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後藤新平伯との接近

 台湾進出によって鈴木商店の基礎がようやく確立しようとしていた時、後藤新平が民政長官として赴任してきた。同伯は赴任早々この製脳事業を総督府の専売事業にし統一しようとする案を立てた。ところが当時鈴木にならって台湾で製脳事業に従事していた大小幾多の製脳事業家は折角開拓したこの甘い仕事を取り上げられてはたまるかと、こぞって猛烈な反対を試みた。さすが剛腹の後藤もちょっと弱っていたが、金子は「製脳事業直営は結構です。わしは長官の意見に賛成です」と言明した。台湾における製脳事業の鼻祖である金子がこのように大胆に言明したことは、後藤としては泣くほど嬉しかったに違いない。彼はその上この言明を実行に移し専売当局の祝巽とともに、猛烈な反対運動に血道をあげている製脳業者の陣営を切り崩すことに成功し、遂に官営実施となった。そして、その功労のためか官営樟脳の六割五分の販売権を鈴木商店に与えるという事になった。商売敵が雲のように輩出している中で樟脳事業にしがみついているよりも一手販売権を握ってソロバンを弾いた方がどれだけましか分からないと、先を見たのであろう。ここで彼は後藤伯と意気相投合し、その才幹を認められ、すなわち絶対の信任を受け、遂に後藤伯の力を背景として他日台湾銀行に接近する端緒を作ったのである。これが鈴木商店崛起の遠因である。それからは台湾における公務上のことはもちろん、一般統治上のことまでも彼の意見を徴するまでになった。
 その後、樟脳専売に関する法律案が議会を通過しいよいよ実施されようとしたとき、金子はもちろん樟脳も副産物の油も併せて販売権を一手に収めようと盛んに暗中飛躍を試みた。しかし、樟脳は入札で一手販売人を決定することになった。それには百九十万円の保証金が必要だったが、この保証金は当時の鈴木商店ではいかんともしようがなかった。そこで入札は断念し、サミュエル商会が入札の結果、販売を一手に引き受けることになった。そのため樟脳の方はやむを得ず断念したが、樟脳の副産物である油は、台湾が我が領土になる以前にはなかった物産で、これを台湾の物産とした。これは台湾がなお血生臭かった時代に鈴木商店から沢山の人を台湾に派遣し製造方法を授けたものである。これは今日専売の目的である台湾の一大産物とまでになった。しかしその頃、横浜の実業家増田、阿部、大谷の諸氏が中心となって創立した台湾貿易会社というのがあった。これが樟脳油についても盛んに鈴木商店と競争となり、その結果鈴木商店が六割五分、台湾貿易が三割五分の割合で取り扱うことになった。これが後の樟脳再製株式会社の起源である。
 さて一方、樟脳の専売を実行した結果はどうなったかというと、台湾において樟脳の専売を計画した当時は内地の樟脳は全く市場から姿を消していたが、一度専売となってから値段が高騰してくると、内地からも沢山の樟脳が出るようになった。そのため樟脳の専売を引き受けたサミュエル商会から政府に苦情が出た。当初は、台湾以外、世界には樟脳がないという建前でできた専売であるのに、内地から続々と樟脳が出るので専売のありがたみが薄くなってきたのである。ここにおいて樟脳の専売を内地にも及ぼす計画をたてたが、政府はこれを議会に提出したものの否決となった。そのため、さらにまた翌年の明治三十二年の議会に提出し、右法律案はようやく議会を通過して台湾と内地とに共通の専売法が制定されることになった。依然として樟脳は サミュエル、油は鈴木と台湾貿易とに払い下げられていた。その後間もなく鈴木商店では住友樟脳精製所を買収し三十七年にはさらに政府から専売の樟脳の払い下げを受け、これを精製して海外に販売する事業を始めた。すなわち鈴木商店は樟脳の専売によって一時樟脳貿易の事業を失ったがここにいたって再び精製樟脳の貿易を回復することが出来た。それとともに、広く日本の樟脳事業といえば精製樟脳貿易が従来の粗製樟脳貿易にとってかわった。これは鈴木商店の将来の大飛躍の基礎となった。
 明治三十五年頃、後藤民政長官は台湾から帰途、下関の山陽ホテルに投宿した。これを伝え聞いた金子は後藤伯をホテルに訪問し、「さてこれからどんな行程をとられるのか」と尋ねると、伯は「途中徳山に下車し、それから東京へ行く」とのことで、従者もなくただ一人旅でいかにも不自由そうに見えた。そこでボーイ役を務めましょうと、伯と同車して徳山まで見送ったことがある。その汽車中、伯は「基隆の港が寂しくて困る。何とか賑わす方法はないか」と尋ねたので、金子は「いかにも難しい問題でありますが、腹を決めてやったなら面白いことがあります。それは砂糖の精製所をこしらえることであります。というと、台湾の砂糖を精製するのだとお考えになるかも知れませんが、台湾の砂糖は原料にするほどまだ立派なものはできていませんから、ジャワあたりから原料を取り寄せてこれを精製して内地へ送り、支那その他の各地へ販売するという案であります。この事業を始めれば南洋からも原料糖を積んだ三四千トンの船が毎日二三艘入る。また、精製糖を積む船も来る。ただこの場合、台湾糖を原料にしないのは遺憾でありますが、今の分では如何にも幼稚で致し方ありません。しかしこれが刺激になって発展を促し、他日精製糖の原料をつくる端緒にはなろうと思います」と意見を述べた。伯はその時この問題について別段可否を言われなかったが、賛成らしい様子に見えたの。伯が徳山に行ったのは児玉総督の兄が同地に図書館を建てたのを見に寄ったからである。氏は徳山で伯と別れ、そのまま神戸に帰り伯は徳山から東京に帰った。その後二週間くらい経つと後藤勝蔵氏から「後藤伯が用があるから速やかに上京せよ」との伝言があった。
 上京してみると、伯の話に先立って「帰社中で聞いた精製糖の工場をつくる案は至極面白いと思うから計画を建てろ」とのことだった。金子は伯に向かって「基隆は工場を建てるには不向きの場所でありますが、ただその基隆繁栄のためにやるのだから無理があります。それは政府において保護をするお考えか」と念を押し、委細了承して神戸に帰った。
 その頃大阪都島に日本製糖会社というのがあって、松本重太郎、不二樹熊二郎、野田吉兵衛、本山彦一らの経営で、大阪、神戸の商人に精製糖を売っていた。しかし、専務の不二樹熊二郎という男のやり方が横暴で商人側はいつも困っていた。その結果鈴木商店、藤田助七その他関西の主だった同業者が相談して別に精製糖会社を起こす目的で機械の見積もり等既に電報でロンドンに頼んでいたので、工場の設計機械の見積もり等一切の計画は案外早く出来上がった。そこで金子はその案をもって再び東京に伯を訪ね、かくかくの程度のものをやってはと建言した。伯は氏の設計が意外に早く出来上がったのに驚いたらしかったが、非常に満足で早速機械を購入し技師を雇い入れるなど着々として準備を急いでいた。
 伯は丁度その頃、前に述べた樟脳の専売に関する台湾と内地との共通法案を議会に提出中であった。これが議会で問題となり非常に攻撃を受け、衆議院だけはかろうじて通過したが貴族院では遂に否決となった。その時、「後藤は鈴木に金儲けをさせるためだ」などという攻撃もあった。そこで金子は即刻伯に面会を求めて、「先立ってお約束の基隆の精製糖工場はやめようではありませんか」と申し出た。伯はなぜかと訊くので金子はそれに対し「基隆は先に申し上げたように工場を建てるには不利益な土地です。従って多大の補助奨励金をもらわなければなりません。しかし議会の有り様が今日のようでは沢山の補助奨励金をもらっては攻撃が一層激しくなるに違いありません。閣下が台湾の民政長官をされている間はそれで良いとしても、閣下は釘付けではないからいつ他に転任されるか分かりません。しかし砂糖会社はあとに残されます。その時に後の民政長官が腰の強い人であれば補助奨励金をもらえましょうが、弱い方が来ると補助奨励金などは撤廃されないとも限りません。そうなると自分などは砂糖の工場を持って非常に困ります。議会が砂糖に対し、また基隆の発展に対して理解のない時代はこの方は止めて、私は私の最善であると信じる場所に独立して工場を創りたいと考えます」と答えた。すると、それまで一言も発せず黙って聞いていた伯は大きくうなずいて、「そうか至極もっともな道理だからそうしたらよかろう」と言って同意を表せられ、基隆の砂糖工場の計画はそれでやめになった。
(当時後藤新平に爵位はなかったが、ここまでは単に呼びやすい点から「後藤伯」と敬称したのである)