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丁稚奉公時代

 当時乗出に長尾某という人がいた。その弟が上方から帰り屋敷の一部で小さな店を出し砂糖や茶を商っていた。そこへたまたま彼は紙くずを買いに行ったら、紙くず買いに歩くより俺のところへ奉公しないかと言う。誘われるままに、長尾の家へ丁稚奉公で住み込む事になった。長尾の弟はそろばんが上手なので夜なべにそろばんの稽古をつけてもらった。天秤衡は紙くずやで修行しているのでお手のものだし、細かいそろばんも次第に上手になった。当時一斤五銭くらいの砂糖を買いに来て、「三銭五厘だけつかあさい」などというお客様が来たら直吉少年の独壇場で、主人や家族は士族の商法で面倒くさくて仕方がない。そこで彼は細かい計算表を作って樽に貼り主人に褒められたという話さえある。主人も彼がこまめに立ち働くのと勘が良いのには感心して、将来を嘱目し、「いつまでもこんな小さな店にいては立身出世が出来ないから、どこでも望むところがあれば行け。もし行った先が気に入らなかったらいつでも俺の家へ戻って来い」と言われた。次に、本町一丁目の乾物屋で野中幸右衛門という店へ丁稚として住み込んだ。時に彼は十三才であった。丁稚としての第一の学問は秤を使うことで次にそろばんを一から十まで教わることであったが、雑用としては朝は掃いたり拭いたりの掃除から昼は店の使い走りや子守りまでやらされた。夜は主人の按摩や挽臼で粉をひかされることもあった。
 頃は明治十一、二年となり時勢も大分進んでいたが彼は前に述べたようなお話にならない程度の教育しか受けていなかった。そのため皆から無学文盲だ貧乏だ馬鹿だと罵られて常に人々から軽蔑の的となった。主人からも絶えず馬鹿扱いにされるので自分でも遂には実際己は馬鹿だと思い込むようになってしまった。「こんなに馬鹿ではとても人並みのことは出来ない。早く資本の二百円を作って小店でも開き、父や母や弟と一緒に細々でも暮らしを立てていけるようになりたい。そのためにもせめて月給に五円でも貰えば三年経てば百八十円になる。早くそうなりたい」と心に願っていたがどうも思うようにならず、この店に勤めるのもいやになり元の長尾の店へ帰ってぶらぶらしていた。母が家中に出入りしているうちに没落した武士に頼まれて時々質物を持っていく傍士久馬次という質屋が農人町にあった。この店は質屋が本業で紙も売っていた。母が出入りするうちに傍士の主人に「家の倅を使って下さるまいか」と頼んだところ快く承知してくれたので、彼はこの店に奉公することになった。それは彼が十四才の春であった。彼の成長した時代は日本の最も多難な時代であった。そして彼が育てられた土佐の高知は新日本の一つの揺籃であった。
 その頃店から使いに行く途中に士長屋を切り上げて桃花堂という看板をかけ、鉄で作った板のようなもので何かを刷っているのがあった。それが今日でいう活版屋で新聞を刷っていた。物珍しいので皆が立って読んでいる。彼も愛読者の一人でかなを拾って読んでいる中、段々と読めるようになった。しかし論説にはかながないので少しも読めない。読めはしないが何か勿体らしいことが書いてあるらしい。何とかしてその論説を読んでみたいものだと思い字引と首っ引きで一所懸命読むことにした。丁稚としての仕事は朝六時に起きて夜は十時に店をしまう。その後は自分の時間だ。その余暇を利用して字引をひきひき読んでいるとだんだん分かってくる。なんべんも繰り返して読むと次第に意味もよく徹底するようになった。そうなると商売往来や祝詞と違って世態人心の帰趨が手にとるように判り非常な興味を感じてきた。
 そのうち彼も十五才の秋ともなったが、この頃に至って彼はだんだんと鋭鋒を出してきた。主人は切に驚いたがその中でも彼が非凡な記憶力と推理力を有することが著しく目立ってきた。しかしまだ読書に格別興味が湧くという風でもなかったが、当時丁度陸奥宗光伯が西南戦後獄中から出て四方に遊説し高知に来て演説を行った。その演説の筆記が新聞に載っていた。当時自由民権論が盛んな頃で板垣退助、後藤象二郎、陸奥宗光、大石正己、片岡健吉などといえば自由の神様のように思われていた時でのことであるから、彼が陸奥伯がどんな偉いことを言っているのかと新聞の記事を熟読玩味してみた。しかし、特にこれと言って驚くほどの名論もない。「これでは陸奥、板垣も評判ほど偉くはないんだ。勉強さえすれば俺もこの程度にはなれよう。人は俺のことを馬鹿馬鹿というが俺は人の言うほどそんなに馬鹿ではあるまい」という自信が勃然として初めて胸裏に湧いてきた。幸い質屋は座って客を待つという商売であるから、読書の機会も多かった。根気のよい彼は暇さえあれば質物の軍書本や翻訳本を手当り次第に乱読し、まるでここを図書館のようにして独学勉強し飽くことを知らなかった。そしてついに孫子の兵書を見つけ出し、これに非常な共鳴をもち熟読玩味し、よくその大体に通じ、これを後年商売に応用したそうである。そのうち、手紙も書けるようになり、大抵の書いたものも読める程度になり、徐々に成功の素因が出来るようになった。俺も同じ人間だから世の中に出たら相当の仕事は必ずやれるという確信がついて来た。
 由来質屋稼業はなかなか頭の働きが要る。質を取る瞬間に、「この品物はその者のものであるのか、借りてきたものであるのか、あるいは盗品ではないか」という点を注意し、それから「この品物にいくら貸してよいか、流れた時はどうしたらよいか」というようなことを胸算用で直ちに計算しなければならない。しかし、鋭敏な頭脳の持ち主である彼は、いくらもたたないうちにこの道を感得し、質を置きに来る人の品物の出し振りで、「質屋通いは初めての人か、または二度も三度も度々質を入れに来る人であるか」を容易に判断出来るようになった。後年彼の直話によると、職人とか月給取りが質屋通いをしてもそのために身を誤るようなことはないが、小間物屋とか魚屋とか八百屋とか小売商売をする者が質を置くようになったら、おそくも三年も経たないうちにその家は潰れるそうだ。その真理を彼は幼少の頃既に体験していた。後年金銭運用の妙算から、相手の心理を看破する透視能力、およそ彼の商売のアウトラインは、実にこの質屋奉公中に会得したのである。
 彼がこの店に入って間もなく、質の方を担当していた番頭が不正を働き暇を出されたので彼は番頭になった。ある日巡査が質の帳簿の検査に来たところ、帳簿に先日の未記入の箇所があったので巡査がこれを指摘して大いに脅かした。彼は昨夜遅かったので記帳できなかったというと巡査は「どんなに遅くなってもその日のことはその日のうちに必ずつけておけ」とまた怒りだしたので彼は「神様は夜を寝るために与えてあるのだから寝た。夜寝るのがなぜ悪いのか」となかなか屈しなかった。巡査もやむを得ず帰ったが翌日になって店の名義人である長男久吉に対し警察から呼出状が来た。官吏を侮辱したという廉で一週間の拘留になった。そこで弁護士がことの顛末を書いて裁判所へ提出する書類を作ろうとしたところ、彼が「その書類なら一番良く事情を知っている私が書きましょう」というので、彼に一任した。彼はつぶさに顛末を書いて弁護士に見せたところ一字一句も訂正しないで良いように立派に書けていた。名文だったので弁護士はじめ関係者はいずれもその才気に驚嘆した。
 事件は落着したが、主人もこんな面倒な商売は止めようということで質屋を廃し、菜園場というところで砂糖店を開いた。一切は番頭直吉任せということであったが、体格の良い方でもなく、未だ十七、八才の若い衆であるから、彼に大金を持たせて遠く幡多郡方面まで砂糖の買い出しにやるには危険だった。そこで、使用人の中で屈強な熊蔵という男に金を持たせてお供をさせた。彼は各地の農家を回る時、家々から買い取る斤量の多寡を克明に記入しておき、翌年仕入れに回る時の参考に供するという商売熱心振りであった。
 主人は魚釣りが好きで早朝釣り竿を持って店を飛び出すが、平素は至って朝寝坊だったので、朝の起こし役は直吉だった。直吉は向学心に燃え徹宵読書に浸りいつも寝ずの番をしていたから、泥棒除けと早出の人を起こすには最適任であった。それでいつも朝は目を真っ赤にしていたが、主の命なら時刻を違わず起こすので主人も直吉なればこそと感心していた。
 彼は非常に傍士家の寵愛を受け、一族は皆この男を信頼していた。鈴木商店へ入るのもこの家の推薦であったし、後年の金子夫人の徳子さんはこの傍士家久万吉の娘である。
 直吉は菜園場から本店通町の店に行ったら、帰りには主人のであろうと女中のであろうと誰れ彼の差別なく人の履物を引っ掛けていく。そのため、店中で「直吉が来た!履物を隠せ!」というくらい青年時代から物に無頓着であった。
 話は元に戻るが、当時土佐は立志社の極盛期で社長は片岡健吉、副社長は福岡静馬で、林有造、中村貫一は幹事であった。板垣退助は全社員の信頼と尊敬を受け、事実上の統率者であった。海南の成年は皆、青雲の志を抱いて奮起したものである。彼の血を沸かしたのもまた政治である。身は丁稚奉公をしているが未来の大政治家気取りでいろいろ政治関係の本を読んだり研究もした。こうして明治も十八年となり彼も既に二十歳となった。相当本も読み頭も一通り出来ていたので何か腕試しを考えていた矢先、たまたま主人の家に訴訟事が起こったので是非ともこれに主人の代理として出廷してみたいという望みを起こし、そのことを主人に願い出た。当時先方の相手はというと、この地方でならした北川貞彦という弁護士が代理を引き受けていた。せっかくの希望だが先方は名だたる大家、お前の如き若造の及ぶところではないといって主人は容易に承諾しない。しかし彼としては相手が大家であってこそ一層張り合いがあるということで、無理やりに主人を承知させ、勧解、民事訴訟で二度も勝った。そこで主人も彼が凡人でないことを驚き、将来を見込んだのである。彼もこれに自信を得て、益々政治や法律の本を読み、これならばという確信を得るまでに至った。
 けれどもまた一面自分の過去と経歴を省みると、自分は如何にも政治家を志し多少の修養は積んだ。けれども、その知識たるやたかが知れたものである。政治家となっても結局一陣笠くらいに終わる程度であろう。しかしもし自分が商人になるとして見るとまず第一に自分は代々商家に生まれ、商家に育ち、現に商家に奉公している。いわば生まれながらの商人である。商売にかけてはまんざら人後に落ちるようにも思えない。政治家になるよりもこれは一つ立派な商人になってやろう。そう気がついてみると最早政治の本など読む必要はない。もう二十歳にもなるのにこのままこの土地で砂糖屋奉公をしていたのでは立派な商人にもなれない。それには万国の人が沢山集って商売をしている神戸に行って西洋人相手に商売を覚えるに限る。そこは目先の利く男だけに気がついたが、折悪く父の甚七が中風の病に罹り病床に就いたので一年ほど延ばして、二十一才の時、主家傍士久万次の推薦で高知浦戸港の埠頭から将来の大計画を夢み青雲の志を抱いて汽船に乗り神戸に出て先代鈴木岩治郎の店に雇われることになった。