再製樟脳株式会社もまた第一次欧州戦争中にできたもので、この会社は樟脳生油の中に残っている樟脳を蒸留して再製樟脳をこしらえる目的でできたものである。従来の方法では樟脳油を釜に入れて下から火を炊き蒸留させたものであるが、鈴木商店においては、金子の命によって村橋素吉が明治四十一年頃からその研究に着し、大正六年に至ってようやくその研究を完成させ、独特の設備による蒸留方法が案出された。その方法は非常に高い塔をこしらえ、塔の中に湯を通して湯の力で蒸留する装置である。従来直接火にかけていたものを湯で蒸留するため、消散量が著しく減少し、樟脳の歩付がそれだけ多くなった。これまた蒸留化学の一大発明で、他の追随を許さない。
この会社は専売局から樟脳生油を一手に売り下げを受け、それを蒸留分解して再製樟脳および樟脳赤油、白油、藍油等を製造する本邦唯一の会社である。この会社で製造した再製樟脳は全部再び専売局に納入し樟脳赤油、白油、藍油等は全部鈴木商店樟脳部に売り渡しこれを海外に輸出あるいは内地需要に売り渡したものである。後年昭和二年鈴木商店が整理される時から同社の姉妹会社として同社の関係者が日本香料薬品株式会社を設立しこの会社に樟脳、赤油、白油、藍油を売り渡すことになったのである。
なおこの再製樟脳会社は金子が非常に力を注いだ会社であって、往年直火式蒸釜を使って分留していた。窪田平吉、池田貫兵衛、小松楠弥、河合義雄、小松楠吉、小松駒太郎、大野和吉ら多数の業者を合併し、最初神戸市和田岬、ついで神戸市小野浜通りに工場を建設し依然として直火式蒸留釜で作業を続けていた。しかしこの方法は作業上危険の程度が非常に高く、かつ樟脳の収量が理想的でない等の欠点が多かったので、金子は熟慮の結果、多大な出費の犠牲を払い、村橋素吉を研究主任技師とし顧問に杉山仲蔵技師、担当技師に海宝善八郎その他多数の研究員を督励し、ようやく完全かつ理想的な他の追随を許さない蒸留炉を発明し、実に非常に業界に貢献した。この蒸留の特許があるため今日まで専売局から一手に原料の売り下げを受け、再製樟脳事業を継続することができた本邦唯一の会社となることができたのである。当会社の株主としてはほとんど大部分が鈴木商店の所有であって、その経営は金子の子飼い弟子というべき小野禎一郎に担当させていたところ、昭和二年鈴木商店が整理されることになりこの所有株は後日返してもらう約束の下に松野鶴平に預けられたが、その後鈴木がこの株を取り戻そうとしたが松野氏は返還に応じなかったようである。なおこの会社の社長は長らく前記小野禎一郎だったが、後に松野鶴平になった。
姉妹会社の日本香料会社の社長には小野禎一郎長男嘉七が就任し今日に及んでいたが、嘉七は最近逝去された。