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金子と台湾の製糖事業

 金子は台湾に目を着け、樟脳で志を得たのでその余勢を駆って台湾の砂糖について大いに望みを託した。その当時台湾銀行の頭取は豪宕一世を風靡した柳生一義であた。台湾銀行頭取は初代の福田寿一と二代の柳生は傑出していたが、それ以後は次第に下落の一途をたどり、大蔵省の役人の捨て場のようなところとなっていた。柳生は時の逓相床次竹次郎の金穴と噂されたが、立派な国士的なおもかげを持っていた。彼はその在任中糖界の評判男である石川昌次を手先に使って日支合併の製糖会社を福建省潮州地方に創建すべく詳細な調査を遂げさせたくらいの男で当時民間総督のニックネームを持っていた。この柳生頭取の時に林本源製糖株式会社というのが財政的に行き詰まった。この林本源は台湾の豪族で、かの馬関条約の時、清国全権李鴻章が、我が全権伊藤博文公に「林家は台湾の名族で由緒ある資産家であるから特別の保護をしてもらいたい」と頼んだくらいの家柄である。しかし、この製糖社長は林鶴寿、専務は林熊徴、林爾嘉、林景二ら大家族林一門の坊っちゃん連中で、成績は一向に上がらず左前になって身の振り方に困っていた。そこで金子直吉がこれを鈴木で買収してやってみようと申し出た。しかし、柳生は金子とソリが合わなかったので名家保存の意味を盾にして総督へ上申し、総督もこれを許さなかった。金子は「あーそー。それではこの方も止めるまで」と綺麗さっぱりあきらめた。その後会社の業績は一層悪くなるばかりで、台銀もこれを保護するために大きな特融をやったが到底回収はできなくなった。柳生も驚いて金子に会い、「君は前に望んでいたのだから今も引き受けてくれるか」と懇談した。しかし今度は金子がどうして冠を曲げたか、すっぱりと拒絶した。
 柳生の下で副頭取をやっていた下阪藤太郎(後に金子が牛耳った東洋製糖社長)と同じく、次の副頭取であった中川小十郎は、西園寺公に私淑していた男で金子とも親しくしていた。ことに中川は金子と同郷の土佐の生まれで濱口雄幸らとともに水魚の交わりをやっていた。ゆえに柳生、櫻井を経て中川が頭取となるに及んで後年(昭和二、三年の頃)天下を騒がせた鈴木と台銀の共倒れはこの時に端を発していたのである。
 台湾の樟脳のことは言わずもがな、砂糖のことについては金子はわずかにその片鱗を見せただけの男である。すなわち糖界の仕事は彼が活躍した仕事の中の十分の一くらいに過ぎないのであるが、その片鱗を見せただけで今更のごとく鈴木商店の金子直吉という男は実にえらい男だと思わせられる足跡がある。
 例の日糖事件で藤山雷太が日糖へ乗り込んだのは明治四十二年のことであるが、日糖は元来精製糖中心主義であったにもかかわらず、当時既に台湾の宝庫と称されていた台南州虎尾の区域に諸糖採集区域を有し、濁水渓以南の広漠とした沃野を我がものとしていた。虎尾渓と呼ぶ川がその地方を流れていたが、濁水渓の分流であるこの川は、嵎を拠る猛虎が尻尾を時々左右に動かすようにこの広い平野の上を時に右にまた時に左に好き勝手なところを流れて暴れまわっていた。そのためこの名がある。住民はもちろんしばしば洪水の危に遭ったが、ナイルの氾濫が世界でも有名な沃野をその河口に築いたと同様、濁水渓が運賃無料で運んできた天然肥料は長年の間にこの平野を十分に培った。それを農務省農商局長から入って日糖社長となった酒匂常昭博士が明治三十九年に獲得した。当時虎尾工場は二千トン工場という台湾未曾有の大計画であったから総督府もこの広い地域を日糖に与えた。
 しかしその後日糖は例の日糖事件を起こし、酒匂社長はピストル自殺を遂げた。藤山新社長は十か年間無配当の整理案を提げて鋭意堅実主義の経営を行うことになったので、虎尾には千トン工場が一つ出来ただけで、その後一向に二千トンに拡張しようとしない。総督府が「どうする、どうする」と催促してももっぱら羮に懲りて膾を吹き一向にらちがあかない。そこへ現れたのが金子直吉である。「しからば拙者が千トン工場を作りますから、虎尾平野の一角を頂戴致しとうござる」と申し出た。このところが天下一品の彼のお家芸でたちまち成功した。海辺の毎年季節風が吹きまわる北港の地域くらいは横取りされても構わないと思っていたが、北港も予期以上の成績を上げ、おまけに今度はやっぱりこの虎尾大平原の山手の一角を占める斗六の区域に能力五百トンの斗六製糖が許可された。いずれも大正元年の話で、資本金は北港・斗六ともに三百万円であった。
 北港製糖会社は台南州北港と台中州月眉とに工場を有し、その帷幄には前の商業会議所の会頭で後に遂に勅撰勲三等にまで経昇った藤田謙一などもその取締役となり金子のために命がけで働いた。後に金子の代理として東洋製糖の取締役になった。
 こうして日糖の台湾における唯一の牙城である虎尾区域は金子のために朝に一城を奪われ、夕に一塞を抜かれるという観を呈した。しかし驚くべきことにはその残された虎尾区域によって日糖は後に虎尾工場を当初約束の二千トンどころか三千五百トンにまで拡大させたが、なお工場能力の不足を感じているのだから、もってこの虎尾区域がいかに広大なものであったかを知ることができる。
 さてこの虎尾から地域を削りとって出来た斗六、北港の両会社は後年相躓いて下阪藤太郎の東洋製糖に合併された。