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鈴木商店に雇われる

 鈴木商店に雇われた後の彼はまず最初三ヶ月程度一生懸命骨を折って働いてみた。しかし、一向に主人に気にいられず、いつも小言ばかり食らっていた。しかし、一度ハサミを砥がされた時、「お前は何をさせてもろくなことは出来ないがハサミだけはよく砥げた。よく切れる」と褒められた。しかしその後でまた直ぐにだが「柄の方の錆が落ちていない。こんなことではダメだ」とまた小言を食らった。このくらい細かいところに気がつくのだから、店員も葉書一枚書き損じたって大目玉を食う。しかも非常に気性の激しい人で、ある時は直吉の失策を怒ってソロバンで彼の頭を殴って血を出したこともあった。それでも彼はじっと耐え忍び平身低頭して謝った。こんなに毎日叱られ通しなのでさすがの彼も度々逃げ出そうと思ったが、夫人よねさんが調停役をしてくれたりねぎらってくれるのでまた思い返し、直接西洋人と商売が出来るまではいかなることがあっても辛抱しようと覚悟した。毎日深刻に憂き身を揉まれながらも、朝は六時に起き夜は十時になるまで精魂を打ち込んで働いた。その頃鈴木商店では砂糖、石油、大豆粕などを商っていたが、その後商売も振るわないのでドル相場と砂糖の二つをやることに決めた。もっとも砂糖の方は競争の弊に耐えず同業者と謀って洋糖商会というのを組織し、店からはその方へ柳田富士松を派遣したので、鈴木商店の仕事はただドル相場だけが残されていた。そのドル相場も既に末路に近づき商売はほとんどしなかった。ただ彼の仕事は鈴木商店が砂糖やドル相場をやった時代の貸金の取り立てをするだけの用事で肝心な貿易を見習う機会がなかった。そのため、いっそ父の病気にかこつけて郷里へ帰り、帰った上で暇を取ろうと考え、ひとまず郷里へ帰る決心をした。
 後年天下に大をなす男も、運命の神はまだまだ二十一や二の彼に幸福の甘菓子を飽食させてはくれなかった。そればかりか、その代わりにむしろ苦渋難渋の大杯をこれでもかこれでもかとばかりしこたま授けるのであった。
 先代岩治郎は、評判のやかましやだったが、人間は相当偉かった。ことに夫人のおよねさんは太っ腹な女でよく世間のこともわきまえ、主人の欠点を知り抜いていた。彼が国へ帰ると言い出したので、およねさんは、てっきり店を逃げ出すのだなと看破し引き止め策にいろいろ物を与えて慰めた。しかし久しく父母にも会っていないし、他国で苦労するくらい父母に仕えたらどんなに喜ぶだろうかと帰心矢の如く望郷の念は日にいやまさり、彼はとうとう郷里へ帰ってしまった。国へ帰って手紙を出して暇をとろうと考えていると、神戸からいろいろ用を言いつけて来て暇をとることが出来ないように仕向けてくる。両親もそれほど主人が気に入っているのなら続けて奉公してはどうかと、「橋と主人は弱くてはいけない。強い主人に揉んでもらえば将来必ず見込みがあろう」と苦労人の彼の母に訓戒されて再び神戸に帰った。帰ってみると、これはまた意外にも「何か商売をやりたいものがあったらやって見よ。何でもお前に任せるから」という話になった。彼はもとより望むところと、早速内地の砂糖、鰹節、茶、肥料等の商売を始めてかなりの成績を収めた。
 その後主人の言いつけで彼が樟脳の商売を担任してやることになったが、その樟脳の商売も追々大きくなっていった。
 その後明治二十七年四月、彼が二十九歳の時、主人の岩治郎氏が病死したので親戚友人が集って鈴木商店の今後をどうするかということを相談した。その時商売をやめて引っ込んだ方が気楽だという説も出たが、後家のおよねさんは「主人が死んだからといって商売を止めたくない。是非継続したい」と言い張り、洋糖商会の方を解散して砂糖部を復活させた。鈴木商店の代表者として洋糖商会に行っていた相番頭の柳田富士松に砂糖部を担任させ、ハッカは長久某が管掌し、彼は専ら樟脳の方を担当して鈴木商店経営の任に当たった。当時鈴木商店の取扱品は以上の他に石油、小麦粉、その他天産物の売買でその財産は約九万円くらいのもので、まだまだ町の一商店に過ぎなかった。