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金子直吉年譜

※小さいフォントは国家的重要事。それ以外は経歴

慶応2年

1才

6月13日高知県吾川郡名野川村に生まれる。
父金子甚七(45才)(高知藩免許商人)、母タミ(40才)

同3年

2才

弟楠馬誕生 長州再征、大政奉還、王政復古

明治元年

3才

鳥羽伏見の戦い、五箇条の御誓文煥発

同2年

4才

聖上東京行幸、東京横浜間電信開通

同3年

5才

英、仏、米に行使を置く

同4年

6才

高知市に移り住む 廃藩置県

同5年

7才

学制頒布 鉄道開通

6年

8才

徴兵令発布 征韓論

同7年

9才

佐賀の乱 台湾征伐

同8年

10才

千島樺太の交換

同9年

11才

紙くずを買い歩く 帯刀禁止、熊本萩の乱

同10年

12才

長尾という砂糖屋の丁稚となる 西南の役 東京大学創立
西田よね鈴木岩治郎に嫁す。二代目岩治郎誕生

同11年

13才

乾物商野中幸右衛門方に雇われる 参謀本部設置

同12年

14才

5月金子夫人徳子誕生

同13年

15才

春、野中の店を退店しまた長尾砂糖店に戻る
この年質商傍士久万次方に雇われる

同14年

16才

1月鈴木岩治郎の先主松原恒七逝去 国会設置詔書下る

同15年

17才

刑法実施 日本銀行設立

同16年

18才

岩倉具視薨去

同17年

19才

鈴木岩蔵誕生 第二回朝鮮京城の変、横須賀鎮守府を置く

同18年

20才

主家傍士氏のため弁護士北川貞彦を向こうに回し法廷に立ち訴訟に勝つ。2月柳田富士松、鈴木商店に入る。内閣制度を定める。天津条約成立

同19年

21才

4月12日父甚七退隠。傍士久万次や菜園場の久保芳太郎らの推薦で神戸に出て鈴木商店(栄町4丁目45番屋敷)に雇われる 日本赤十字社創立

同20年

22才

政府各地富豪に献金を慫慂

同21年

23才

枢密院創立

同22年

24才

憲法発布 鉄道神戸新橋間開通

同23年

25才

初めて帝国議会が開かれる 教育勅語が下付される

同24年

26才

濃尾地方大震災死者7200余名

同25年

27才

鈴木岩治郎、日向土佐から砂糖を買いこれを売りさばく

同26年

28才

鈴木岩治郎、樟脳の販売・製造を計画する

同27年

29才

6月15日鈴木商店先代主人岩郎死亡。干時よね女43才(嘉永5年生)。よね未亡人を助けて店舗を支配する

同28年

30才

下関条約成立 三国干渉が起こる

同29年

31才

弟楠馬氏結婚入籍。この頃松島誠、鈴木商店入店

同30年

32才

6月鈴木の資本10万円となる

同31年

33才

1月6日父甚七死亡77才(文改9年1月生)

同32年

34才

台湾樟脳専売法発布

同33年

35才

この頃台湾の樟脳の販売が鈴木商店と台湾貿易会社に許可される。住居は雲井通り樟脳会社内だった。 この頃台湾に行く。この年春傍士亀寿妹徳(21才)と結婚する

同34年

36才

11月長男文蔵誕生

同35年

37才

11月資本金50万円で鈴木商店の組織を合名会社に改め責任社員となる。当時鈴木商店の所在地は栄町通3丁目。この年雲井通に初めてハッカの工場を設ける。けだし鈴木商店最初の工場経営となった。採錫工場を興す

同36年

38才

大里製糖所創立。小林製鋼所に投資する

同37年

39才

鈴木商店が住友樟脳製造所を買収する

同38年

40才

1月大里製糖所へ視察に行く。田宮に小林製鋼所から引き受けるかも知れないと語る。9月18日次男武蔵誕生。9月小林製鋼所を買収し神戸製鋼所と改称する。10月1日田宮初めて小林製鋼所に出勤する 児玉源太郎薨去

同39年

41才

ロシアから樺太北緯50度以南を受領する

同40年

42才

痔の手術を行ったが出血が激しく、それ以来貧血の症状がある。竹村房吉が鈴木商店に入る 日韓条約および日露協約成立

同41年

43才

村橋素吉に命じて樟脳油の製造を研究させる。桂首相および後藤男と砂糖のことを論ずる 戊辰詔書下る

同42年

44才

大里製糖工場を大日本製糖に650万円で売り、北海道、九州、山陰、山陽、朝鮮における砂糖の販売権を獲得する。東工業株式会社、大日本藍業株式会社、合同油脂株式会社、日本商業株式会社等創立。12月13日依岡省輔、金子の口頭試問にパスし鈴木商店に入る

同43年

45才

北港製糖株式会社、再製樟脳株式会社設立。株式会社神戸製鋼所(資本金1150万円)を創立しその創立総会を開く。44年6月28日役員会の結果、社長に黒川勇熊、取締役に依岡省輔、田宮嘉右衛門、監査役に吉井孝蔵、鈴木岩治郎当選就任する

同44年

46才

1月9日三男猪一誕生。株式会社大里製粉所および帝国ビール株式会社、東亜煙草株式会社等設立。札幌製粉株式会社設立。1月日沙商会の依岡省三逝去

同45年

47才

東洋海上火災設立。関東州普蘭店藍田開設。 明治天皇崩御 乃木大将殉死

大正2年

48才

日本酒類醸造株式会社、日本製粉株式会社、日本酒精醸造株式会社、日本輪業株式会社(現日輪ゴム工業株式会社)、山陽電気鉄道株式会社、大正生命保険、日本教育生命保険等設立。この年鈴木商店は東川崎町1丁目に移る

同3年

49才

2月大正生命保険株式会社監査役となり、大正7年2月に至る。明治44年以来帝国麦酒株式会社監査役だった

同4年

50才

南洋製糖株式会社、日本金属株式会社、播磨造船所、沖見初炭坑株式会社等創立

同5年

51才

株式会社六十五銀行、日本セルロイド株式会社、日本クロード式窒素肥料株式会社、帝国染料株式会社等創立。満鉄から大連油房を譲り受ける

同6年

52才

明治41年頃から研究中の樟脳油の製造が完成する。台湾炭業株式会社、南朝鮮鉄道、東洋ファイバー株式会社、株式会社浪華倉庫、信越電力株式会社、大田川水電株式会社等の設立に関与する

同7年

53才

8月米騒動が起こる。日本冶金株式会社、旭石油株式会社、大陸木材株式会社、東洋燐寸株式会社、帝国樟脳株式会社、支那樟脳株式会社、長府土地株式会社等を設立。2月、日本樟脳株式会社取締役となり昭和8年4月に至る。横浜、清水港、鳴尾で製油工場を始める。米国大使モリスと日米船鉄交換問題を協議して成功させ官から正六位に叙せられる。母堂タミ逝去。享年92才

同8年

54

7月国際汽船株式会社取締役となり9年2月に至る。帝国炭業株式会社、太陽曹達株式会社、米星煙草株式会社等を設立する

同9年

55才

当時、鈴木商店は海岸通1丁目10番地に移る。帝国人造絹糸株式会社、新日本火災保険株式会社等設立。国際汽船株式会社会長に就任。昭和2年10月に至る。この年鈴木商店の資本金を5000万円に増資し製鋼を初め金属精錬、造船、人絹、毛織、セルロイド、窒素肥料、染料、皮革、製糖、製藍、製粉、製油、毛織、樟脳、ゴム、麦酒、酒精、マッチ、煙草、鉱工業、英領ボルネオのゴム栽培ならびに海運、倉庫、保険業等にわたり経営する

同10年

56才

東京無線電機株式会社、株式会社東海製油所を設立

同11年

57才

4月4日伏見宮貞愛親王殿下が全国の実業家を招き午餐会を催され神戸から金子と川西清兵衛の二人が出席する。4月20日、豊年製油株式会社創立。この年鈴木商店は財政窮迫に陥り、金子は債権者と折衝の時に窓外の桜を眺め「背水の陣屋を囲む桜かな」と詠む

同12年

58才

3月、株式会社鈴木商店(資本金8000万円)専務取締役、鈴木合名会社(資本金5000万円)理事となる。9月1日震災。鈴木商店は東京に買い付けておいた木材100万円を東京市に寄付する他、大工を東京に派遣し永大橋を修理架橋させる。井上蔵相の斡旋により12月、杉山金太郎氏に豊年製油株式会社の件について会談する。鈴木商店はこの事業から手を引く。

同13年

59才

5月、豊年製油会社を杉山金太郎らの経営に渡す。 東京中央放送局設立。6月11日三派内閣成立、加藤首相薨去 若槻内閣成立、濱口内務大臣となる

同14年

60才

普通選挙法制定

同15年

61才

5月8日先代鈴木岩治郎33回忌金子の弔詞あり

昭和元年

61才

大正天皇崩御

同2年

62才

鈴木商店破綻。鈴木薄荷株式会社、東神興業株式会社等設立 ジュネーブ軍縮会議 大正天皇大喪

同3年

63才

当時、鈴木商店は栄町3丁目に移る 今上天皇御即位式 普通選挙第一回総選挙

同4年

64

サラワクのラジャ・ヴァイナーブルック卿来朝。2週間にわたる日本滞在中日沙商会にて名勝を案内する。この機会にレジャン河流域の調査、日本農民の移民および水田米作の問題を議す 不戦条約成立 10月濱口内閣金解禁

同5年

65才

日沙商会にてサラワクのレジャン河流域調査 ロンドン軍縮会議

同6年

66才

9月、太陽曹達株式会社相談役就任。昭和14年7月まで。引き続き日沙商会員をサラワクに派遣 満州事変が起こる。12月25日金輸出禁止

同7年

67才

昭和8年以来マレー半島のボーキサイトの調査の稼行を企てる 満州建国、上海事変

同8年

68才

10月9日、孫たみ(武蔵長女)誕生。秋、松尾晴見、藤森馨らを協力させ白石友治を信州へ派遣し、松本市外で馬場氏(金子氏先祖の母系)の深志城、蓮名寺等祖先関係の事項を調査させる 9月20日、孫惠子(文蔵長女)誕生

同9年

69才

5月、白石友治に祖先金子備後守伝を著作させ、また土佐に遣わし、馬場系図関係を調査させる。8月、伊予窯業株式会社再興を引き受ける 12月、ワシントン条約が破棄される

同10年

70才

6月、祖先金子備後守贈位請願のため、白石友治に関係者に調印を求めさせ愛媛県庁に提出させる 9月22日、孫国(猪一長女)誕生

同11年

71才

2月15日、孫直道(文蔵長男)誕生。西豪州の鉄鉱を調査させる。3月22日、甥孫(丑蔵の子)直伝誕生 2月、226事件起こる 軍縮会議脱退

同12年

72才

盧溝橋事件から日支事変が起こる 日独伊防共協定が成立
12月、鈴木商店関係者から金子に喜寿を祝い寿像が贈られる。金子これに謝辞を送るの句に曰く
「幸いに盗人に似ず我が姿友の惠のありがたきかな」
3月7日、孫甚一(猪一長男)誕生。10月14日甥甚蔵妻園花入籍。11月3日、孫すず(武蔵二女)誕生。空冷式自動車装置ならびに消音装置の特許を日、英、米、独、伊、露6か国に出願して許可される

同13年

73才

国家総動員法公布 張鼓峰事件起こる

同14年

74才

7月、太陽産業株式会社相談役、昭和19年2月に至る 満州国日独伊防共協定に参加する

同15年

75才

ジャワの砂鉄を調査させる。頃年大陸運河計画を目論む

同16年

76才

右大陸運河計画の調査を行わせる 12月8日、日本海軍ハワイ・ホノルル奇襲

同17年

77才

漁業農業の件につき、舟山列島を調査しようとするも成らず

同18年

78才

夏、東京で風邪にかかり神戸御影に帰り療養する。これ以来病床に親しみがちとなる
同19年

79才

正月頃再起不能を自覚したらしい。2月26日ツンドラ事業の画策を認めた書簡を鈴木正に発送する。2月18日セメント、アルミナ事業に関し近藤正太郎に書状を認めて発送する。蓋し絶筆になった。2月26日未明逝去