翁は大正五年第一次欧州戦争時代に、幼少から手塩にかけた安藤珍成を新嘉城ーー孟買ーージャワへ派遣し、大正十二年までその地を根拠として貿易に鉱業に農産に海運に石油等、当時色々な仕事を視察させ、安藤が問い合わせ等の電報を打つとその都度立派な専門家を派遣して安藤を激励した。
しかしそれらはいずれも直接金儲けの仕事ではなくいずれも国家的な仕事で、非常に費用がかかり、今日では想像できない莫大なものであった。特にスマトラジャンビー州の石油鉱区の買収に関するロイヤルダッチシェルとの抗争、スマトラ煙草の買い付け、マレー東海岸トレンガノ州鉄鉱の買収、いずれも当時交渉は不成功に終わったが、その後これらの事業の一部は他の人々によって実現している。なおシンガポールのボーキサイトは日沙商会から輸入された。
当時の状況と今日のそれを比較するとつくづく人間の価値を疑うとともに、翁が超人間であったことを安藤が追懐している。当時の文献等も三十年の歳月の間に大分散逸したが、いまだ安藤の手元に残っているそうである。
翁の内地における事業はあらゆる方面にすべての産業を網羅していたという。その中に「共和レザー株式会社」という事業があった。それを計らずも原安三郎の勧めにより安藤珍成が偶然承継して十三年後の今日まで依然としてその仕事を続けている。