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東洋製糖株式会社

 はじめ斗六製糖の専務松江春治が斗六の社長田辺貞吉とあわず、ひそかに先輩の明糖専務相馬判治に明糖との合併を申し込んだところ、これが内部にバレて他の重役の反対にあった。しかし彼は後に南洋興発の社長になるくらいの才人であったから、明治との交渉の手がろくに切れない中に急に今度は同郷会津の先輩下阪藤太郎の東洋製糖との合併談に切り替えた。下阪はこれを聞いて金子に相談した。そこで奇策縦横の金子が登場して大計画が立てられた。なにしろ天馬空を行く金子の怪腕と堅実緻密一毫もゆるがせにしない下阪藤太郎との階段はまさに糖界における歴史的シーンであった。この会談で話がまとまり、金子は即日猛然として斗六株の買い占めに着手した。一方、明治製糖の相馬も負けん気を出して斗六株を買って出たが、金子と相馬との競争はもとより腕が違う。金子の買い占めは実に面も向けられないほどの凄まじい有り様であったので、明治は一時これと立ち合わせをしたが相手が悪いとたちまち一転して買い占めた株を売り退いて傍観する他はなかった。こうして大正三年八月東洋糖はまず斗六を併呑し、ついで翌大正四年五月に北港製糖を三対二で合併し資本金一千万円、南靖、鳥樹林、北港、斗六、烏日、月眉の六工場を掩有し、台湾製糖に次ぐ我が国第二の尨然たる大会社となった。
 こうして東洋糖の社長下阪、専務は北港から入った松形五郎同じく取締役として金子の代理である藤田謙一に下の石川昌次、松方正熊で、金子は隠然とした元老格としてこの会社を牛耳り、販売を鈴木商店が一手に掌握することになった。これで金子は台湾糖業界で驚異の盛名を博した。
 東洋製糖は、北港、斗六の両者を併呑し、その後沖縄県大東島にも工場を設け、北海道にも甜菜糖業を計画するなど進取的な鈴木商店を背景として糖界で最も堅牢な存在のひとつとなった。その資本金も増資につぐ増資を行い昭和二年には三千六百二十五万円(払込二千二百円)という膨大なものとなった。しかし故あって社長下阪藤太郎は大正十一年に退いて相談役となり、代わってやはり台銀から理事で東京支店長をやっていた山成喬六が社長となり、専務には下阪の実弟である田村藤四郎が就任した。
 その東洋製糖は更に鈴木の没落とともに日糖と合併した。誠に因果はまわる小車である。往年の日糖事件の整理には鈴木が名声をあげ、実利を得て業界羨望の的となったが、今は鈴木の没落のために日糖は漁夫の利を得た。また、大東亜戦争の失敗に日糖は台湾の利権を全損した。我が日本もポツダム宣言により台湾の全土を一擲しなければならない破目に陥った。
 昭和二年の金融恐慌についで糖価は下落の一方をたどり、このまま放任しておけば林家の没落のために台銀に大穴があく危険があったので台銀幹部の頭から割り出され、濁水渓を隔てて一衣帯水の対岸虎尾区域を有する日糖に向かって話が開始された。日糖の金沢冬三郎は台銀理事川崎軍治としきりに往復交渉を行った。台銀ではこの他に明糖へも折衝し両天秤にかけて一円でも高い方に売るというケチな計画であった。そのようなところに現れたのが塩糖の槙である。彼も後藤伯に見込まれて男になった生一本の硬骨漢である。この点金子によく似ている。林本源はかつて金子が目をつけた所だ。ことに糖価下落の今日外糖依存ではやっていけない。この庶作区域を買おうと無理矢理にこれを買いたいと値段を構わず名乗って出たのである。塩水糖は資本金三百万円、借金五百万円の林本源製糖を、驚くなかれ、千四百五十万円で買収したのである。
 塩水港製糖会社が破綻したのは昭和二年一月で、林本源製糖会社を思い切った値段で買収合併し六月一日には増資を行ったが、実力以上の資金運営が祟り、これに加えて金融恐慌に逢着したためである。片岡蔵相の渡辺銀行破綻に関する有名な失言は三月末で、鈴木商店が不渡手形を出したのは神武天皇祭の翌日の四月四日である。すなわち塩水港製糖は林本源を合併して大いに糖界に雄飛しようとする真っ最中、鈴木破綻の痛棒をくったので塩糖が受けた打撃は一通りではなかった。
 かつて塩糖の千三百万円の社債を引き受ける時には、「俺によこせ我によこせ」「いや半分ずつだ」などと三井銀行の池田成彬と信託の米山梅吉とが喧嘩をしたほどの会社であった。しかし、こうなってみると一躍日本一のボロ会社と銘打たれてしまった。しかし六月一日に二千五百万円から五千八百万円増資払い込みをすることになっていたが、株価の惨落から増資不能という絶体絶命の窮境となった。それでもどうした関係か、鈴木商店関係の三千万円の方はなんとか四方八方から借り集めて片をつけたのは大出来だった。塩糖幹部も株の惨落にはホトホトさじを投げた。そこで数田専務が会社自ら自社株を買いにまわって空売り筋を庇古垂れさせようとしたが、これも全く功を奏しなかった。