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樟脳の空売りで大失敗

 主人岩治郎が死んで間もなく日清戦争が始まった。明治二十八年それも済み、台湾が我が領土に帰したという電報がロンドンに入った頃のことである。ロンドンに「ノース」という海軍士官上がりの大相場師がいてこれに目をつけた。台湾は日本の領土となったが、島民は必ずこれに服従せず一騒動起こるに違いないから樟脳は当分出て来まいと看取し、この機運にウンと樟脳を買い占め一儲けしようと考え、世界的に樟脳の大買い占めを行ったのである。しかし一方金子は「ノース」がそれほどまでの大方針で樟脳を買い占めていようなどとは夢にも気が付かず、樟脳が高騰してきたのを見て好機逸すべからずと、四十円から外国商館へ盛んに先物の売約を始めた。ところが、売り進めば進むほど相場は上がる一方だった。七十円から八十円、一時は九十五円までに暴騰した。この値上がりで鈴木商店が被ることになる損害は莫大な額に達した。もし契約通りに品物を渡すことを実行するなら、全財産を拠出しても足りないという破目に陥った。世間でも鈴木商店は破産の他あるまいと噂されるに至った。事実明治二十九年八月頃は破産の他ない運命にまで立ち至っていた。さすがの彼も進退維れ谷まり、独り帳場に座ってソロバンを前に起き腕を組み沈思黙考に浸った。鈴木の店はその時分普通の店と同じ構造で、奥から格子戸を経て店の様子は見通しであった。お家さん(阪神地方では女主人のことをこのように呼ぶ)は奥から遥かに金子の思案投首萎るばかりの風情を見て、多分現金と帳面の辻褄が合わないので悩んでいるのだろうと想像し、金子を呼んで「直吉どうしたのか、金が足らないのなら少しくらいは奥の方から足しておこうか」と言って慰めた。彼は、お家の浮沈に関する一大事最早隠すに隠されぬ瀬戸際になったので、実は斯く斯くの次第と一部始終を打ち明けて只々詫び入った。しかし、さすがは太っ腹のお家さん。小言ひとつ言わず、「そうなったら仕方がない。善後策を講じよう」と、二人一緒に当時大阪の北浜(現在の日商ビルのある所)にいたおよねさんの兄で鈴木商店の後見をしていた西田仲右衛門を訪ねて相談した。西田も一人ではよい知恵も浮かばなかったと見え、先代鈴木と朋輩であった大阪の砂糖商藤田助七をも呼んで西田、藤田、よね、金子の四人額を集めて善後策を相談した。その時西田は彼に向かって、善後策とあわせてお前の一身上のことも相談するからちょっと外出してくれと言うので、彼はかしこまりましたと表へ出掛け、安治川橋のかたわらにある藤沢弥三郎という店に立ち寄った。安物の樟脳を掘り出して幾分でも損の穴埋めを思い立ったからであった。素知らぬ顔で売り物がないかと聞くと、あることはあったが、たった今七十五円で売ってしまったとの返事。彼はビックリしまったと思ったが仕方がない。それから肥後橋の福永次郎兵衛を尋ねたが、そこでも今相場が八十円に上がったと聞いて二度吃驚。ところが東京の銀行家で樟脳を担保にとっている肥田景之という男が花屋旅館に泊まっていることを思い出し、「肥田ならば素人だからまだ相場が上がったことは知るまい。うまく頼んで同人が住友倉庫に入れてある樟脳を手に入れよう」と花屋で肥田に会って話している最中、神戸の住友から電話がかかり、樟脳がまたまた暴騰して八十円を突破したとのことであった。彼は開いた口がふさがらず三度吃驚。早々いとまを告げて肥田と別れた。それでもなお最後のベストをつくし谷禎造という人を訪ね、この人をもって住友に掛けあったところ、住友でも大いに同情して破格の値段で少々手に入れることができた。しかし、ほんの九牛の一毛にも足りない数量で問題にならなかった。「もうこうなっては運の尽きだ。樟脳を探すよりも何か気分転換できるものを」と、苦しい時の神頼み、天満の天神様を参詣して無事難関を切り抜けの祈願をかけた。それから庭園の中にある池に臨み、鶴にドジョウをやったり鯉に麸をやったりして、「ああもう人間をやめてこの鶴や鯉になりたい」と熟々嘆息した。かれこれするうちに日も西山に傾いたので、もうよかろうと西田の店に帰って見ると、三人の話は済んでいた。「お前は中々大きな損をしてくれたものだ。これは我々が神戸へ行って処理するはずだが樟脳のことは我々よりもお前の方がよく分かっているからお前に任せる。できるだけ損失を少なくして解決せよ」と申し渡された。この時は最初西田に善後策の相談を持ち掛けた時よりも遥かに樟脳の市価が高くなっており、損害も莫大にかさんでいたけれども彼はもうこの事を話す勇気もなく、そのままお受けして神戸に帰った。
 そこで彼は一層責任の重大さを感じ骨粉砕身、何とかしてこの難関を切り抜けようと決心している矢先、「オットライマース」の弁護士から書面で品物引渡しの厳重な催促を受けた。当時鈴木商店の最も多量の売約先は「シモン・エバーズ」であったから、まずこの商会を口説き落とすにしかずと、この弁護士の書面と短刀を懐にして同商会に行き「シモン」に面会した。「このように八方から責められては鈴木は破産する他はない。平生引き立て下さる貴商会にできるだけ義務を尽くそうと思うが思うに任せぬ。わずかの品物と三千五百ドルで勘弁して頂きたい。出来ぬとあらば主家鈴木に対してこの金子は申し訳ないからこの場で腹を切るまでだ」と短刀を抜いて卓上に置き窮状を訴え熱誠を込め、しかも彼得意の富婁那の弁舌で「シモン」を口説いた。さすがの「シモン」も彼の熱意に動かされたと見え、顔色をやわらげた。「私の店も幸いモスリンの商売で多少余分の儲けがあったから、これで鈴木の契約不履行による損を補填する。しかし、なお五百ドル足りないから出せ」という。彼は三千五百ドルにまけてくれという。かれこれ押し問答の末、四千ドルでケリがついた。これに成功した彼は勇気百倍、同じ手で「オットライマース」その他をすべて片付けてしまった。
 自分の方の商売の失敗はひとまず片付いたので、脂が乗って来た彼は肥後橋の福永がやはり樟脳を「ラスベ」に売約して困っているのを口きいた。それも円満に片付いたので、その仲裁の謝礼として福永から三千円、「ラスベ」から三千円、都合よく六千円をもらった。これを鈴木商店の資本として再び商売を続けているうちに、運良く相当巨額の金儲けが出来た。明治三十年の六月に勘定すると損失を取り返してなお十万円くらいの銀行預金が出来た。この十万円の資本が活躍し、後年鈴木商店が世界的に大をなす基となった。