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大里製糖工場の設立

 その当時鈴木商店は大阪桜ノ宮の日本精糖から砂糖を買っていた。当時関西の糖界に勇躍して精糖業者の利益を聾断していたのはこの日本精糖会社であった。後年財界で飛ぶ鳥を落とした松本重太郎が社長で、その旨を含んで八方に踏ん張ったのが専務取締役の不二樹熊二郎である。不二樹は富田屋でだんだら遊びをやった挙句、名代が売った妓で当時大阪南地で唄われた名妓八千代を根こそぎ引き抜いたほどの辣腕であったが、それをさらに糖界に十倍の強さで振るったものである。その当時会社の重役方は皆こんな風な男が多かった。商売上砂糖を買うにもいちいち不二樹をお茶屋へ読んで八千代を同席に侍らせて甘ったるい談をしなければ話がうまく運ばなかった。当時関西の糖業者はその横暴ぶりに憤慨していた。中でもその品行方正な金子にとって、こんな敏速を欠いたお茶屋入りの芸当までして、おまけに一方的な仰せの値段で取引するようでは、非常に商売がしにくい。そこで一つ自分で精糖会社の設立を思い立ち、前に述べたように三分の二は鈴木、三分の一は親戚同様の藤田助七が出資することになった(明治三十六年)。そこでどこに精糖会社を建てたら有利であるか種々研究した。この時頭に浮かんだのがかつて神戸の商業会議所で聴いた稲垣満次郎の東方策という演説で、石炭と運輸交通とが商工業の発達に最も緊密な関係があるという一説である。石炭があること、運搬の便があること、これらが工業の運命を支配する鍵であると。その講演の意味の記憶をたどって味わってみると、その資格を備えた場所は門司付近の他にない。あの辺ならば成功は間違いないと見当をつけた(なおこの地が有利なことは大隈侯も氏に説明したという説もある)。精糖会社をこしらえるには石炭が安くて大量の淡水がなければならない。しかし大船を横付けできる沿岸であることを必要とするため、大船がつく河尻だと塩水が混じって砂糖の精製に適さない問題があった。条件を備えたところはと言うので門司と小倉との間をいくども調査した。しかし不思議にも氏はこの時樟脳の共通法で少なからず骨を折った福岡県の選出代議士藤金作から、「小倉の手前に大里というのがあり、そこに大川という小さな川が流れているが、その川の水は昔から年中枯れたことがなく、また塩気が少しもない」という話を聞いた。実地に調べてみるといかにも小さな流れではあるがこんこんとして流水は尽きない。塩分もない。そこでいよいよ大川尻に土地を選定して工場の建設に着手した。これが後年大日本精糖会社と競争して遂に六百五十万円で日糖に買収させた大里精糖会社の発端である。当時この計画は極めて秘密裏に運ばれたが、いつか世間に漏れると不二樹始め精糖事業の関係者たちは「大里の水にはアンモニアが一杯あるから工場は出来ても砂糖は出来ない。結局工場は潰れて後にレンガと石ころのみが残るであろう。無分別なことをしたものだ」と盛んに嘲笑した。けれども金子はそんな噂などには少しも耳をかさず、屈せず、大いに勇猛心を起こして「レンガ一枚を馬蹄一枚に交換するのだ」と豪語しながら遂に立派な工場を打ち建てた。さて運転開始の段になると、不二樹の祟りか不思議にも砂糖が固まりがちで、東京は大阪の精糖会社で出来るようなさらさらしたものが出来ない。色々と改良はするが、その度に原価高になって製品が高くなり一般の向きが悪くなかなか売れない。工場運転の最初は金子も職工とともに夜間汽缶室の前に寝ずに陣取って製品の出来具合を心配し、職工とともに苦労したがやはり製品は固まる。
 この固まりがちの原因をだんだん調べてみると、これは「ディスインテグレーター」という砂糖を撹拌する機械に欠陥があり、かつ運転に不熟練であったことが分かった。
 この機械の名称について面白い話がある。金子は英語に通じていないから、教えた人が誤ったのか氏が聞き違えたのか、この機械の名を「リクヒンリグレット」と覚えた。そして、この機械の扱い方を知るために京都帝大へ行って某博士に面会した。そこでようやく「ディスインテグレーター」の誤りであることが分かった。けれども、負け惜しみの強い金子は「ディス」でも「リク」でも要するに発音の違いに過ぎない。現に米国人は「ポールモール」(紙巻たばこの一種)と呼ぶが、英国人は「ベルメル」と発音するじゃないか、と当意即妙にやってのけた。
 さて、この原因は分かったが、それを改善する技師も職工も大里にはいない。金子は大いに弱って外国へ電報して西洋人を雇い入れようと決意した。そこへある日一人の職工らしい男が訪ねて来た。氏は何事だろうと会ってみると、その男はじゅんじゅんと砂糖の製法を話しだした。まず砂糖製法の秘訣は、砂糖の色素を去り無色透明にしてこれに硫酸を加えてブドウ糖に変化させる。これを「ピスコ」という。この流動体を下からピストンで押し上げて、噴霧状態にして吹き込む…などとやりだし、加えて「ディスインテグレーター」の運用効能を詳細に説明した。氏は「天使来たる」とばかりに喜んで、どうしてここへ来たのか、どこから来たかと尋ねると、またその返事が振るっている。「実は私は桜ノ宮(都島ともいうが)の日本精糖の工場にいて長年この機械を扱っている職工だが、先日不二樹専務が工場へ来られた際、ポケットから一枚の写真を取り落として行った。私は何気なく拾い上げて見ると、頗る美人。聞けばこの美人が八千代という専務寵愛の芸者だとのこと。私らは職工であるが一生懸命に事業のために働いている。しかし専務は芸者遊びをして、しかもその写真を懐中にしてほうけているとは沙汰の限り。そういう人に使われるのは潔しとしない。これに反して大里の首脳者である貴下は品行極めて方正で、日夜真面目に事業のために奮闘しておられることを知り、貴下の人格を慕い貴下の下で働きたいので桜ノ宮から暇を取って来ました」と、じゅんじゅんとして説き去り説き来るその態度が熱心なため、金子は「私も木石ではないから女を嫌いだというわけではないが、病人が苦い薬を飲んで養生するのも一つの修養で、坊さんが限りない煩悩を断って衆生を済度するのも一つの誓願である。私らは仕事のために酒や女を顧みず日夜真面目に働くのも、仕事を物にして幾分でも世の中のためになりたいと思うからである」と互いに胸襟を開いて肝胆を照らし、大いに喜んで早速その職工を重用し、明治三十六年終わりに桜ノ宮に優るとも劣らない立派な優良品を創りだすようになり、ようやく所期の目的を達した。
 そこで東京と大阪の砂糖会社は恐慌を来たし、その結果彼らの合併を促進させることになった。大里にも合同談の交渉があったが、その返答を留保している間に他の二社の合併談が着々進捗した。農学博士酒匂常明が農務省の農務局長をやめて社長となり、磯村音介が専務、秋山一裕が常務となり、陣容を新たにして大里精糖を圧迫しにかかって来た。合併後の日本製糖は資本金も大きく生産額も多いので、大里の如きはひとたまりもなく揉み潰されるであろうともっぱらの噂であった。しかしこちらにはもと国民新聞の記者であった人見一太郎という人がいて、一切の指揮をしてこれに対抗した。文筆を持つほどの人であるから多少偏見傲慢な性質はあったが、極めて清廉剛直、厳格ではあるが温情に富み部下は皆悦服していた。そのため砂糖を安い原価で仕上げるという経済上の原則が完全にこの工場で行われるとともに、ジャワから来る原糖も一日二日早く来る。運賃もそれだけ安い。石炭もまた引込線で工場へ直に運べるから安い。大阪の製糖会社は淀川の上流桜ノ宮に工場があって、ジャワから砂糖が着くとまず安治川尻で小船に積み替え造幣局の近くまで行かねばならない。東京の方は横浜で積み替えて永代橋際まで持って行き小船に積み替えて小名木川を上って行かなければならないのだが、こちらは大里から直に工場の倉庫へ直接荷を引くことができる。その結果当時の計算で原糖一俵について六十銭以上の相違を生じたということである。
 一方販売戦に当たったのが当時の相番頭の柳田富士松である。これは小僧時代から砂糖の中で育った男であるだけに、その道の商売にかけてはこの人の向こうを張って太刀打ちできる者は天下にあるまいとまで言われる人物であった。結果、大里製糖は規模こそ小であり無名の会社ではあったが、工場販売とも百パーセントの戦闘条件備えていた。これに立ち向かった日糖は看板だけは立派でも到底競争上敵ではないというので、再び合併談を進めてきた。しかし、金子はこれに応じず、「勝つべからざる者は守なり。勝つべき者は攻なり。守は即ち足らざればなり、攻は即ち余り有ればなり」を考慮し、買収なら相談に乗る用意があると言った。それに対し、先方から盛んに買収の交渉があり、結局値段の点で七百五十万円でどうだと言ったが、六百五十万円に負けて折衝がついた。明治四十二年、大日本製糖会社に売りつけ、鈴木はこれによって一躍千万長者の列に加わったのである。
 しかし一方また買収値段の方で百万円負けた代わりに条件として北海道、九州、山陰山陽、朝鮮における一手販売権獲得の調印をした。この時隣席にあった馬越恭平は金子の肩を叩いて「金子さん出来したナー」と揶揄感嘆したとのことである。
 鈴木商店が他日財界に雄飛する元はといえば、この大里工場を売った六百五十万円であった。しかしこの取引が成立した時は、双方とも有頂天でその手打ちは京都祇園の中村桜で大小の美妓五十人も侍らせての大宴会であった。世話人には一万円宛も贈呈するという騒ぎだった。このところで少し面白いのは、その頃有名な成金鈴木久五郎は、全盛時代でも鼻息当たるべからず、何だ一万円の端金、貰わない方が立派じゃないかと言い出したので、東京側の世話人は、ついその気になって感謝状だけをもらい、関西側は現ナマをありがたく頂戴して引き揚げたそうである。
 大里製糖が買収になると、まもなく日糖事件なるものが勃発し、社長酒匂博士が自殺し、専務の磯村以下は収監された。この時日糖の整理には、財政的手腕の優れた点から金子が最も適任であろうということで渋沢子爵が金子を飛島山の自邸に呼んで懇談した。しかし、彼は、「鈴木商店は日糖の大債権者である。私が整理に当たると原告と被告が一緒になるようなものだからお断りする」と断然と断った。結局、藤山雷太を中心に指田義男その他の諸氏が委員となって債権者会議の開催を見た。当時債権者会議の大勢は鈴木が大里製糖を売った金のうち現金二百五十万円を受け取り後の四百万円が社債となって残っている。これを棒引きさせようと、三井銀行始め二十余名の債権者が連合して金子一人に向かってやかましく交渉して来た。この論戦が間をおいて三十日にもわたった。この時最も激しくがくがくの議論でぶつかったのが三十四銀行の小山建三であった。腕をまくりげんこつまで振り上げ威嚇的態度にまで出たという噂が伝わったほどである。したがってこの債権者会議は日糖との談判ではなく鈴木商店の金子をとりひしぐ談判に終始したようなものであった。
 最後に両国の亀清の桜上で夜を徹して整理案が作成され、金子は鈴木商店のために得意の熱弁を振るって応酬しよく戦い抜き、結局日糖に対する四百万円の社債は償還期間の四年を六年に伸ばしたのみで一歩も譲歩しなかった。のみならず、従来無担保の社債に対して大里工場を担保に取って担保付信託社債に書き換えさせ、かえって鈴木のために債権を確保するという反対の効果を収めたのである。
 そこで金子は最早鈴木も基礎を固める時と考え、鈴木の近親を集めて鈴木商店の今後をどうするかという相談会を開いた。商人にとって最も危険なのは支店を多く持つことだから、むしろこの際商売を緊縮して砂糖もやめ、一切の支店を廃し本店のみ守ってはどうかとまで考えたが、大里製糖が日糖に買収された際に北海道方面の一手販売権を得ているために、函館、小樽の支店を廃することもできず、九州方面の一手販売権を得ているために下関の支店も廃することができず、結局急角度の転換も行われず現状維持でただ商売を一層堅くやって行こうということに確けく方針を立て直した。
 もしここでこのまま消極的方針でやっていたなら、金子はあれほどまでに有名になることもなく、鈴木商店も世界的に有名にもなることもなく、また昭和二年の破綻にも遇わずにも済んだかも知れない。