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生い立ちと環境

 かつて財界の奇傑といわれた金子直吉翁は慶応二年六月十三日、土佐の片田舎吾川郡名野川村に生まれた。彼の家はもと高知の城下町の富商であった。しかし三、四代前に茶の湯、生け花、俳諧などと風流三昧に浸った当主が生まれ、その後家運は次第に衰えた。彼の父甚七の代になってからはその日の生活にも困るほどの境遇に落ちた。今の高知市水道町二丁目に昔ながらの店を構え、安芸郡和食村方面から、呉服反物を買い、これを吾川郡名野川村方面に販売して苦しい生計を営んでいた。幸いなことに、以前土佐藩家老吉田東洋方の出入り商人であったという縁故を頼って名野川村に店を出す許可をしてもらうよう頼んだ。東洋は庄屋に命じて許可をしてやるようにとの達示をした。庄屋も甚七の廉直を愛し、直に同村に店を出すことが許された。
 これが彼の生まれた名野川の家で、土地の人は御免許店と呼んでいたそうである。名野川は土佐と伊予との国境で百姓樵夫の輩が住んでいた土地で、商人を入り込ませると純朴な地方民が虐げられるといって、従来そこに商店を出すことは藩から禁じられていた。そこへ唯一軒出来た店であったから、山間僻地ではあるが、商売は割合に繁盛した。しかし、それも束の間で、世は王政維新となり、太政官札価格の下落と、不換紙幣増発の影響等も手伝って、金子の店も彼が五、六歳の時には名野川から高知へ引き上げなければならないほどの苦境に陥った。当時零落しても高知の家構えは相当立派なもので、彼はそのことを前年帰った時に知っているので、道すがら子供心にもその旧宅に帰るものと思っていた。ところがいよいよ高知の町に着いて連れて行かれたのが思いもよらない高知乗出の貧乏長屋の四畳半の一室であった。どんな仔細でこんなところにつれて来られたのか子供心で確かな記憶はない。後に母親に尋ねると、母が弟の楠馬をつれて先に高知の旧宅にいると一日金貸し風の男がやって来て「この家は名野川でご主人からじかに買い受けたのだから出て行ってもらいたい」ということであった。多分甚七が借金のかたに売り渡したのだろう。そのような経緯を妻子は少しも知らなかったが、譲り受けた人が先にやって来たものと考えて別段騒ぎもせずに弟の手をとって乗出に引き移った。その先がその貧乏長屋の一室であったということである。
 彼の母は名を「民」と呼び男勝りの女で、同じ安芸郡赤野村有光常蔵の長女であった。同女が子供を引き連れ乗出に帰って来てから後は父親は唐様で書く三代目で、貧乏世帯を張っていくには何の役にも立たなかった。そのため家政一切は母親が引き受け、日々家中を回り古着の行商をして彼ら兄弟を養っていた。日に一丁字もないが厳格な一見識を備えた婦人で子供のしつけ方も至って厳しかった。ある夏の夜など眠っていると突然母親が早く起きろというので飛び起きてみると、蚊帳の上に雨が漏っている。雨が降り止むまで室の隅で雨漏りを避けながら夜を明かしたこともあった。そんな時に限って母親はいつも決まって、「直吉、お前たちもよく心得ておけよ。金子の家は長く続いた金持ちだったが、金持ちの時代に貧乏人をいじめたのでその因果が祟って今その子孫がこんなひどい目に遭うのであろう。お前たちは立身出世して金持ちになっても決して貧乏人をいじめてはならないぞよ」とよく言い聞かせたものである。彼女はまたなかなかの精力家で朝は未明に起きてわんぱく盛りの子供二人の洗濯をして物干しにほし、飯を炊いて食べさせて子供には別に弁当をこしらえ、その弁当をもって水道の鍛冶屋に行けと言って遊びに出し、貧乏長屋には錠をおろし家中へ行商に出かけた。夕方帰って来るのはいつも夜の六、七時頃で、母親が先に帰っていることもあれば子どもたちの方が先になることもあった。母親が先の時は帯の間から鍵を出して戸を開け、火打ち石を擦って火をつけ、夕飯を炊いて食べさせた。子供を寝かしたあとで着物や足袋のほころびを縫ってやった。夜が明けるとまた弁当をもたせて遊びに出し、自分は行商に出かけた。毎日それを繰り返して兄弟の子供を育てていたのである。しばらくしてこの乗出の住居から通町一丁目和食屋という貸家に引き移った。しかし、これもささやかな粗末な家で惨めなものであった。
 そのような中、彼も九つになったので、ある時母は父に向かって「直吉にも読み書きを教えないで無筆にしておくのは可哀想だ」といった。父親は「近頃学校が出来て読み書きを教えているからそこにやってはどうか」といったが、「それはいけません。借金がこんなにあるのに子供を学校などにやっては世間に申し訳がない」と答えた。どうしようこうしようと頭を悩ませた挙句「神主の常平に頼んだらよかろう」ということになり、彼は父親に連れられて常平の家に手習いに行くことになった。常平は姓を藤田という神主であるが、神社をもった神主ではなく加持祈祷の真似をしたり、その日のたつきに提灯張りや塵取りなどを作るかたわら、子供に手習いを教えていた爺さんである。その後彼は毎日この常平爺さんのところに手習いに行ったが他の友達は皆小学校へ通っていた。学校に行っている友達は手習いの他に読み方の稽古をするので大声をあげて何かを暗唱で読んでいるが、彼には何も読むものがない。「私にも読むことを教えてくれませんか」と常平爺さんに頼むと何やら教えてくれたが、友達のとはどうも違う。後で分かったのであるが、この時常平爺さんが教えたのは高天原の祝詞であった。ある時、友達が字を百知っていると自慢したので自分はろくに学校にも行っていないが、いろは四十八文字と干支の十二字と、一より十、百、千、万の十三字と合わせて七十三字知っていると威張り返してやったという。その頃の学問としてはまずその程度で、その上土佐往来と商売往来を習得するのが普通であるが、彼は土佐往来だけを修了し、両親の貧乏を見るに見かねて暮らしの助けに籠を背に紙くず買いを始めた。これが彼の商売の第一歩の踏み出しで、それは彼が十一才の時であった。