次に金子翁が着眼したのがファイバーの製造である。これは電気の絶縁、各種兵器の付属品、紡績用品、歯車等に必要不可欠なものであるが、それにもかかわらず今日までその製造方法が分からないため、常に米国から輸入されていた。そのようなわけで、これまた輸入防遏のために企てられた事業の一つで、株式会社日沙商会の一事業部門を構成していた。最初の社長は依岡省輔で、その後三井系の東京の同業会社と半々で合併し東洋ファイバーを造った。後にファイバー部門は分離され、日沙商会はボルネオのゴム栽培に専念し、依岡死後はボルネオ産業株式会社と改称し、西川玉之助社長が采配を振るった。しかし、第二次世界戦争よりこのボルネオ産業会社は全事業を失い、戦争中のボルネオ大活動の全滅全損に帰した。しかしこれも敗戦の結果で詮方ないことである。