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金子氏の祖先

 金子氏は桓武天皇から出た平氏の後裔で、その発祥の地は武蔵国入間郡である。武蔵七党の中、村山党の旗頭として、保元、平治から頼朝崛起の頃、一騎当千の勇士として驍明を輝かせた金子十郎家忠が、氏の祖先である。家忠の孫、三郎広家承久の乱の戦功により、旧領武蔵入間郡阿主の外、伊予新居郷(承久の乱に敗れた河野通信の旧領地の一部)を受領し、その子広綱がこの分領地に入り橘江城に居り、居村河内村を金子村と改称し、代々ここに住んだ。その子孫の十一代目金子備後守元宅という元亀は、天正の頃、東伊予に雄飛し、智勇抜群の名将だったが、天正十三年豊臣秀吉が四国の長宗我部元親を征服するに際し、その部将小早川隆景と戦い衆寡敵せずで一族郎党六百余人とともに高尾城外野々市で戦死した。その子は五子いて皆土佐に逃れ、長宗我部元親によって厚遇された。

桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王―良文―忠頼―忠恒―恒親―頼任―頼家―家範―家忠―家高―廣家―廣綱―頼廣―康廣―忠綱―元綱―網明―元継―元忠―元家―元信―元成―元宅(金子備後守)―新発智丸―唯元―唯次―明唯―盈唯―唯俊―唯攸―唯久―唯直―直吉

 以上のように、金子新発智丸は馬場甚左衛門の養子となり馬場家を継ぎ、唯元、唯次、唯明、唯盈と五代は馬場氏を称し、唯俊の時、文政五年から旧姓の金子に改めたのである。
 「金子備後守元宅」の著者白石友治は昭和九年五月二日、土佐に至った。妙国寺は伝兵衛唯元の墓を弔っており、表面には夫妻の法名があり、裏面には馬場伝兵衛唯元墓と刻んであった。普通の墓石よりも高く屹然とした趣があり、どうしても千石以上の士人で、生前何らかの勲功があった人と思われる。
 寛政何年かに馬場甚助が藩庁に差し出した年譜書によると「伝兵衛儀浪人相立申候」と記してある。しかし、彼は決して単なる素浪人ではなく、またいたずらに長刀を撫でて所在に物騒な空気を漂わすような浪人でもなく、至極穏健な常識の持ち主で、その態度は鷹揚としており、押しも押されぬ男子であった。終始ひとつの目的を蔵し、いつも当時の上流と交わり、なんらかの仕事に従事していた。また上流の士人は彼の才幹を知り、他日何かの場合、重要な事業を託すべき男であるとみなし、常に少し宛の用事を与え関係を保っていたらしい。
 しかし、金子家の伝説には伝兵衛には二人の弟がおり、伝兵衛はその長男であった。弟らは武士の家に生まれたのだから侍になると言ったが、伝兵衛は一人これを聞かず、私は武士であることを欲せず、町人になると言って遂に浪人を立てたのである。思うに、彼が成年に達し、ようやく東西を弁じた頃には、武士の真価は最早慶長元和で終わりを告げ、まさに偃武時代に達しようとする時であったから、彼はこの時勢を見て、その身は武士の資格を備えていたが、泰平の将来武士になるよりも町人となり時勢に順応して思うがままにその抱懐を展べようと心中深く思い定め、武士階級にのしをつけたのである。
 そうでありながら、全くの丸腰にも成り兼ね、いわゆる士魂商才を実行するつもりで壮心しきりな折り、たまたま自分の叔母が藩の君側にあることを利用して高知藩の権門に出入りし何らかの御用を承り、ひそかに産を作り富を蓄えていたのである。それは彼の死後金子家数代約百五十年間は高知城の富豪と言われ、分限者と称せられ、最も富裕な歳月を送ったのも皆伝兵衛遺産の余沢である。そしてまた浪人伝兵衛が当時の社会に重要され、その貫禄を認められていたことは、時の山内家国老百々伊織安集から伝兵衛へ宛てた書状からもわかる。この書面は奉書紙で丁寧に認められ儀礼を尽くしたもので、しかも帰宅の上御目にかかり話をしようといったように、当時最も権威があった国老から一浪人へ送った書面としては一寸破格のものである。また当時伝兵衛が何事かひとつの仕事をやっていたことは、山内家の老臣百々伊織が伝兵衛から年頭の祝儀として牡蠣をもらった礼状の末文に、大変多忙で年始の例にもこられないとのことはもっともである云々と記してある。すなわち、これによって見るも彼は遊んで食っていたただの浪人ではなかったことを想像し得る。また、山内家の老臣および諸奉行らの連著になる売米御算用書を一見すると、一入その奥底の知れない偉大さが知れる。すなわち、これは当時の仕置役および各奉行らが伝兵衛に与えた計算書である。これを一見すると伝兵衛が藩庁から剰余米を買い受けた計算書のように思われるが、熟覧すると各奉行が署名し、最後に勘定奉行が加判し仕置役が奥書をなし、伝兵衛に与えた書類であって、単なる売下米の計算書ではない。果たしてしかし、官尊民卑の時代において、このような藩の重役が連著してその相違がないないことを保証し、買受人である一浪人に交付するといったようなことは絶対にない。もし売米の依託を受けていたものとすれば、反対に伝兵衛からかくのごとくであるという計算書を藩庁に差し出すべきはずのものである。しかしこの計算書はまたその反対で買受人に対して後日間違いを発見したならば責を負うという書類を、しかも各奉行と勘定方と御仕置役から渡しているのである。ここにおいて伝兵衛がいかなる地位にいたのか判らないが、いずれにしてもこの場合は伝兵衛の方が少し強い地位にあり、今日の言葉で言えば債権者のような資格に見える。そしてこの仕置役の安田弥右衛門と岡田嘉右衛という人は野中兼山の次期の御仕置役である。このような人が一浪人の伝兵衛にこの計算書を渡したということは誠にもって解し難いことである。
 しかしこの書類が出来た時代に伝兵衛はどこにいたかというと、大阪にいたようである。すなわち南路誌百八執政孕石小左衛門日記寛政十一年の条下に豊政公の仰せによる、黄鷹代銀二貫六十三匁、大阪において御横目馬場伝兵衛より相渡候由、渡辺忠左衛門吉田伊右衛門より申し来る云々。また豊政公から小池坊に銀十枚遣わされ、頼母兵庫書状相添え大阪から馬場伝兵衛持参するよう申し付ける云々の記事がある。これによると伝兵衛は当時大の蔵屋敷におり金融上の事を扱っていたものと思われる。しかし上記のように御横目とあるが、これは何かの方便でこう記したもので、身分は年譜書にあるよう浪人で無禄無官であったろう。しかし、当時の土佐藩は非常に貧乏で京都大阪あたりで借金ばかり続けており日々の支払いにも困った時代であった。伝兵衛に理財の才識と信用があるのを幸いとし、彼に仮の資格をつけ、藩から大阪の金融を担当させていたものと思われる。そしてこの仕事は大阪における藩の支払いは金の有無にかかわらず、伝兵衛が他に才覚するかまたはこれを立て替えて支払いを了し、他日土佐から送って来る物産の売上金で相殺するような仕組みであったらしい。伝兵衛はこの仕事が自己の適任と考え大いに喜んで熱心に働いていたらしい。ここにおいてこの売米計算のような藩の米稟にある米を売り下げてその代銀を納付させたものではなく、伝兵衛の方からいうと、大阪において藩に対し米代金の前渡しをしておいて、その後に米を送らせ、それを受け取って売却し、前渡しと相殺したのである。すなわちこの書類はその計算書であるから、このように主客転倒の奇観を呈しているのである。
 そして伝兵衛はいかなる素性の者であったかというと、前掲の系図にあるように金子備後守元宅の孫で、その父は元宅の末子でおしめの中から伊予国新居郡氷見を領した金子新発智(後の勘介)である。新発智は金子城落去の後、土佐に来た姉かね女、兄専太郎、毘沙寿、鍋千代等と群居しており、慶長の初め大忍庄王寺村西光名付近に住む馬場甚右衛門(「信玄公人数積之巻」にある越中先方衆にして馬場美濃守信房の弟で兄の与力を勤めた人である)の婿となり、馬場勘介と称するに至った。そして諸兄の中には長宗我部盛親に従い大阪陣に参加した者もあり、また、伊予に帰り亡き父の後を弔った者もあり、あるいは旧領地に住んで昔の領民の間で月日を送った者もあるだろう。
 勘介は後年養父馬場甚右衛門の命により信州の松本に赴き、美濃守信房の遺産を整理し、後馬場家の菩提寺だった蓮名寺の僧を伴って伊予国氷見の旧領地に帰り、蓮生庵なるものを建立し寛永三年丙寅極月十八日ここに生涯を遂げたのである。この蓮生庵は後蓮生寺と改めさらに昌林寺と改称し今日なお現存しており、勘介の墓は今なおこの寺に残っている。しかし、勘介には四男一女がおり、はじめは氷見に親子が同棲していたと思われる。そして、長子を伝兵衛といい、次男が甚右衛門秀政で、その次の名は分からないがとにかく長男の伝兵衛は前述のとおり武士であることを欲せず町人になると言って土佐に赴き、伯母かね女の推薦により山内家の要路に知られ、後に大阪に出たのである。弟の某々等はそれと反対に武士を志願しやはり高知に出て山内侯に仕えた。そして伝兵衛は土佐における同族の遺産や松本における美濃守の遺産ならびに伊予における祖父の遺産を大阪に集め、かなり多大な資産で大仕事をしようと志した。時偶々高知藩が大変な貧乏で大阪の蔵屋敷に敏腕で信用のある理財家を要するというので、伝兵衛はこれに採用され、土佐藩の御用を承ることになったのである。
 しかし当時の土佐藩は前述のとおり貧乏であるから、常に国産の紙、鰹節、木材、米等を大阪に送り、これを蔵屋敷で販売させ、その収入で参勤交代の費用や藩内の必需品を買い入れた代金を支払っていたのである。しかし、常に収入よりも支出の方が多大なため、この大阪の蔵屋敷の当事者はいつも大阪の町人から借金を行い、その不足を補い、その後に土佐から送られた国産を売り払い、その代金を払っていかなければならないので、なかなか至難な役目で、表面は藩の中老とか家老とかいうものが担当していたけれども、かくのごとく資格の人では少し挺に合わない。ここにおいて伝兵衛がその次席とか何とか言う役目に任ぜられ、実際の繰り回しを彼が扱っていたものと思われる。ゆえに、伝兵衛はこの仕事につき、大阪の町人から時に借金もしたであろうが、また自分の蓄財もその中にやっていたもので、前掲の計算書のようなものはすなわちその一例を物語るものであろう。
 これを要とし、伝兵衛はこれらの仕事を鞅掌しつつひとつの意図を有していたらしい。いまだ佳境に入らず志業央にして大阪で客死したものと思う。彼が常に当時の国老その他から重んぜられたのはおそらくその知力よりも財力だったであろう。そして、その資源は伊予、土佐、信州等から祖父の遺産を集めたものであって、彼の嗣子甚介以下三代の間殷富を極め、財力で地方に鳴らしたのは実にその余沢であった。
 ちなみに、伝兵衛が大阪で死んだであろうというのは、前説山内家家老孕石氏の日記によるも寛文十二年、彼が大阪にいたことは明らかであり、彼はその後わずかに一、二年を隔て延宝元年一月死去したことと、彼の墓は彼よりもはるか後に死んだ妻との合葬であると家伝に書かれており、また金子直吉氏が幼時、父老とともに彼の墓を詣で、これは空墓であるかも知れないと聞かされたということを聞き、著者は、伝兵衛はどうも晩年大阪において客死したように思う。
 この伝兵衛唯元の生涯と人となりは金子翁の鈴木商店に対する一生と酷似している。金子翁が後藤新平伯、大隈重信侯、寺内正毅伯、濱口雄幸、井上準之助氏らと親交を結び我が実業界に財政的手腕を振るったように伝兵衛唯元も徳川時代の大藩山内家の国老および奉行等と相親眤して土佐の財政窮乏を整理した手腕と全く類似点があったので、翁は特にこの人物に心酔し右に掲げた伝兵衛唯元伝は翁自ら調査し大部分は翁の手記にかかるものであるから、特に全文を記載することとした(詳細は白石友治著「金子備後守元宅」参照)。
 ことの序に金子翁母系の先祖馬場氏のことも記しておこう。

甚右衛門―甚内(夭逝)、女子(婿金子新発智後馬場勘介と称す)

 この馬場甚右衛門は竹田勝頼が天目山で滅ぼされた天正十年以後、一族相携え竹田の遺族と共に土佐に来て長宗我部に仕えたのである。甚右衛門の兄馬場信房は初名教来石民部少輔景政といったが、後に武田家の名将馬場氏の明跡が絶えたのを信玄の命により継ぎなお信玄の偉字を授けられ信房という。世々教来石・白須、台が原、三吹、逸見の小渕沢等を伝領し武田七隊将の一人で智謀衆で越える者はいないが、天正三年五月二十一日三河長篠において壮烈な戦死を遂げた。時に六十二歳だった。墓は甲州武川筋白須村自元寺《美濃守開墓》と戦死した付近の三河国田口福田寺にあり、その子民部少輔氏員が引き継ぎ、深志城《松本》に在番するも天正十年《壬午の乱》勝頼天目山に滅ぼされた時深志城も落城した。
 信房は信虎の時十八才で初陣し、二十五才から信玄に仕え勝頼に至るまで三代の間いずれの戦にも真っ先に馳駆して抜群の功名を顕すこと二十一回、勝負の運命を制するほどの働きを為すこと九回に及ぶも長篠陣まで未だ身にひとつの傷も受けたことがなかった。金子翁も昭和二年まで実業場裏千軍万里の間を往来して擦り傷ひとつ受けなかったのと機をいつにするが、翁もこの信房を崇拝し昭和九年長篠の古戦場を弔い、福田寺に信房の墓を展し、写真を撮り白石友治著「金子備後守元宅」伝中に挿入した。