日露平和条約においていまだ樺太の授受が終わらない以前に、政府は軍艦春日を同島に派遣した際、鈴木商店店員田丸亭之助を長谷場純孝(後の文部大臣)の従者として便乗させ、樺太の概観的状態を視察させ、これを報告させた。
南樺太の収受を終え、平岡定太郎が、初代長官として樺太庁の開庁を見るや、時の総理大臣桂太郎、杉山茂丸、後藤新平の諸氏は金子直吉翁を招待して「樺太の開発を誤れば、単なる植民政策の失敗、否、国家の損失ばかりでなく、世界に対し日本の恥辱である」とし、同島の開発を委嘱慫慂した。
これは金子直吉翁が台湾の開発に貢献して不毛の地に新産業を起こし、台湾物産を世界市場に紹介した功績という前例があったからである。
そこで金子翁は小川徳長、浜田正稲の店員を派遣し、同島の未知資源の開発のため、明治四十二年実地調査をさせた。当時の調査によれば、全島は山林で満たされているが、材質不良のために木性酒精、ターペンタインの採取を着想し、これについて中川小十郎とともに店員佐藤保吉をロサンゼルスに派遣し調査を遂げ相当うるところもあった。しかし大蔵省の反対によって中止し、その他漁業、石炭は他にその人ありとしてこれに介入することを避けた。
ここにおいて樺太の開発は初代長官平岡定太郎よりその採集権を得、事後学者、技術者に委嘱し、金銭と人材を惜しまずその開発に努力した。しかし九十パーセントに近い水分の脱水は甚だ困難で容易に事業化の域には達せず、その間鈴木商店が支払い停止の止むなきにいたり一時中断した。しかしなお、研究を継続し遂にキルク板に匹敵するツンドラ人工保温板、および糖蜜に匹敵する粘結剤および豆炭の製造を連携的に製出する総合加工を完成し、昭和十四年四月、竹田儀一を社長とし、金子三次郎を専務として資本金百万円で樺太ツンドラ工業株式会社の創設を見るにいたった。昭和十八年五月、資本金四百万円に増資し、ツンドラ板年産三十万枚を生産し、日支事変勃発の経過に徴し、切実な要望を見るに至り、熱の絶縁および防音材として軍需用、冷蔵施設、建築用、保温材として江湖の高評を博し、金子翁想念の一部を具体化するに至った。将来狭い国土に貧しい資源で立ち上がろうとする時機を考慮し、昭和十六年、新たに横浜子安に研究所を設け、新たなるツンドラの利用と事業系統との研究が進められた。しかし、その主なものは左の通り、翁の着想と創意に示唆されたものである。すなわち、
加圧系 ツンドラ板、フェルト、テックス、畳、携帯燃料
単寧系 タンニン剤、糖結剤、豆炭、食料、飼料、中性粉末
紙料系 板紙の製造、煙草代用膨嵩料、煙膏
乾飴系 活性炭素、電極カーボン、酢酸、水素の採取および液化
翁が昭和十九年二月十六日付の鈴木正に寄せた書簡は、絶筆として右の事業化を懇切に説明している。その終焉の直前まで終生の事業としてツンドラの未利用資源の有用化を画し、三十有余年の想念と憧憬を抱きつつ、北方開拓史の中に幾多の示唆を残し忽焉として逝かれたのである。
(鈴木正氏稿の一部)
ツンドラや 神代乍らの 草の色 片水
ツンドラや 楔する野の 神々し 片水
その後、樺太を失い工場も取られたが、技術員一同は北海道で平塚常次郎の後援を得て工場を造り、ようやく生産するまでにこぎつけ、松井元並に本間勇児が引き受けてまさに生産経営しようとしており、金子翁のこの事業も北海道で発芽したことは何よりの幸いである。