鈴木商店の満州部に酒井丑松がいて、大連出張所勤務主任は迫田彦助で、その下に幸松文太らも大いに働いた。その主なるものは満鉄石炭の一手販売、大連油房の買収、青島麦の買収等大きな問題であった。満鉄石炭は後に三井の安川の手に帰した。
燃料問題にも相当頭を使っていた。石油はないから酒精を代用してはどうだ、満州、支那、朝鮮にも輸出できる。原料は甘藷、糖蜜、朝鮮葦草からパルプを取る時の廃液や、樺太のツンドラ等からも沢山取れる。面白い仕事だ、やってみようと金子翁が始終口にしていた北海道羽幌炭山の石炭液化も晩年の試みで太陽産業の重要事業として着手し未だ完成を見なかったが、この炭鉱も最近発展の曙光が見えてきた。また鈴木商店としては石油業に対し帝国石油に内地油田の開発をやらせた。一時は秋田県道川油田に日産八百石の噴油を見るなど一時盛況を呈したが、これは中断し旭石油株式会社に合併した。同社は欧州戦後船鉄交換の際、日本としては初めて建造された九千トン型油槽船三隻を運営し、翁の大抱負であった満州大豆を欧州に輸送し、帰航は米国に立ち寄り鉱油を積んで徳山製油所および西戸崎ライジングサン石油会社の製油所を賃借し、その製品を鈴木商店で取り扱うという一貫した方針でやった。しかし丁度世界不況に際し業績が上がらず、整理のやむなき事情に立つに至った。その他満州では神戸製鋼所に委嘱して満州国政府と合併で石炭液化の研究を行い辻技師がこの衡にあたった。事業着手の上は神鋼が機械の注文をもらう事になっていた。