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金子直吉伝序


 私は大正の末期頃から時々伊豆の湯郷、長岡に来浴していた。私はある日按摩を呼んで、肩を揉ませながら四方八方話を聞いていると、按摩が「近くの旅館に珍しいお客さんが滞在しています。その人はいつも温泉から上がると、頭に氷嚢を乗せて私に体を揉ませながら、秘書を枕辺に呼び寄せ、何事かとうとうと喋ってその話を書き取らせています。その話しぶりを聞いていると何でも偉いお方の評判です」という。
 私はこれを聞いて「なかなかもって精力絶倫の先生だわい。一体誰だろう」と好奇心を抱いていると、その後二三日経って刺を通じて私に面会を求める客があった。会ってみるとそれが按摩が話題にしていたご本尊神戸鈴木商店の大番頭金子直吉君であった。早速会見してみると、談もなかなか上手で記憶も非常によく、当時の社会各階層の名士と相往来し高邁な識見と卓越した手腕を有しているようで、私はこの人は世の中を闊歩して相当大きな仕事が出来る好漢であると感じた。
 この会見を契機としてそれ以来、懇親にお付き合いを願い、時々お目にかかった。そして色々な機会を通じ、同君から啓沃を受けることが非常に少なくなかった。
 君は慶応二年の初夏、土佐の片田舎に呱々の声を上げたのである。土佐の国は外に黒潮跳ねる太平洋の荒波がたけり、内には朱子学の大義名分思想が透徹して沢山の志士論客を出している。これらの人は相携えて明治維新の鴻業を助け、日本国内で率先して自由民権を昂揚したのである。君はかかる海南の雰囲気の裏に切磋琢磨して成長した人であるから、その性格や気概も略々推想することができると思う。そして弱冠志を立てて身を実業界に投じ、鈴木商店に入りよく主家を助けて刻苦精励すること六十年、遂に同店が東亜の産業貿易界の王座を占めるに至らせ、その声明を世界に轟かせたのである。この間、君が発揮した手腕と力量は、我が実業界中他に比肩すべきものはなく、正に当代の偉観であったが、君はただそれだけでなく、政事外交方面においても非凡な卓見と力量を有していたが、これまた世間周知の事実である。
 しかしながら有為転変、栄枯盛衰は世の常である。第一次欧州大戦後、全世界を覆った大恐慌と関東大震災以来打ち続く財界不況の煽りを受けて鈴木商店もまた少からざる痛手を被り、ほとんど再起不能の悲運に遭遇したのである。それでも君はこの怒涛狂乱に遭っても屈せず、老躯を提げて敢然と立ち上がり、日夜精進健闘してほとんど寧日なき有り様であった。そしてその功はむなしからず、まさに盛運回復の彼岸に漕ぎ着こうとした刹那、君は幾多の抱負を残して溘焉として逝ったのである。実に千秋の恨事と言わなければならない。
 君は資性剛穀朴訥にしてしかも果断に富み、創意工夫の天分に恵まれていた。君の計画創始した事業施設は数十種の多さに及んでいるが、そのすべてはほとんどが君の独創工夫に関わるものである。
 君はまた情味まことに厚く、主家に対しては終始一貫極めて忠実に仕え、その反面己を持すること甚だ薄く、子孫のためには全く美田を買わず、滅私奉公、常に清貧に安んじたことは世間まれに見る廉潔の士にして一世の師表であった。私は君を智情意の三者が健全に発達した偉傑であったと称えたい。
 今や国歩艱難の秋、しかも廃墟経済復興の急を要する今日、私は君のような達識堪能な偉人の出現を待望してやまない。ねがわくは後進諸君は本書により、この一先覚者の業績を詳らかにし、諸業における進路の指標として君の抱懐を仔細に研究するならば、けだし時局匡救のために金玉の智識や資料を収得し、啓沃されるところ多大なるものがあろうと信じる。
 ここに金子君の伝記編纂されるにあたり、追憶の念真に切なるものあり、編者に請われるままに所蔵の一端を述べて序とする次第である。