彼が樟脳の思惑で失敗して苦しんでいた頃、軍艦松島が神戸に入港した。明治二十九年頃日清の役で殊勲をたてた軍艦だというので見物人が山のように押しかけた。彼もその一人で、軍艦に行ってみると同郷のやや先輩格の島村速雄が分隊長として乗り組んでいた。その島村に向かって「この軍艦はこれからどこへ行くのですか」と聞くと、「台湾が日本の領土になったからこれから受け取りに行くのだ」との話だった。そこで咄嗟に彼の頭に浮かんだのが、「台湾は樟脳の産地であることである。他の商人が行く前に行って一儲けしてやろう」という考えである。徳川時代の濱田弥兵衛のように商魂を働かせ、その時一緒にいた楠瀬益美という老人とともに島村に「是非一緒にこの軍艦に乗せて台湾見物に連れていってくれ」と頼んだ。しかし、島村は「軍艦に商人を乗せることは先例がない」といって一言の下にはねつけた。そこで他に良い方法はないものかと相談すると「新聞記者ならば行くことができる。本省にでも頼んでみろ」といってとんと相手にしてくれなかった。そんなことで軍艦への便乗渡台はできなかったが、彼はその時から台湾の樟脳が脳裏から去らなかった。その当時はなお軍政時代で商人の渡台は許されなかったので、さすがの彼も策を施すべき余地はなかった。しかし親友の肥田景之が台湾に大工を百人送る命を受けていたのを幸いとして、その百人の大工のうち百人長として取締のような資格で鈴木商店の小松平太郎という店員を加えてもらい、まずもって台湾における樟脳の事情を調査させた。その結果は果たして彼の予想と違わず、非常に沢山の樟脳があることが分かった。しかも台湾では楠からは樟脳をとるばかりで、その後は廃物視され、副産物の油をとることを知らないことまで分かった。その報告に基づき民政が敷かれるのを待ち構えて樟脳製造に経験がある者を多数送り、樟脳製造業者に樟脳と油を併せて採る方法を伝授し、一面製造業者の利益を図ると同時に、生産品を一手に買い取り大儲けする準備に取り掛かった。また、一般人民の渡航が許可されると同時に各地に出張所を設け、製脳地に人を派して製脳方法を伝授し、一方またその製品を買い取る設備をした。
年若い彼が、領有後年浅い台湾において当時既にこの計画を立てたが、これは見事に的中した。利に敏い製造業者は風を望んで製脳方法を改良し、年々多量の油を生産するに至ったのでこれを一手に買収して神戸に送り、製脳所において精製して欧米に輸出した。これによって鈴木商店は莫大な利益を収めた。