山に傾いたので、もうよかろうと西田の店に帰って見ると、三人の話は済んでいた。「お前は中々大きな損をしてくれたものだ。これは我々が神戸へ行って処理するはずだが樟脳のことは我々よりもお前の方がよく分かっているからお前に任せる。できるだけ損失を少なくして解決せよ」と申し渡された。この時は最初西田に善後策の相談を持ち掛けた時よりも遥かに樟脳の市価が高くなっており、損害も莫大にかさんでいたけれども彼はもうこの事を話す勇気もなく、そのままお受けして神戸に帰った。
そこで彼は一層責任の重大さを感じ骨粉砕身、何とかしてこの難関を切り抜けようと決心している矢先、「オットライマース」の弁護士から書面で品物引渡しの厳重な催促を受けた。当時鈴木商店の最も多量の売約先は「シモン・エバーズ」であったから、まずこの商会を口説き落とすにしかずと、この弁護士の書面と短刀を懐にして同商会に行き「シモン」に面会した。「このように八方から責められては鈴木は破産する他はない。平生引き立て下さる貴商会にできるだけ義務を尽くそうと思うが思うに任せぬ。わずかの品物と三千五百ドルで勘弁して頂きたい。出来ぬとあらば主家鈴木に対してこの金子は申し訳ないからこの場で腹を切るまでだ」と短刀を抜いて卓上に置き窮状を訴え熱誠を込め、しかも彼得意の富婁那の弁舌で「シモン」を口説いた。さすがの「シモン」も彼の熱意に動かされたと見え、顔色をやわらげた。「私の店も幸いモスリンの商売で多少余分の儲けがあったから、これで鈴木の契約不履行による損を補填する。しかし、なお五百ドル足りないから出せ」という。彼は三千五百ドルにまけてくれという。かれこれ押し問答の末、四千ドルでケリがついた。これに成功した彼は勇気百倍、同じ手で「オットライマース」その他をすべて片付けてしまった。
自分の方の商売の失敗はひとまず片付いたので、脂が乗って来た彼は肥後橋の福永がやはり樟脳を「ラスベ」に売約して困っているのを口きいた。それも円満に片付いたので、その仲裁の謝礼として福永から三千円、「ラスベ」から三千円、都合よく六千円をもらった。これを鈴木商店の資本として再び商売を続けているうちに、運良く相当巨額の金儲けが出来た。明治三十年の六月に勘定すると損失を取り返してなお十万円くらいの銀行預金が出来た。この十万円の資本が活躍し、後年鈴木商店が世界的に大をなす基となった。
そこで彼は一層責任の重大さを感じ骨粉砕身、何とかしてこの難関を切り抜けようと決心している矢先、「オットライマース」の弁護士から書面で品物引渡しの厳重な催促を受けた。当時鈴木商店の最も多量の売約先は「シモン・エバーズ」であったから、まずこの商会を口説き落とすにしかずと、この弁護士の書面と短刀を懐にして同商会に行き「シモン」に面会した。「このように八方から責められては鈴木は破産する他はない。平生引き立て下さる貴商会にできるだけ義務を尽くそうと思うが思うに任せぬ。わずかの品物と三千五百ドルで勘弁して頂きたい。出来ぬとあらば主家鈴木に対してこの金子は申し訳ないからこの場で腹を切るまでだ」と短刀を抜いて卓上に置き窮状を訴え熱誠を込め、しかも彼得意の富婁那の弁舌で「シモン」を口説いた。さすがの「シモン」も彼の熱意に動かされたと見え、顔色をやわらげた。「私の店も幸いモスリンの商売で多少余分の儲けがあったから、これで鈴木の契約不履行による損を補填する。しかし、なお五百ドル足りないから出せ」という。彼は三千五百ドルにまけてくれという。かれこれ押し問答の末、四千ドルでケリがついた。これに成功した彼は勇気百倍、同じ手で「オットライマース」その他をすべて片付けてしまった。
自分の方の商売の失敗はひとまず片付いたので、脂が乗って来た彼は肥後橋の福永がやはり樟脳を「ラスベ」に売約して困っているのを口きいた。それも円満に片付いたので、その仲裁の謝礼として福永から三千円、「ラスベ」から三千円、都合よく六千円をもらった。これを鈴木商店の資本として再び商売を続けているうちに、運良く相当巨額の金儲けが出来た。明治三十年の六月に勘定すると損失を取り返してなお十万円くらいの銀行預金が出来た。この十万円の資本が活躍し、後年鈴木商店が世界的に大をなす基となった。
大阪天満宮
※訳者註
金子直吉は樟脳の空売りで失敗した時、天満の天神を参詣して難関切り抜けの願をかけました。
これがその大阪天満宮です。
強気一辺倒で信仰することもなかった直吉でしたが、池の鶴にドジョウや鯉に麸をやりながら「ああもう人間をやめてこの鶴や鯉になりたい」と漏らしたそうです。
今は環境も変わりその池にツルが来ることはありませんが、サギはやってくるようです。
結局金子はこの難局を乗り切りましたが、それは天神のお陰というよりも、その強い責任感と行動力に因るものでした。
台湾へ進出
彼が樟脳の思惑で失敗して苦しんでいた頃、軍艦松島が神戸に入港した。明治二十九年頃日清の役で殊勲をたてた軍艦だというので見物人が山のように押しかけた。彼もその一人で、軍艦に行ってみると同郷のやや先輩格の島村速雄が分隊長として乗り組んでいた。その島村に向かって「この軍艦はこれからどこへ行くのですか」と聞くと、「台湾が日本の領土になったからこれから受け取りに行くのだ」との話だった。そこで咄嗟に彼の頭に浮かんだのが、「台湾は樟脳の産地であることである。他の商人が行く前に行って一儲けしてやろう」という考えである。徳川時代の濱田弥兵衛のように商魂を働かせ、その時一緒にいた楠瀬益美という老人とともに島村に「是非一緒にこの軍艦に乗せて台湾見物に連れていってくれ」と頼んだ。しかし、島村は「軍艦に商人を乗せることは先例がない」といって一言の下にはねつけた。そこで他に良い方法はないものかと相談すると「新聞記者ならば行くことができる。本省にでも頼んでみろ」といってとんと相手にしてくれなかった。そんなことで軍艦への便乗渡台はできなかったが、彼はその時から台湾の樟脳が脳裏から去らなかった。その当時はなお軍政時代で商人の渡台は許されなかったので、さすがの彼も策を施すべき余地はなかった。しかし親友の肥田景之が台湾に大工を百人送る命を受けていたのを幸いとして、その百人の大工のうち百人長として取締のような資格で鈴木商店の小松平太郎という店員を加えてもらい、まずもって台湾における樟脳の事情を調査させた。その結果は果たして彼の予想と違わず、非常に沢山の樟脳があることが分かった。しかも台湾では楠からは樟脳をとるばかりで、その後は廃物視され、副産物の油をとることを知らないことまで分かった。その報告に基づき民政が敷かれるのを待ち構えて樟脳製造に経験がある者を多数送り、樟脳製造業者に樟脳と油を併せて採る方法を伝授し、一面製造業者の利益を図ると同時に、生産品を一手に買い取り大儲けする準備に取り掛かった。また、一般人民の渡航が許可されると同時に各地に出張所を設け、製脳地に人を派して製脳方法を伝授し、一方またその製品を買い取る設備をした。
年若い彼が、領有後年浅い台湾において当時既にこの計画を立てたが、これは見事に的中した。利に敏い製造業者は風を望んで製脳方法を改良し、年々多量の油を生産するに至ったのでこれを一手に買収して神戸に送り、製脳所において精製して欧米に輸出した。これによって鈴木商店は莫大な利益を収めた。
年若い彼が、領有後年浅い台湾において当時既にこの計画を立てたが、これは見事に的中した。利に敏い製造業者は風を望んで製脳方法を改良し、年々多量の油を生産するに至ったのでこれを一手に買収して神戸に送り、製脳所において精製して欧米に輸出した。これによって鈴木商店は莫大な利益を収めた。
日本樟脳株式会社
この会社は大正七年二月当時に存在した七社が合併したものである。金子直吉ならびに三井物産の藤瀬、竹田文吉、藤沢友吉、落合牛太郎その他多数の発起人によって創立された。資本金は六百万円である。
この会社は本邦産粗製樟脳を原料として精製樟脳を製造し、主として欧米、インドその他海外に輸出ならびに内地売りを業とする本邦唯一の精製樟脳会社である。
金子が明治十九年神戸鈴木商店に入店以来、樟脳の事業ならびに商売を非常に熱心に研究した。明治三十年頃時の台湾民政長官後藤新平伯に対し、本邦特産品である樟脳を専売にする必要を力説したことが動機となった。明治三十三年に、まず台湾に、それに引き続いて明治三十五年に、内地に樟脳専売局が生まれた。また金子は明治三十五年に神戸市雲井通五丁目にあった住友の樟脳精製工場を買い受け、この工場の一部に居住した。また、鈴木商店総支配人として非常に多忙であったにもかかわらず、朝夕この工場を巡視し、従業員を励まし、樟脳精製の品質改良と技術の進歩に熱心な努力を払った。この工場が現在の日本の樟脳会社本社第一工場である。これ以来、日本精製樟脳は世界でその名声を博し、外貨獲得に多大な貢献をしたのである。
金子はこの他に本邦の樟脳の前途のために百年の計を立て、九州、四国、紀州等の各地に樟樹楠の植林を盛んに実行した。後に帝国樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。なおまた樟脳生油から最も有利な方法で再製樟脳を採集する研究に成功し、後に再製樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。
なおまた世界的に樟脳の需要が旺盛になった大正の初期、上海に支那樟脳株式会社を設立し誰よりも早く中国樟脳に先鞭をつけ、その需要に応じ国策に大いに貢献した。このように金子は樟脳の植林―山製―再製―精製等を一貫させ、徹底的に樟脳事業に熱心な努力を払い、多大な貢献を行った。その努力絶倫には驚くとともに我が樟脳界の恩人であることを痛感する次第である。前記七社とは、鈴木商店樟脳工場、竹田文吉が経営した旭樟脳会社、藤沢樟脳、神戸樟脳会社、葺合樟脳会社、台北にある台湾精製樟脳会社、および三井物産が持っていた粗製樟脳である。それらは、海外輸出取扱商権等をひとつにして各社の無益な競争を避け、また、粗製よりもかなり多くこれを精製して輸出したいという国策上の見地から合併されたのである。創立当時から鈴木商店系の持ち株は五割、三井、竹田、藤沢、三者で五割だったが、昭和二年鈴木の整理に際し鈴木の持ち株は少しばかり減少し四割三七五となった。それでも今なおこれは鈴木の後継会社が所有している。
この会社は本邦産粗製樟脳を原料として精製樟脳を製造し、主として欧米、インドその他海外に輸出ならびに内地売りを業とする本邦唯一の精製樟脳会社である。
金子が明治十九年神戸鈴木商店に入店以来、樟脳の事業ならびに商売を非常に熱心に研究した。明治三十年頃時の台湾民政長官後藤新平伯に対し、本邦特産品である樟脳を専売にする必要を力説したことが動機となった。明治三十三年に、まず台湾に、それに引き続いて明治三十五年に、内地に樟脳専売局が生まれた。また金子は明治三十五年に神戸市雲井通五丁目にあった住友の樟脳精製工場を買い受け、この工場の一部に居住した。また、鈴木商店総支配人として非常に多忙であったにもかかわらず、朝夕この工場を巡視し、従業員を励まし、樟脳精製の品質改良と技術の進歩に熱心な努力を払った。この工場が現在の日本の樟脳会社本社第一工場である。これ以来、日本精製樟脳は世界でその名声を博し、外貨獲得に多大な貢献をしたのである。
金子はこの他に本邦の樟脳の前途のために百年の計を立て、九州、四国、紀州等の各地に樟樹楠の植林を盛んに実行した。後に帝国樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。なおまた樟脳生油から最も有利な方法で再製樟脳を採集する研究に成功し、後に再製樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。
なおまた世界的に樟脳の需要が旺盛になった大正の初期、上海に支那樟脳株式会社を設立し誰よりも早く中国樟脳に先鞭をつけ、その需要に応じ国策に大いに貢献した。このように金子は樟脳の植林―山製―再製―精製等を一貫させ、徹底的に樟脳事業に熱心な努力を払い、多大な貢献を行った。その努力絶倫には驚くとともに我が樟脳界の恩人であることを痛感する次第である。前記七社とは、鈴木商店樟脳工場、竹田文吉が経営した旭樟脳会社、藤沢樟脳、神戸樟脳会社、葺合樟脳会社、台北にある台湾精製樟脳会社、および三井物産が持っていた粗製樟脳である。それらは、海外輸出取扱商権等をひとつにして各社の無益な競争を避け、また、粗製よりもかなり多くこれを精製して輸出したいという国策上の見地から合併されたのである。創立当時から鈴木商店系の持ち株は五割、三井、竹田、藤沢、三者で五割だったが、昭和二年鈴木の整理に際し鈴木の持ち株は少しばかり減少し四割三七五となった。それでも今なおこれは鈴木の後継会社が所有している。
再製樟脳株式会社
再製樟脳株式会社もまた第一次欧州戦争中にできたもので、この会社は樟脳生油の中に残っている樟脳を蒸留して再製樟脳をこしらえる目的でできたものである。従来の方法では樟脳油を釜に入れて下から火を炊き蒸留させたものであるが、鈴木商店においては、金子の命によって村橋素吉が明治四十一年頃からその研究に着し、大正六年に至ってようやくその研究を完成させ、独特の設備による蒸留方法が案出された。その方法は非常に高い塔をこしらえ、塔の中に湯を通して湯の力で蒸留する装置である。従来直接火にかけていたものを湯で蒸留するため、消散量が著しく減少し、樟脳の歩付がそれだけ多くなった。これまた蒸留化学の一大発明で、他の追随を許さない。
この会社は専売局から樟脳生油を一手に売り下げを受け、それを蒸留分解して再製樟脳および樟脳赤油、白油、藍油等を製造する本邦唯一の会社である。この会社で製造した再製樟脳は全部再び専売局に納入し樟脳赤油、白油、藍油等は全部鈴木商店樟脳部に売り渡しこれを海外に輸出あるいは内地需要に売り渡したものである。後年昭和二年鈴木商店が整理される時から同社の姉妹会社として同社の関係者が日本香料薬品株式会社を設立しこの会社に樟脳、赤油、白油、藍油を売り渡すことになったのである。
なおこの再製樟脳会社は金子が非常に力を注いだ会社であって、往年直火式蒸釜を使って分留していた。窪田平吉、池田貫兵衛、小松楠弥、河合義雄、小松楠吉、小松駒太郎、大野和吉ら多数の業者を合併し、最初神戸市和田岬、ついで神戸市小野浜通りに工場を建設し依然として直火式蒸留釜で作業を続けていた。しかしこの方法は作業上危険の程度が非常に高く、かつ樟脳の収量が理想的でない等の欠点が多かったので、金子は熟慮の結果、多大な出費の犠牲を払い、村橋素吉を研究主任技師とし顧問に杉山仲蔵技師、担当技師に海宝善八郎その他多数の研究員を督励し、ようやく完全かつ理想的な他の追随を許さない蒸留炉を発明し、実に非常に業界に貢献した。この蒸留の特許があるため今日まで専売局から一手に原料の売り下げを受け、再製樟脳事業を継続することができた本邦唯一の会社となることができたのである。当会社の株主としてはほとんど大部分が鈴木商店の所有であって、その経営は金子の子飼い弟子というべき小野禎一郎に担当させていたところ、昭和二年鈴木商店が整理されることになりこの所有株は後日返してもらう約束の下に松野鶴平に預けられたが、その後鈴木がこの株を取り戻そうとしたが松野氏は返還に応じなかったようである。なおこの会社の社長は長らく前記小野禎一郎だったが、後に松野鶴平になった。
姉妹会社の日本香料会社の社長には小野禎一郎長男嘉七が就任し今日に及んでいたが、嘉七は最近逝去された。
この会社は専売局から樟脳生油を一手に売り下げを受け、それを蒸留分解して再製樟脳および樟脳赤油、白油、藍油等を製造する本邦唯一の会社である。この会社で製造した再製樟脳は全部再び専売局に納入し樟脳赤油、白油、藍油等は全部鈴木商店樟脳部に売り渡しこれを海外に輸出あるいは内地需要に売り渡したものである。後年昭和二年鈴木商店が整理される時から同社の姉妹会社として同社の関係者が日本香料薬品株式会社を設立しこの会社に樟脳、赤油、白油、藍油を売り渡すことになったのである。
なおこの再製樟脳会社は金子が非常に力を注いだ会社であって、往年直火式蒸釜を使って分留していた。窪田平吉、池田貫兵衛、小松楠弥、河合義雄、小松楠吉、小松駒太郎、大野和吉ら多数の業者を合併し、最初神戸市和田岬、ついで神戸市小野浜通りに工場を建設し依然として直火式蒸留釜で作業を続けていた。しかしこの方法は作業上危険の程度が非常に高く、かつ樟脳の収量が理想的でない等の欠点が多かったので、金子は熟慮の結果、多大な出費の犠牲を払い、村橋素吉を研究主任技師とし顧問に杉山仲蔵技師、担当技師に海宝善八郎その他多数の研究員を督励し、ようやく完全かつ理想的な他の追随を許さない蒸留炉を発明し、実に非常に業界に貢献した。この蒸留の特許があるため今日まで専売局から一手に原料の売り下げを受け、再製樟脳事業を継続することができた本邦唯一の会社となることができたのである。当会社の株主としてはほとんど大部分が鈴木商店の所有であって、その経営は金子の子飼い弟子というべき小野禎一郎に担当させていたところ、昭和二年鈴木商店が整理されることになりこの所有株は後日返してもらう約束の下に松野鶴平に預けられたが、その後鈴木がこの株を取り戻そうとしたが松野氏は返還に応じなかったようである。なおこの会社の社長は長らく前記小野禎一郎だったが、後に松野鶴平になった。
姉妹会社の日本香料会社の社長には小野禎一郎長男嘉七が就任し今日に及んでいたが、嘉七は最近逝去された。
後藤新平伯との接近
台湾進出によって鈴木商店の基礎がようやく確立しようとしていた時、後藤新平が民政長官として赴任してきた。同伯は赴任早々この製脳事業を総督府の専売事業にし統一しようとする案を立てた。ところが当時鈴木にならって台湾で製脳事業に従事していた大小幾多の製脳事業家は折角開拓したこの甘い仕事を取り上げられてはたまるかと、こぞって猛烈な反対を試みた。さすが剛腹の後藤もちょっと弱っていたが、金子は「製脳事業直営は結構です。わしは長官の意見に賛成です」と言明した。台湾における製脳事業の鼻祖である金子がこのように大胆に言明したことは、後藤としては泣くほど嬉しかったに違いない。彼はその上この言明を実行に移し専売当局の祝巽とともに、猛烈な反対運動に血道をあげている製脳業者の陣営を切り崩すことに成功し、遂に官営実施となった。そして、その功労のためか官営樟脳の六割五分の販売権を鈴木商店に与えるという事になった。商売敵が雲のように輩出している中で樟脳事業にしがみついているよりも一手販売権を握ってソロバンを弾いた方がどれだけましか分からないと、先を見たのであろう。ここで彼は後藤伯と意気相投合し、その才幹を認められ、すなわち絶対の信任を受け、遂に後藤伯の力を背景として他日台湾銀行に接近する端緒を作ったのである。これが鈴木商店崛起の遠因である。それからは台湾における公務上のことはもちろん、一般統治上のことまでも彼の意見を徴するまでになった。
その後、樟脳専売に関する法律案が議会を通過しいよいよ実施されようとしたとき、金子はもちろん樟脳も副産物の油も併せて販売権を一手に収めようと盛んに暗中飛躍を試みた。しかし、樟脳は入札で一手販売人を決定することになった。それには百九十万円の保証金が必要だったが、この保証金は当時の鈴木商店ではいかんともしようがなかった。そこで入札は断念し、サミュエル商会が入札の結果、販売を一手に引き受けることになった。そのため樟脳の方はやむを得ず断念したが、樟脳の副産物である油は、台湾が我が領土になる以前にはなかった物産で、これを台湾の物産とした。これは台湾がなお血生臭かった時代に鈴木商店から沢山の人を台湾に派遣し製造方法を授けたものである。これは今日専売の目的である台湾の一大産物とまでになった。しかしその頃、横浜の実業家増田、阿部、大谷の諸氏が中心となって創立した台湾貿易会社というのがあった。これが樟脳油についても盛んに鈴木商店と競争となり、その結果鈴木商店が六割五分、台湾貿易が三割五分の割合で取り扱うことになった。これが後の樟脳再製株式会社の起源である。
さて一方、樟脳の専売を実行した結果はどうなったかというと、台湾において樟脳の専売を計画した当時は内地の樟脳は全く市場から姿を消していたが、一度専売となってから値段が高騰してくると、内地からも沢山の樟脳が出るようになった。そのため樟脳の専売を引き受けたサミュエル商会から政府に苦情が出た。当初は、台湾以外、世界には樟脳がないという建前でできた専売であるのに、内地から続々と樟脳が出るので専売のありがたみが薄くなってきたのである。ここにおいて樟脳の専売を内地にも及ぼす計画をたてたが、政府はこれを議会に提出したものの否決となった。そのため、さらにまた翌年の明治三十二年の議会に提出し、右法律案はようやく議会を通過して台湾と内地とに共通の専売法が制定されることになった。依然として樟脳は サミュエル、油は鈴木と台湾貿易とに払い下げられていた。その後間もなく鈴木商店では住友樟脳精製所を買収し三十七年にはさらに政府から専売の樟脳の払い下げを受け、これを精製して海外に販売する事業を始めた。すなわち鈴木商店は樟脳の専売によって一時樟脳貿易の事業を失ったがここにいたって再び精製樟脳の貿易を回復することが出来た。それとともに、広く日本の樟脳事業といえば精製樟脳貿易が従来の粗製樟脳貿易にとってかわった。これは鈴木商店の将来の大飛躍の基礎となった。
明治三十五年頃、後藤民政長官は台湾から帰途、下関の山陽ホテルに投宿した。これを伝え聞いた金子は後藤伯をホテルに訪問し、「さてこれからどんな行程をとられるのか」と尋ねると、伯は「途中徳山に下車し、それから東京へ行く」とのことで、従者もなくただ一人旅でいかにも不自由そうに見えた。そこでボーイ役を務めましょうと、伯と同車して徳山まで見送ったことがある。その汽車中、伯は「基隆の港が寂しくて困る。何とか賑わす方法はないか」と尋ねたので、金子は「いかにも難しい問題でありますが、腹を決めてやったなら面白いことがあります。それは砂糖の精製所をこしらえることであります。というと、台湾の砂糖を精製するのだとお考えになるかも知れませんが、台湾の砂糖は原料にするほどまだ立派なものはできていませんから、ジャワあたりから原料を取り寄せてこれを精製して内地へ送り、支那その他の各地へ販売するという案であります。この事業を始めれば南洋からも原料糖を積んだ三四千トンの船が毎日二三艘入る。また、精製糖を積む船も来る。ただこの場合、台湾糖を原料にしないのは遺憾でありますが、今の分では如何にも幼稚で致し方ありません。しかしこれが刺激になって発展を促し、他日精製糖の原料をつくる端緒にはなろうと思います」と意見を述べた。伯はその時この問題について別段可否を言われなかったが、賛成らしい様子に見えたの。伯が徳山に行ったのは児玉総督の兄が同地に図書館を建てたのを見に寄ったからである。氏は徳山で伯と別れ、そのまま神戸に帰り伯は徳山から東京に帰った。その後二週間くらい経つと後藤勝蔵氏から「後藤伯が用があるから速やかに上京せよ」との伝言があった。
上京してみると、伯の話に先立って「帰社中で聞いた精製糖の工場をつくる案は至極面白いと思うから計画を建てろ」とのことだった。金子は伯に向かって「基隆は工場を建てるには不向きの場所でありますが、ただその基隆繁栄のためにやるのだから無理があります。それは政府において保護をするお考えか」と念を押し、委細了承して神戸に帰った。
その頃大阪都島に日本製糖会社というのがあって、松本重太郎、不二樹熊二郎、野田吉兵衛、本山彦一らの経営で、大阪、神戸の商人に精製糖を売っていた。しかし、専務の不二樹熊二郎という男のやり方が横暴で商人側はいつも困っていた。その結果鈴木商店、藤田助七その他関西の主だった同業者が相談して別に精製糖会社を起こす目的で機械の見積もり等既に電報でロンドンに頼んでいたので、工場の設計機械の見積もり等一切の計画は案外早く出来上がった。そこで金子はその案をもって再び東京に伯を訪ね、かくかくの程度のものをやってはと建言した。伯は氏の設計が意外に早く出来上がったのに驚いたらしかったが、非常に満足で早速機械を購入し技師を雇い入れるなど着々として準備を急いでいた。
伯は丁度その頃、前に述べた樟脳の専売に関する台湾と内地との共通法案を議会に提出中であった。これが議会で問題となり非常に攻撃を受け、衆議院だけはかろうじて通過したが貴族院では遂に否決となった。その時、「後藤は鈴木に金儲けをさせるためだ」などという攻撃もあった。そこで金子は即刻伯に面会を求めて、「先立ってお約束の基隆の精製糖工場はやめようではありませんか」と申し出た。伯はなぜかと訊くので金子はそれに対し「基隆は先に申し上げたように工場を建てるには不利益な土地です。従って多大の補助奨励金をもらわなければなりません。しかし議会の有り様が今日のようでは沢山の補助奨励金をもらっては攻撃が一層激しくなるに違いありません。閣下が台湾の民政長官をされている間はそれで良いとしても、閣下は釘付けではないからいつ他に転任されるか分かりません。しかし砂糖会社はあとに残されます。その時に後の民政長官が腰の強い人であれば補助奨励金をもらえましょうが、弱い方が来ると補助奨励金などは撤廃されないとも限りません。そうなると自分などは砂糖の工場を持って非常に困ります。議会が砂糖に対し、また基隆の発展に対して理解のない時代はこの方は止めて、私は私の最善であると信じる場所に独立して工場を創りたいと考えます」と答えた。すると、それまで一言も発せず黙って聞いていた伯は大きくうなずいて、「そうか至極もっともな道理だからそうしたらよかろう」と言って同意を表せられ、基隆の砂糖工場の計画はそれでやめになった。
(当時後藤新平に爵位はなかったが、ここまでは単に呼びやすい点から「後藤伯」と敬称したのである)
その後、樟脳専売に関する法律案が議会を通過しいよいよ実施されようとしたとき、金子はもちろん樟脳も副産物の油も併せて販売権を一手に収めようと盛んに暗中飛躍を試みた。しかし、樟脳は入札で一手販売人を決定することになった。それには百九十万円の保証金が必要だったが、この保証金は当時の鈴木商店ではいかんともしようがなかった。そこで入札は断念し、サミュエル商会が入札の結果、販売を一手に引き受けることになった。そのため樟脳の方はやむを得ず断念したが、樟脳の副産物である油は、台湾が我が領土になる以前にはなかった物産で、これを台湾の物産とした。これは台湾がなお血生臭かった時代に鈴木商店から沢山の人を台湾に派遣し製造方法を授けたものである。これは今日専売の目的である台湾の一大産物とまでになった。しかしその頃、横浜の実業家増田、阿部、大谷の諸氏が中心となって創立した台湾貿易会社というのがあった。これが樟脳油についても盛んに鈴木商店と競争となり、その結果鈴木商店が六割五分、台湾貿易が三割五分の割合で取り扱うことになった。これが後の樟脳再製株式会社の起源である。
さて一方、樟脳の専売を実行した結果はどうなったかというと、台湾において樟脳の専売を計画した当時は内地の樟脳は全く市場から姿を消していたが、一度専売となってから値段が高騰してくると、内地からも沢山の樟脳が出るようになった。そのため樟脳の専売を引き受けたサミュエル商会から政府に苦情が出た。当初は、台湾以外、世界には樟脳がないという建前でできた専売であるのに、内地から続々と樟脳が出るので専売のありがたみが薄くなってきたのである。ここにおいて樟脳の専売を内地にも及ぼす計画をたてたが、政府はこれを議会に提出したものの否決となった。そのため、さらにまた翌年の明治三十二年の議会に提出し、右法律案はようやく議会を通過して台湾と内地とに共通の専売法が制定されることになった。依然として樟脳は サミュエル、油は鈴木と台湾貿易とに払い下げられていた。その後間もなく鈴木商店では住友樟脳精製所を買収し三十七年にはさらに政府から専売の樟脳の払い下げを受け、これを精製して海外に販売する事業を始めた。すなわち鈴木商店は樟脳の専売によって一時樟脳貿易の事業を失ったがここにいたって再び精製樟脳の貿易を回復することが出来た。それとともに、広く日本の樟脳事業といえば精製樟脳貿易が従来の粗製樟脳貿易にとってかわった。これは鈴木商店の将来の大飛躍の基礎となった。
明治三十五年頃、後藤民政長官は台湾から帰途、下関の山陽ホテルに投宿した。これを伝え聞いた金子は後藤伯をホテルに訪問し、「さてこれからどんな行程をとられるのか」と尋ねると、伯は「途中徳山に下車し、それから東京へ行く」とのことで、従者もなくただ一人旅でいかにも不自由そうに見えた。そこでボーイ役を務めましょうと、伯と同車して徳山まで見送ったことがある。その汽車中、伯は「基隆の港が寂しくて困る。何とか賑わす方法はないか」と尋ねたので、金子は「いかにも難しい問題でありますが、腹を決めてやったなら面白いことがあります。それは砂糖の精製所をこしらえることであります。というと、台湾の砂糖を精製するのだとお考えになるかも知れませんが、台湾の砂糖は原料にするほどまだ立派なものはできていませんから、ジャワあたりから原料を取り寄せてこれを精製して内地へ送り、支那その他の各地へ販売するという案であります。この事業を始めれば南洋からも原料糖を積んだ三四千トンの船が毎日二三艘入る。また、精製糖を積む船も来る。ただこの場合、台湾糖を原料にしないのは遺憾でありますが、今の分では如何にも幼稚で致し方ありません。しかしこれが刺激になって発展を促し、他日精製糖の原料をつくる端緒にはなろうと思います」と意見を述べた。伯はその時この問題について別段可否を言われなかったが、賛成らしい様子に見えたの。伯が徳山に行ったのは児玉総督の兄が同地に図書館を建てたのを見に寄ったからである。氏は徳山で伯と別れ、そのまま神戸に帰り伯は徳山から東京に帰った。その後二週間くらい経つと後藤勝蔵氏から「後藤伯が用があるから速やかに上京せよ」との伝言があった。
上京してみると、伯の話に先立って「帰社中で聞いた精製糖の工場をつくる案は至極面白いと思うから計画を建てろ」とのことだった。金子は伯に向かって「基隆は工場を建てるには不向きの場所でありますが、ただその基隆繁栄のためにやるのだから無理があります。それは政府において保護をするお考えか」と念を押し、委細了承して神戸に帰った。
その頃大阪都島に日本製糖会社というのがあって、松本重太郎、不二樹熊二郎、野田吉兵衛、本山彦一らの経営で、大阪、神戸の商人に精製糖を売っていた。しかし、専務の不二樹熊二郎という男のやり方が横暴で商人側はいつも困っていた。その結果鈴木商店、藤田助七その他関西の主だった同業者が相談して別に精製糖会社を起こす目的で機械の見積もり等既に電報でロンドンに頼んでいたので、工場の設計機械の見積もり等一切の計画は案外早く出来上がった。そこで金子はその案をもって再び東京に伯を訪ね、かくかくの程度のものをやってはと建言した。伯は氏の設計が意外に早く出来上がったのに驚いたらしかったが、非常に満足で早速機械を購入し技師を雇い入れるなど着々として準備を急いでいた。
伯は丁度その頃、前に述べた樟脳の専売に関する台湾と内地との共通法案を議会に提出中であった。これが議会で問題となり非常に攻撃を受け、衆議院だけはかろうじて通過したが貴族院では遂に否決となった。その時、「後藤は鈴木に金儲けをさせるためだ」などという攻撃もあった。そこで金子は即刻伯に面会を求めて、「先立ってお約束の基隆の精製糖工場はやめようではありませんか」と申し出た。伯はなぜかと訊くので金子はそれに対し「基隆は先に申し上げたように工場を建てるには不利益な土地です。従って多大の補助奨励金をもらわなければなりません。しかし議会の有り様が今日のようでは沢山の補助奨励金をもらっては攻撃が一層激しくなるに違いありません。閣下が台湾の民政長官をされている間はそれで良いとしても、閣下は釘付けではないからいつ他に転任されるか分かりません。しかし砂糖会社はあとに残されます。その時に後の民政長官が腰の強い人であれば補助奨励金をもらえましょうが、弱い方が来ると補助奨励金などは撤廃されないとも限りません。そうなると自分などは砂糖の工場を持って非常に困ります。議会が砂糖に対し、また基隆の発展に対して理解のない時代はこの方は止めて、私は私の最善であると信じる場所に独立して工場を創りたいと考えます」と答えた。すると、それまで一言も発せず黙って聞いていた伯は大きくうなずいて、「そうか至極もっともな道理だからそうしたらよかろう」と言って同意を表せられ、基隆の砂糖工場の計画はそれでやめになった。
(当時後藤新平に爵位はなかったが、ここまでは単に呼びやすい点から「後藤伯」と敬称したのである)
大里製糖工場の設立
その当時鈴木商店は大阪桜ノ宮の日本精糖から砂糖を買っていた。当時関西の糖界に勇躍して精糖業者の利益を聾断していたのはこの日本精糖会社であった。後年財界で飛ぶ鳥を落とした松本重太郎が社長で、その旨を含んで八方に踏ん張ったのが専務取締役の不二樹熊二郎である。不二樹は富田屋でだんだら遊びをやった挙句、名代が売った妓で当時大阪南地で唄われた名妓八千代を根こそぎ引き抜いたほどの辣腕であったが、それをさらに糖界に十倍の強さで振るったものである。その当時会社の重役方は皆こんな風な男が多かった。商売上砂糖を買うにもいちいち不二樹をお茶屋へ読んで八千代を同席に侍らせて甘ったるい談をしなければ話がうまく運ばなかった。当時関西の糖業者はその横暴ぶりに憤慨していた。中でもその品行方正な金子にとって、こんな敏速を欠いたお茶屋入りの芸当までして、おまけに一方的な仰せの値段で取引するようでは、非常に商売がしにくい。そこで一つ自分で精糖会社の設立を思い立ち、前に述べたように三分の二は鈴木、三分の一は親戚同様の藤田助七が出資することになった(明治三十六年)。そこでどこに精糖会社を建てたら有利であるか種々研究した。この時頭に浮かんだのがかつて神戸の商業会議所で聴いた稲垣満次郎の東方策という演説で、石炭と運輸交通とが商工業の発達に最も緊密な関係があるという一説である。石炭があること、運搬の便があること、これらが工業の運命を支配する鍵であると。その講演の意味の記憶をたどって味わってみると、その資格を備えた場所は門司付近の他にない。あの辺ならば成功は間違いないと見当をつけた(なおこの地が有利なことは大隈侯も氏に説明したという説もある)。精糖会社をこしらえるには石炭が安くて大量の淡水がなければならない。しかし大船を横付けできる沿岸であることを必要とするため、大船がつく河尻だと塩水が混じって砂糖の精製に適さない問題があった。条件を備えたところはと言うので門司と小倉との間をいくども調査した。しかし不思議にも氏はこの時樟脳の共通法で少なからず骨を折った福岡県の選出代議士藤金作から、「小倉の手前に大里というのがあり、そこに大川という小さな川が流れているが、その川の水は昔から年中枯れたことがなく、また塩気が少しもない」という話を聞いた。実地に調べてみるといかにも小さな流れではあるがこんこんとして流水は尽きない。塩分もない。そこでいよいよ大川尻に土地を選定して工場の建設に着手した。これが後年大日本精糖会社と競争して遂に六百五十万円で日糖に買収させた大里精糖会社の発端である。当時この計画は極めて秘密裏に運ばれたが、いつか世間に漏れると不二樹始め精糖事業の関係者たちは「大里の水にはアンモニアが一杯あるから工場は出来ても砂糖は出来ない。結局工場は潰れて後にレンガと石ころのみが残るであろう。無分別なことをしたものだ」と盛んに嘲笑した。けれども金子はそんな噂などには少しも耳をかさず、屈せず、大いに勇猛心を起こして「レンガ一枚を馬蹄一枚に交換するのだ」と豪語しながら遂に立派な工場を打ち建てた。さて運転開始の段になると、不二樹の祟りか不思議にも砂糖が固まりがちで、東京は大阪の精糖会社で出来るようなさらさらしたものが出来ない。色々と改良はするが、その度に原価高になって製品が高くなり一般の向きが悪くなかなか売れない。工場運転の最初は金子も職工とともに夜間汽缶室の前に寝ずに陣取って製品の出来具合を心配し、職工とともに苦労したがやはり製品は固まる。
この固まりがちの原因をだんだん調べてみると、これは「ディスインテグレーター」という砂糖を撹拌する機械に欠陥があり、かつ運転に不熟練であったことが分かった。
この機械の名称について面白い話がある。金子は英語に通じていないから、教えた人が誤ったのか氏が聞き違えたのか、この機械の名を「リクヒンリグレット」と覚えた。そして、この機械の扱い方を知るために京都帝大へ行って某博士に面会した。そこでようやく「ディスインテグレーター」の誤りであることが分かった。けれども、負け惜しみの強い金子は「ディス」でも「リク」でも要するに発音の違いに過ぎない。現に米国人は「ポールモール」(紙巻たばこの一種)と呼ぶが、英国人は「ベルメル」と発音するじゃないか、と当意即妙にやってのけた。
さて、この原因は分かったが、それを改善する技師も職工も大里にはいない。金子は大いに弱って外国へ電報して西洋人を雇い入れようと決意した。そこへある日一人の職工らしい男が訪ねて来た。氏は何事だろうと会ってみると、その男はじゅんじゅんと砂糖の製法を話しだした。まず砂糖製法の秘訣は、砂糖の色素を去り無色透明にしてこれに硫酸を加えてブドウ糖に変化させる。これを「ピスコ」という。この流動体を下からピストンで押し上げて、噴霧状態にして吹き込む…などとやりだし、加えて「ディスインテグレーター」の運用効能を詳細に説明した。氏は「天使来たる」とばかりに喜んで、どうしてここへ来たのか、どこから来たかと尋ねると、またその返事が振るっている。「実は私は桜ノ宮(都島ともいうが)の日本精糖の工場にいて長年この機械を扱っている職工だが、先日不二樹専務が工場へ来られた際、ポケットから一枚の写真を取り落として行った。私は何気なく拾い上げて見ると、頗る美人。聞けばこの美人が八千代という専務寵愛の芸者だとのこと。私らは職工であるが一生懸命に事業のために働いている。しかし専務は芸者遊びをして、しかもその写真を懐中にしてほうけているとは沙汰の限り。そういう人に使われるのは潔しとしない。これに反して大里の首脳者である貴下は品行極めて方正で、日夜真面目に事業のために奮闘しておられることを知り、貴下の人格を慕い貴下の下で働きたいので桜ノ宮から暇を取って来ました」と、じゅんじゅんとして説き去り説き来るその態度が熱心なため、金子は「私も木石ではないから女を嫌いだというわけではないが、病人が苦い薬を飲んで養生するのも一つの修養で、坊さんが限りない煩悩を断って衆生を済度するのも一つの誓願である。私らは仕事のために酒や女を顧みず日夜真面目に働くのも、仕事を物にして幾分でも世の中のためになりたいと思うからである」と互いに胸襟を開いて肝胆を照らし、大いに喜んで早速その職工を重用し、明治三十六年終わりに桜ノ宮に優るとも劣らない立派な優良品を創りだすようになり、ようやく所期の目的を達した。
そこで東京と大阪の砂糖会社は恐慌を来たし、その結果彼らの合併を促進させることになった。大里にも合同談の交渉があったが、その返答を留保している間に他の二社の合併談が着々進捗した。農学博士酒匂常明が農務省の農務局長をやめて社長となり、磯村音介が専務、秋山一裕が常務となり、陣容を新たにして大里精糖を圧迫しにかかって来た。合併後の日本製糖は資本金も大きく生産額も多いので、大里の如きはひとたまりもなく揉み潰されるであろうともっぱらの噂であった。しかしこちらにはもと国民新聞の記者であった人見一太郎という人がいて、一切の指揮をしてこれに対抗した。文筆を持つほどの人であるから多少偏見傲慢な性質はあったが、極めて清廉剛直、厳格ではあるが温情に富み部下は皆悦服していた。そのため砂糖を安い原価で仕上げるという経済上の原則が完全にこの工場で行われるとともに、ジャワから来る原糖も一日二日早く来る。運賃もそれだけ安い。石炭もまた引込線で工場へ直に運べるから安い。大阪の製糖会社は淀川の上流桜ノ宮に工場があって、ジャワから砂糖が着くとまず安治川尻で小船に積み替え造幣局の近くまで行かねばならない。東京の方は横浜で積み替えて永代橋際まで持って行き小船に積み替えて小名木川を上って行かなければならないのだが、こちらは大里から直に工場の倉庫へ直接荷を引くことができる。その結果当時の計算で原糖一俵について六十銭以上の相違を生じたということである。
一方販売戦に当たったのが当時の相番頭の柳田富士松である。これは小僧時代から砂糖の中で育った男であるだけに、その道の商売にかけてはこの人の向こうを張って太刀打ちできる者は天下にあるまいとまで言われる人物であった。結果、大里製糖は規模こそ小であり無名の会社ではあったが、工場販売とも百パーセントの戦闘条件備えていた。これに立ち向かった日糖は看板だけは立派でも到底競争上敵ではないというので、再び合併談を進めてきた。しかし、金子はこれに応じず、「勝つべからざる者は守なり。勝つべき者は攻なり。守は即ち足らざればなり、攻は即ち余り有ればなり」を考慮し、買収なら相談に乗る用意があると言った。それに対し、先方から盛んに買収の交渉があり、結局値段の点で七百五十万円でどうだと言ったが、六百五十万円に負けて折衝がついた。明治四十二年、大日本製糖会社に売りつけ、鈴木はこれによって一躍千万長者の列に加わったのである。
しかし一方また買収値段の方で百万円負けた代わりに条件として北海道、九州、山陰山陽、朝鮮における一手販売権獲得の調印をした。この時隣席にあった馬越恭平は金子の肩を叩いて「金子さん出来したナー」と揶揄感嘆したとのことである。
鈴木商店が他日財界に雄飛する元はといえば、この大里工場を売った六百五十万円であった。しかしこの取引が成立した時は、双方とも有頂天でその手打ちは京都祇園の中村桜で大小の美妓五十人も侍らせての大宴会であった。世話人には一万円宛も贈呈するという騒ぎだった。このところで少し面白いのは、その頃有名な成金鈴木久五郎は、全盛時代でも鼻息当たるべからず、何だ一万円の端金、貰わない方が立派じゃないかと言い出したので、東京側の世話人は、ついその気になって感謝状だけをもらい、関西側は現ナマをありがたく頂戴して引き揚げたそうである。
大里製糖が買収になると、まもなく日糖事件なるものが勃発し、社長酒匂博士が自殺し、専務の磯村以下は収監された。この時日糖の整理には、財政的手腕の優れた点から金子が最も適任であろうということで渋沢子爵が金子を飛島山の自邸に呼んで懇談した。しかし、彼は、「鈴木商店は日糖の大債権者である。私が整理に当たると原告と被告が一緒になるようなものだからお断りする」と断然と断った。結局、藤山雷太を中心に指田義男その他の諸氏が委員となって債権者会議の開催を見た。当時債権者会議の大勢は鈴木が大里製糖を売った金のうち現金二百五十万円を受け取り後の四百万円が社債となって残っている。これを棒引きさせようと、三井銀行始め二十余名の債権者が連合して金子一人に向かってやかましく交渉して来た。この論戦が間をおいて三十日にもわたった。この時最も激しくがくがくの議論でぶつかったのが三十四銀行の小山建三であった。腕をまくりげんこつまで振り上げ威嚇的態度にまで出たという噂が伝わったほどである。したがってこの債権者会議は日糖との談判ではなく鈴木商店の金子をとりひしぐ談判に終始したようなものであった。
最後に両国の亀清の桜上で夜を徹して整理案が作成され、金子は鈴木商店のために得意の熱弁を振るって応酬しよく戦い抜き、結局日糖に対する四百万円の社債は償還期間の四年を六年に伸ばしたのみで一歩も譲歩しなかった。のみならず、従来無担保の社債に対して大里工場を担保に取って担保付信託社債に書き換えさせ、かえって鈴木のために債権を確保するという反対の効果を収めたのである。
そこで金子は最早鈴木も基礎を固める時と考え、鈴木の近親を集めて鈴木商店の今後をどうするかという相談会を開いた。商人にとって最も危険なのは支店を多く持つことだから、むしろこの際商売を緊縮して砂糖もやめ、一切の支店を廃し本店のみ守ってはどうかとまで考えたが、大里製糖が日糖に買収された際に北海道方面の一手販売権を得ているために、函館、小樽の支店を廃することもできず、九州方面の一手販売権を得ているために下関の支店も廃することができず、結局急角度の転換も行われず現状維持でただ商売を一層堅くやって行こうということに確けく方針を立て直した。
もしここでこのまま消極的方針でやっていたなら、金子はあれほどまでに有名になることもなく、鈴木商店も世界的に有名にもなることもなく、また昭和二年の破綻にも遇わずにも済んだかも知れない。
この固まりがちの原因をだんだん調べてみると、これは「ディスインテグレーター」という砂糖を撹拌する機械に欠陥があり、かつ運転に不熟練であったことが分かった。
この機械の名称について面白い話がある。金子は英語に通じていないから、教えた人が誤ったのか氏が聞き違えたのか、この機械の名を「リクヒンリグレット」と覚えた。そして、この機械の扱い方を知るために京都帝大へ行って某博士に面会した。そこでようやく「ディスインテグレーター」の誤りであることが分かった。けれども、負け惜しみの強い金子は「ディス」でも「リク」でも要するに発音の違いに過ぎない。現に米国人は「ポールモール」(紙巻たばこの一種)と呼ぶが、英国人は「ベルメル」と発音するじゃないか、と当意即妙にやってのけた。
さて、この原因は分かったが、それを改善する技師も職工も大里にはいない。金子は大いに弱って外国へ電報して西洋人を雇い入れようと決意した。そこへある日一人の職工らしい男が訪ねて来た。氏は何事だろうと会ってみると、その男はじゅんじゅんと砂糖の製法を話しだした。まず砂糖製法の秘訣は、砂糖の色素を去り無色透明にしてこれに硫酸を加えてブドウ糖に変化させる。これを「ピスコ」という。この流動体を下からピストンで押し上げて、噴霧状態にして吹き込む…などとやりだし、加えて「ディスインテグレーター」の運用効能を詳細に説明した。氏は「天使来たる」とばかりに喜んで、どうしてここへ来たのか、どこから来たかと尋ねると、またその返事が振るっている。「実は私は桜ノ宮(都島ともいうが)の日本精糖の工場にいて長年この機械を扱っている職工だが、先日不二樹専務が工場へ来られた際、ポケットから一枚の写真を取り落として行った。私は何気なく拾い上げて見ると、頗る美人。聞けばこの美人が八千代という専務寵愛の芸者だとのこと。私らは職工であるが一生懸命に事業のために働いている。しかし専務は芸者遊びをして、しかもその写真を懐中にしてほうけているとは沙汰の限り。そういう人に使われるのは潔しとしない。これに反して大里の首脳者である貴下は品行極めて方正で、日夜真面目に事業のために奮闘しておられることを知り、貴下の人格を慕い貴下の下で働きたいので桜ノ宮から暇を取って来ました」と、じゅんじゅんとして説き去り説き来るその態度が熱心なため、金子は「私も木石ではないから女を嫌いだというわけではないが、病人が苦い薬を飲んで養生するのも一つの修養で、坊さんが限りない煩悩を断って衆生を済度するのも一つの誓願である。私らは仕事のために酒や女を顧みず日夜真面目に働くのも、仕事を物にして幾分でも世の中のためになりたいと思うからである」と互いに胸襟を開いて肝胆を照らし、大いに喜んで早速その職工を重用し、明治三十六年終わりに桜ノ宮に優るとも劣らない立派な優良品を創りだすようになり、ようやく所期の目的を達した。
そこで東京と大阪の砂糖会社は恐慌を来たし、その結果彼らの合併を促進させることになった。大里にも合同談の交渉があったが、その返答を留保している間に他の二社の合併談が着々進捗した。農学博士酒匂常明が農務省の農務局長をやめて社長となり、磯村音介が専務、秋山一裕が常務となり、陣容を新たにして大里精糖を圧迫しにかかって来た。合併後の日本製糖は資本金も大きく生産額も多いので、大里の如きはひとたまりもなく揉み潰されるであろうともっぱらの噂であった。しかしこちらにはもと国民新聞の記者であった人見一太郎という人がいて、一切の指揮をしてこれに対抗した。文筆を持つほどの人であるから多少偏見傲慢な性質はあったが、極めて清廉剛直、厳格ではあるが温情に富み部下は皆悦服していた。そのため砂糖を安い原価で仕上げるという経済上の原則が完全にこの工場で行われるとともに、ジャワから来る原糖も一日二日早く来る。運賃もそれだけ安い。石炭もまた引込線で工場へ直に運べるから安い。大阪の製糖会社は淀川の上流桜ノ宮に工場があって、ジャワから砂糖が着くとまず安治川尻で小船に積み替え造幣局の近くまで行かねばならない。東京の方は横浜で積み替えて永代橋際まで持って行き小船に積み替えて小名木川を上って行かなければならないのだが、こちらは大里から直に工場の倉庫へ直接荷を引くことができる。その結果当時の計算で原糖一俵について六十銭以上の相違を生じたということである。
一方販売戦に当たったのが当時の相番頭の柳田富士松である。これは小僧時代から砂糖の中で育った男であるだけに、その道の商売にかけてはこの人の向こうを張って太刀打ちできる者は天下にあるまいとまで言われる人物であった。結果、大里製糖は規模こそ小であり無名の会社ではあったが、工場販売とも百パーセントの戦闘条件備えていた。これに立ち向かった日糖は看板だけは立派でも到底競争上敵ではないというので、再び合併談を進めてきた。しかし、金子はこれに応じず、「勝つべからざる者は守なり。勝つべき者は攻なり。守は即ち足らざればなり、攻は即ち余り有ればなり」を考慮し、買収なら相談に乗る用意があると言った。それに対し、先方から盛んに買収の交渉があり、結局値段の点で七百五十万円でどうだと言ったが、六百五十万円に負けて折衝がついた。明治四十二年、大日本製糖会社に売りつけ、鈴木はこれによって一躍千万長者の列に加わったのである。
しかし一方また買収値段の方で百万円負けた代わりに条件として北海道、九州、山陰山陽、朝鮮における一手販売権獲得の調印をした。この時隣席にあった馬越恭平は金子の肩を叩いて「金子さん出来したナー」と揶揄感嘆したとのことである。
鈴木商店が他日財界に雄飛する元はといえば、この大里工場を売った六百五十万円であった。しかしこの取引が成立した時は、双方とも有頂天でその手打ちは京都祇園の中村桜で大小の美妓五十人も侍らせての大宴会であった。世話人には一万円宛も贈呈するという騒ぎだった。このところで少し面白いのは、その頃有名な成金鈴木久五郎は、全盛時代でも鼻息当たるべからず、何だ一万円の端金、貰わない方が立派じゃないかと言い出したので、東京側の世話人は、ついその気になって感謝状だけをもらい、関西側は現ナマをありがたく頂戴して引き揚げたそうである。
大里製糖が買収になると、まもなく日糖事件なるものが勃発し、社長酒匂博士が自殺し、専務の磯村以下は収監された。この時日糖の整理には、財政的手腕の優れた点から金子が最も適任であろうということで渋沢子爵が金子を飛島山の自邸に呼んで懇談した。しかし、彼は、「鈴木商店は日糖の大債権者である。私が整理に当たると原告と被告が一緒になるようなものだからお断りする」と断然と断った。結局、藤山雷太を中心に指田義男その他の諸氏が委員となって債権者会議の開催を見た。当時債権者会議の大勢は鈴木が大里製糖を売った金のうち現金二百五十万円を受け取り後の四百万円が社債となって残っている。これを棒引きさせようと、三井銀行始め二十余名の債権者が連合して金子一人に向かってやかましく交渉して来た。この論戦が間をおいて三十日にもわたった。この時最も激しくがくがくの議論でぶつかったのが三十四銀行の小山建三であった。腕をまくりげんこつまで振り上げ威嚇的態度にまで出たという噂が伝わったほどである。したがってこの債権者会議は日糖との談判ではなく鈴木商店の金子をとりひしぐ談判に終始したようなものであった。
最後に両国の亀清の桜上で夜を徹して整理案が作成され、金子は鈴木商店のために得意の熱弁を振るって応酬しよく戦い抜き、結局日糖に対する四百万円の社債は償還期間の四年を六年に伸ばしたのみで一歩も譲歩しなかった。のみならず、従来無担保の社債に対して大里工場を担保に取って担保付信託社債に書き換えさせ、かえって鈴木のために債権を確保するという反対の効果を収めたのである。
そこで金子は最早鈴木も基礎を固める時と考え、鈴木の近親を集めて鈴木商店の今後をどうするかという相談会を開いた。商人にとって最も危険なのは支店を多く持つことだから、むしろこの際商売を緊縮して砂糖もやめ、一切の支店を廃し本店のみ守ってはどうかとまで考えたが、大里製糖が日糖に買収された際に北海道方面の一手販売権を得ているために、函館、小樽の支店を廃することもできず、九州方面の一手販売権を得ているために下関の支店も廃することができず、結局急角度の転換も行われず現状維持でただ商売を一層堅くやって行こうということに確けく方針を立て直した。
もしここでこのまま消極的方針でやっていたなら、金子はあれほどまでに有名になることもなく、鈴木商店も世界的に有名にもなることもなく、また昭和二年の破綻にも遇わずにも済んだかも知れない。
大里製粉所
金子のモットーは、「商売の基礎は地理的条件が必要だ」というものである。それは前項で述べたような大里で、これらの条件を完備していた。そのため、大里製糖所で成功した直後、そこに大里製粉所を設けることを思いついた。明治四十四年米国仕込みの技師米田を雇い、香港の某工場から中古の機械を買い入れるため永井幸太郎を香港へ派遣しこれを買い取り、大里製粉所を建設し、鈴木はパン粉の安売りにも一頭地を抜いた。この点でも金子の頭の良さが遺憾なく証明されている。なおこの製粉所は後年岩崎精七が経営している日本製粉会社と合併した。
金子と台湾の製糖事業
金子は台湾に目を着け、樟脳で志を得たのでその余勢を駆って台湾の砂糖について大いに望みを託した。その当時台湾銀行の頭取は豪宕一世を風靡した柳生一義であた。台湾銀行頭取は初代の福田寿一と二代の柳生は傑出していたが、それ以後は次第に下落の一途をたどり、大蔵省の役人の捨て場のようなところとなっていた。柳生は時の逓相床次竹次郎の金穴と噂されたが、立派な国士的なおもかげを持っていた。彼はその在任中糖界の評判男である石川昌次を手先に使って日支合併の製糖会社を福建省潮州地方に創建すべく詳細な調査を遂げさせたくらいの男で当時民間総督のニックネームを持っていた。この柳生頭取の時に林本源製糖株式会社というのが財政的に行き詰まった。この林本源は台湾の豪族で、かの馬関条約の時、清国全権李鴻章が、我が全権伊藤博文公に「林家は台湾の名族で由緒ある資産家であるから特別の保護をしてもらいたい」と頼んだくらいの家柄である。しかし、この製糖社長は林鶴寿、専務は林熊徴、林爾嘉、林景二ら大家族林一門の坊っちゃん連中で、成績は一向に上がらず左前になって身の振り方に困っていた。そこで金子直吉がこれを鈴木で買収してやってみようと申し出た。しかし、柳生は金子とソリが合わなかったので名家保存の意味を盾にして総督へ上申し、総督もこれを許さなかった。金子は「あーそー。それではこの方も止めるまで」と綺麗さっぱりあきらめた。その後会社の業績は一層悪くなるばかりで、台銀もこれを保護するために大きな特融をやったが到底回収はできなくなった。柳生も驚いて金子に会い、「君は前に望んでいたのだから今も引き受けてくれるか」と懇談した。しかし今度は金子がどうして冠を曲げたか、すっぱりと拒絶した。
柳生の下で副頭取をやっていた下阪藤太郎(後に金子が牛耳った東洋製糖社長)と同じく、次の副頭取であった中川小十郎は、西園寺公に私淑していた男で金子とも親しくしていた。ことに中川は金子と同郷の土佐の生まれで濱口雄幸らとともに水魚の交わりをやっていた。ゆえに柳生、櫻井を経て中川が頭取となるに及んで後年(昭和二、三年の頃)天下を騒がせた鈴木と台銀の共倒れはこの時に端を発していたのである。
台湾の樟脳のことは言わずもがな、砂糖のことについては金子はわずかにその片鱗を見せただけの男である。すなわち糖界の仕事は彼が活躍した仕事の中の十分の一くらいに過ぎないのであるが、その片鱗を見せただけで今更のごとく鈴木商店の金子直吉という男は実にえらい男だと思わせられる足跡がある。
例の日糖事件で藤山雷太が日糖へ乗り込んだのは明治四十二年のことであるが、日糖は元来精製糖中心主義であったにもかかわらず、当時既に台湾の宝庫と称されていた台南州虎尾の区域に諸糖採集区域を有し、濁水渓以南の広漠とした沃野を我がものとしていた。虎尾渓と呼ぶ川がその地方を流れていたが、濁水渓の分流であるこの川は、嵎を拠る猛虎が尻尾を時々左右に動かすようにこの広い平野の上を時に右にまた時に左に好き勝手なところを流れて暴れまわっていた。そのためこの名がある。住民はもちろんしばしば洪水の危に遭ったが、ナイルの氾濫が世界でも有名な沃野をその河口に築いたと同様、濁水渓が運賃無料で運んできた天然肥料は長年の間にこの平野を十分に培った。それを農務省農商局長から入って日糖社長となった酒匂常昭博士が明治三十九年に獲得した。当時虎尾工場は二千トン工場という台湾未曾有の大計画であったから総督府もこの広い地域を日糖に与えた。
しかしその後日糖は例の日糖事件を起こし、酒匂社長はピストル自殺を遂げた。藤山新社長は十か年間無配当の整理案を提げて鋭意堅実主義の経営を行うことになったので、虎尾には千トン工場が一つ出来ただけで、その後一向に二千トンに拡張しようとしない。総督府が「どうする、どうする」と催促してももっぱら羮に懲りて膾を吹き一向にらちがあかない。そこへ現れたのが金子直吉である。「しからば拙者が千トン工場を作りますから、虎尾平野の一角を頂戴致しとうござる」と申し出た。このところが天下一品の彼のお家芸でたちまち成功した。海辺の毎年季節風が吹きまわる北港の地域くらいは横取りされても構わないと思っていたが、北港も予期以上の成績を上げ、おまけに今度はやっぱりこの虎尾大平原の山手の一角を占める斗六の区域に能力五百トンの斗六製糖が許可された。いずれも大正元年の話で、資本金は北港・斗六ともに三百万円であった。
北港製糖会社は台南州北港と台中州月眉とに工場を有し、その帷幄には前の商業会議所の会頭で後に遂に勅撰勲三等にまで経昇った藤田謙一などもその取締役となり金子のために命がけで働いた。後に金子の代理として東洋製糖の取締役になった。
こうして日糖の台湾における唯一の牙城である虎尾区域は金子のために朝に一城を奪われ、夕に一塞を抜かれるという観を呈した。しかし驚くべきことにはその残された虎尾区域によって日糖は後に虎尾工場を当初約束の二千トンどころか三千五百トンにまで拡大させたが、なお工場能力の不足を感じているのだから、もってこの虎尾区域がいかに広大なものであったかを知ることができる。
さてこの虎尾から地域を削りとって出来た斗六、北港の両会社は後年相躓いて下阪藤太郎の東洋製糖に合併された。
柳生の下で副頭取をやっていた下阪藤太郎(後に金子が牛耳った東洋製糖社長)と同じく、次の副頭取であった中川小十郎は、西園寺公に私淑していた男で金子とも親しくしていた。ことに中川は金子と同郷の土佐の生まれで濱口雄幸らとともに水魚の交わりをやっていた。ゆえに柳生、櫻井を経て中川が頭取となるに及んで後年(昭和二、三年の頃)天下を騒がせた鈴木と台銀の共倒れはこの時に端を発していたのである。
台湾の樟脳のことは言わずもがな、砂糖のことについては金子はわずかにその片鱗を見せただけの男である。すなわち糖界の仕事は彼が活躍した仕事の中の十分の一くらいに過ぎないのであるが、その片鱗を見せただけで今更のごとく鈴木商店の金子直吉という男は実にえらい男だと思わせられる足跡がある。
例の日糖事件で藤山雷太が日糖へ乗り込んだのは明治四十二年のことであるが、日糖は元来精製糖中心主義であったにもかかわらず、当時既に台湾の宝庫と称されていた台南州虎尾の区域に諸糖採集区域を有し、濁水渓以南の広漠とした沃野を我がものとしていた。虎尾渓と呼ぶ川がその地方を流れていたが、濁水渓の分流であるこの川は、嵎を拠る猛虎が尻尾を時々左右に動かすようにこの広い平野の上を時に右にまた時に左に好き勝手なところを流れて暴れまわっていた。そのためこの名がある。住民はもちろんしばしば洪水の危に遭ったが、ナイルの氾濫が世界でも有名な沃野をその河口に築いたと同様、濁水渓が運賃無料で運んできた天然肥料は長年の間にこの平野を十分に培った。それを農務省農商局長から入って日糖社長となった酒匂常昭博士が明治三十九年に獲得した。当時虎尾工場は二千トン工場という台湾未曾有の大計画であったから総督府もこの広い地域を日糖に与えた。
しかしその後日糖は例の日糖事件を起こし、酒匂社長はピストル自殺を遂げた。藤山新社長は十か年間無配当の整理案を提げて鋭意堅実主義の経営を行うことになったので、虎尾には千トン工場が一つ出来ただけで、その後一向に二千トンに拡張しようとしない。総督府が「どうする、どうする」と催促してももっぱら羮に懲りて膾を吹き一向にらちがあかない。そこへ現れたのが金子直吉である。「しからば拙者が千トン工場を作りますから、虎尾平野の一角を頂戴致しとうござる」と申し出た。このところが天下一品の彼のお家芸でたちまち成功した。海辺の毎年季節風が吹きまわる北港の地域くらいは横取りされても構わないと思っていたが、北港も予期以上の成績を上げ、おまけに今度はやっぱりこの虎尾大平原の山手の一角を占める斗六の区域に能力五百トンの斗六製糖が許可された。いずれも大正元年の話で、資本金は北港・斗六ともに三百万円であった。
北港製糖会社は台南州北港と台中州月眉とに工場を有し、その帷幄には前の商業会議所の会頭で後に遂に勅撰勲三等にまで経昇った藤田謙一などもその取締役となり金子のために命がけで働いた。後に金子の代理として東洋製糖の取締役になった。
こうして日糖の台湾における唯一の牙城である虎尾区域は金子のために朝に一城を奪われ、夕に一塞を抜かれるという観を呈した。しかし驚くべきことにはその残された虎尾区域によって日糖は後に虎尾工場を当初約束の二千トンどころか三千五百トンにまで拡大させたが、なお工場能力の不足を感じているのだから、もってこの虎尾区域がいかに広大なものであったかを知ることができる。
さてこの虎尾から地域を削りとって出来た斗六、北港の両会社は後年相躓いて下阪藤太郎の東洋製糖に合併された。
東洋製糖株式会社
はじめ斗六製糖の専務松江春治が斗六の社長田辺貞吉とあわず、ひそかに先輩の明糖専務相馬判治に明糖との合併を申し込んだところ、これが内部にバレて他の重役の反対にあった。しかし彼は後に南洋興発の社長になるくらいの才人であったから、明治との交渉の手がろくに切れない中に急に今度は同郷会津の先輩下阪藤太郎の東洋製糖との合併談に切り替えた。下阪はこれを聞いて金子に相談した。そこで奇策縦横の金子が登場して大計画が立てられた。なにしろ天馬空を行く金子の怪腕と堅実緻密一毫もゆるがせにしない下阪藤太郎との階段はまさに糖界における歴史的シーンであった。この会談で話がまとまり、金子は即日猛然として斗六株の買い占めに着手した。一方、明治製糖の相馬も負けん気を出して斗六株を買って出たが、金子と相馬との競争はもとより腕が違う。金子の買い占めは実に面も向けられないほどの凄まじい有り様であったので、明治は一時これと立ち合わせをしたが相手が悪いとたちまち一転して買い占めた株を売り退いて傍観する他はなかった。こうして大正三年八月東洋糖はまず斗六を併呑し、ついで翌大正四年五月に北港製糖を三対二で合併し資本金一千万円、南靖、鳥樹林、北港、斗六、烏日、月眉の六工場を掩有し、台湾製糖に次ぐ我が国第二の尨然たる大会社となった。
こうして東洋糖の社長下阪、専務は北港から入った松形五郎同じく取締役として金子の代理である藤田謙一に下の石川昌次、松方正熊で、金子は隠然とした元老格としてこの会社を牛耳り、販売を鈴木商店が一手に掌握することになった。これで金子は台湾糖業界で驚異の盛名を博した。
東洋製糖は、北港、斗六の両者を併呑し、その後沖縄県大東島にも工場を設け、北海道にも甜菜糖業を計画するなど進取的な鈴木商店を背景として糖界で最も堅牢な存在のひとつとなった。その資本金も増資につぐ増資を行い昭和二年には三千六百二十五万円(払込二千二百円)という膨大なものとなった。しかし故あって社長下阪藤太郎は大正十一年に退いて相談役となり、代わってやはり台銀から理事で東京支店長をやっていた山成喬六が社長となり、専務には下阪の実弟である田村藤四郎が就任した。
その東洋製糖は更に鈴木の没落とともに日糖と合併した。誠に因果はまわる小車である。往年の日糖事件の整理には鈴木が名声をあげ、実利を得て業界羨望の的となったが、今は鈴木の没落のために日糖は漁夫の利を得た。また、大東亜戦争の失敗に日糖は台湾の利権を全損した。我が日本もポツダム宣言により台湾の全土を一擲しなければならない破目に陥った。
昭和二年の金融恐慌についで糖価は下落の一方をたどり、このまま放任しておけば林家の没落のために台銀に大穴があく危険があったので台銀幹部の頭から割り出され、濁水渓を隔てて一衣帯水の対岸虎尾区域を有する日糖に向かって話が開始された。日糖の金沢冬三郎は台銀理事川崎軍治としきりに往復交渉を行った。台銀ではこの他に明糖へも折衝し両天秤にかけて一円でも高い方に売るというケチな計画であった。そのようなところに現れたのが塩糖の槙である。彼も後藤伯に見込まれて男になった生一本の硬骨漢である。この点金子によく似ている。林本源はかつて金子が目をつけた所だ。ことに糖価下落の今日外糖依存ではやっていけない。この庶作区域を買おうと無理矢理にこれを買いたいと値段を構わず名乗って出たのである。塩水糖は資本金三百万円、借金五百万円の林本源製糖を、驚くなかれ、千四百五十万円で買収したのである。
塩水港製糖会社が破綻したのは昭和二年一月で、林本源製糖会社を思い切った値段で買収合併し六月一日には増資を行ったが、実力以上の資金運営が祟り、これに加えて金融恐慌に逢着したためである。片岡蔵相の渡辺銀行破綻に関する有名な失言は三月末で、鈴木商店が不渡手形を出したのは神武天皇祭の翌日の四月四日である。すなわち塩水港製糖は林本源を合併して大いに糖界に雄飛しようとする真っ最中、鈴木破綻の痛棒をくったので塩糖が受けた打撃は一通りではなかった。
かつて塩糖の千三百万円の社債を引き受ける時には、「俺によこせ我によこせ」「いや半分ずつだ」などと三井銀行の池田成彬と信託の米山梅吉とが喧嘩をしたほどの会社であった。しかし、こうなってみると一躍日本一のボロ会社と銘打たれてしまった。しかし六月一日に二千五百万円から五千八百万円増資払い込みをすることになっていたが、株価の惨落から増資不能という絶体絶命の窮境となった。それでもどうした関係か、鈴木商店関係の三千万円の方はなんとか四方八方から借り集めて片をつけたのは大出来だった。塩糖幹部も株の惨落にはホトホトさじを投げた。そこで数田専務が会社自ら自社株を買いにまわって空売り筋を庇古垂れさせようとしたが、これも全く功を奏しなかった。
こうして東洋糖の社長下阪、専務は北港から入った松形五郎同じく取締役として金子の代理である藤田謙一に下の石川昌次、松方正熊で、金子は隠然とした元老格としてこの会社を牛耳り、販売を鈴木商店が一手に掌握することになった。これで金子は台湾糖業界で驚異の盛名を博した。
東洋製糖は、北港、斗六の両者を併呑し、その後沖縄県大東島にも工場を設け、北海道にも甜菜糖業を計画するなど進取的な鈴木商店を背景として糖界で最も堅牢な存在のひとつとなった。その資本金も増資につぐ増資を行い昭和二年には三千六百二十五万円(払込二千二百円)という膨大なものとなった。しかし故あって社長下阪藤太郎は大正十一年に退いて相談役となり、代わってやはり台銀から理事で東京支店長をやっていた山成喬六が社長となり、専務には下阪の実弟である田村藤四郎が就任した。
その東洋製糖は更に鈴木の没落とともに日糖と合併した。誠に因果はまわる小車である。往年の日糖事件の整理には鈴木が名声をあげ、実利を得て業界羨望の的となったが、今は鈴木の没落のために日糖は漁夫の利を得た。また、大東亜戦争の失敗に日糖は台湾の利権を全損した。我が日本もポツダム宣言により台湾の全土を一擲しなければならない破目に陥った。
昭和二年の金融恐慌についで糖価は下落の一方をたどり、このまま放任しておけば林家の没落のために台銀に大穴があく危険があったので台銀幹部の頭から割り出され、濁水渓を隔てて一衣帯水の対岸虎尾区域を有する日糖に向かって話が開始された。日糖の金沢冬三郎は台銀理事川崎軍治としきりに往復交渉を行った。台銀ではこの他に明糖へも折衝し両天秤にかけて一円でも高い方に売るというケチな計画であった。そのようなところに現れたのが塩糖の槙である。彼も後藤伯に見込まれて男になった生一本の硬骨漢である。この点金子によく似ている。林本源はかつて金子が目をつけた所だ。ことに糖価下落の今日外糖依存ではやっていけない。この庶作区域を買おうと無理矢理にこれを買いたいと値段を構わず名乗って出たのである。塩水糖は資本金三百万円、借金五百万円の林本源製糖を、驚くなかれ、千四百五十万円で買収したのである。
塩水港製糖会社が破綻したのは昭和二年一月で、林本源製糖会社を思い切った値段で買収合併し六月一日には増資を行ったが、実力以上の資金運営が祟り、これに加えて金融恐慌に逢着したためである。片岡蔵相の渡辺銀行破綻に関する有名な失言は三月末で、鈴木商店が不渡手形を出したのは神武天皇祭の翌日の四月四日である。すなわち塩水港製糖は林本源を合併して大いに糖界に雄飛しようとする真っ最中、鈴木破綻の痛棒をくったので塩糖が受けた打撃は一通りではなかった。
かつて塩糖の千三百万円の社債を引き受ける時には、「俺によこせ我によこせ」「いや半分ずつだ」などと三井銀行の池田成彬と信託の米山梅吉とが喧嘩をしたほどの会社であった。しかし、こうなってみると一躍日本一のボロ会社と銘打たれてしまった。しかし六月一日に二千五百万円から五千八百万円増資払い込みをすることになっていたが、株価の惨落から増資不能という絶体絶命の窮境となった。それでもどうした関係か、鈴木商店関係の三千万円の方はなんとか四方八方から借り集めて片をつけたのは大出来だった。塩糖幹部も株の惨落にはホトホトさじを投げた。そこで数田専務が会社自ら自社株を買いにまわって空売り筋を庇古垂れさせようとしたが、これも全く功を奏しなかった。
金子と塩水糖の槙哲
外糖の一手取り扱いは天馬空を行く態の鈴木商店であり、内地の販売は鈴木と安部幸商店とが半分宛であった。当時の塩糖株といえば後の日産株と同様思惑株の花形で一高一低の波乱を書いたものである。塩糖が国内糖自給の切り替えに遅れ、ジャワ糖の思惑損で資産内容が怪しくなりその穴を内緒で埋めていくために大増資でもやってどさくさ紛れにプレミアムでも稼ぐつもりであったが、また本筋には会社の経営方針を台湾糖中心主義に転向する必要上、社長槙哲一流の英断で皿谷常務の進言を容れ、産糖高増加の後図を策す手段として林本源合併による増資の大芝居を打つ必要に迫られたのである。これは決して乱暴でも無鉄砲でもなかった。しかしこの計画を樹立実行するにあたって槙は鈴木商店の破綻と金融恐慌とがこうも速くに崩れかかろうとは想像しなかった。そこはこの碁の重要な見落としである。槙哲は識見才幹はもとより非凡な人物で、時の人は彼を評して剣術使いのような男であると言っている。しかし恩威寛厳よろしきを得、身をもって社員を悦服させることや、仕事のやり方の強気一本槍の点など金子の亜流に似ている。いつも帆を一杯に掲げて走っている。見ていて誠に爽快である。右顧左眄の跡がない。しかしそれだけ一旦逆風に襲われると方向転換が容易でない。惨禍はそれだけ大きいのである。思うに槙も金子もあまり先が見え過ぎるのでかえって禍を招いた傾がある。諺にも「百歩先が見える者は狂人扱いされ、五十歩先が見える者は多く犠牲者となり、一歩先が見える者が成功者で、現在を見えないものは落伍者である」と真に考えるべき名句である。