ページ

日本冶金株式会社

 次に鈴木商店が経営したものに日本冶金会社というのがあった。これはタングステン線およびモリブデン線を作る会社である。従来日本で需要のある電球はすべて米国のGE社が独占するところとなっていた。東京の近郊の川崎にある東京電気は日本の会社のようであるが、その実はGEの分身で、ここで製造されたマツダランプはすなわち、名こそ違うがおよそGE社の製品といって良い訳である。もちろんこの他にも小規模な電球製造工場はあるが、これらはいずれもフィラメントを輸入するか、またはその他の方法によってGEの特許権を侵害しつつ製造されたものに過ぎないので、もとよりその生産額は極めて少ない。多くは粗悪品で需要の範囲も極めて狭い方面に限られている。従って我が国の電球界は電灯の一つ一つに対して事実上米国に税金を払っているような状態である。それは日本ばかりでなく他の英仏等の諸国でも同様であって、ひっきょう電球を作るのに必要不可欠な線条の製造の技術が特許権のため、世界的にGEによって独占されていたからである。これは誰もが遺憾としていた。金子翁も、一日二十四時間のうち夜の十二時間に対して米国に税金を払っている現状に不満を感じていた一人であった。翁の考えを熟知している神戸製鋼所の技師依岡省輔は、ある時、翁に向かって「米国のインディペンデント社がフィラメントの製造の特許権を持っているから、この特許権を買って日本に工場を起こしてはいかが」と献策した。これを採用して成立したのが日本冶金である。
 当時(大正五年頃)の調べによると我が国における人口に対する電灯点数はわずかに二○%に過ぎない。これを英国の八○%に比べると四分の一である。それですら今日東京電気の米国における特許料支払いは年々何百万円という巨額に達している。電灯一個の寿命は一年二個であるという。これだけの数は否応なしに年々消費されていく一方、さらに山間僻地に至るまで年々点灯区域は広がるばかりで、今後この勢力で進むと我々が電球だけで米国に支払う金額は非常な巨額に達することになる。日本冶金はこれら米国系の電球を我が国から駆逐するのが第一の使命で、第二には太平洋沿岸、支那方面にまで販路を拡張しようとう抱負の下に始められたものである。しかし、創業間もなくインディペンデントGE社との間に特許権に関する訴訟が起こり、インディペンデント側が敗訴に帰したため、日本冶金の事業も一頓挫を来たそうとした。しかし京大中澤博士ならびに高弟岡田伝次学士等の研究によって、全くインディペンデントもしくはGEの製造方法とは異なった方法でフィラメントを製造することを発明し、その特許を得るに至り、我が国はGEの独占を離れて独立してフィラメントの製造をすることができるようになり、その製造した線条を各電球製造会社に供給するに至った。この会社は一時大正生命に担保として保持され、社長は田宮嘉右衛門であった。その後大正生命がGE系統の東芝に売却したが、更に持株委員会から現在は同社社員の手に移ろうとしている。会社は大里と京都にある。なお田宮氏が社長となってからは社内の改革により、社業発展の基礎を築き、戦時中の発展はめざましく、今はこの方面の最大工場となっている。