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播磨・鳥羽造船所

 播磨造船所は、最初明治四十三、四年頃、土地の相生村の村長に唐畑という人がおり、この人が中心になって土地の繁栄のために有力者と相談して船渠会社を興そうとしていた。幸い相生港が良港であるというので、そこにドッグをこしらえて資本金五十万円の播磨船渠株式会社を創設したのが、その始めである。
 二十万円の払い込み金で七分通り完成したが金がなくなってしまった。「そんな訳はない、始めの計画と違う、また払込みをしなければならない」という訳で色々と問題があったが、結局工事の中止となり未完成のまま放置されていた。それを尼崎の土木請負業者で高橋為久という人が惜しいものだというので独力で継承し、三十八銀行、今の神戸銀行の神戸支店から、五万円から七万円の金を借りてとにかくもドックを完成させた。
 そこで営業を始めたが、根が土木業者であるから船主には関係がなく困った。その末、銀行に相談すると、銀行は船主に株をもってもらえば良いということになり、岡崎、八馬、辰馬ら阪神間の有力な船主を株主として残り三十万円の払込みをどうやら済ませ営業開始の端を開いた。ところが始めてみると大株主の船主が皆重役となっているため、せっかく修繕した船が入渠しても、やれ八馬の船はいくらでやったのに俺の方は高すぎるといった具合に工作料を値切られる方が激しく、結局船主の食い物になる始末で、経営が非常に困難になってしまった。
 しかしその内に欧州戦争が始まり船主連中はえらく儲かり各自がめいめい造船計画を始めた。ところが、播磨船渠株式会社は造船材料等の手当資金を要するためますます窮迫して困っている。そこへ三十八銀行神戸支店長が、「そもそも土木業者が造船事業をやるのは間違っている。誰かしっかりした人に事業をそっくり譲った方がよい」と言われ、金子翁に話がもって来られた。
 丁度欧州大戦が始まって造船熱が騰がりかけていた頃であったから、鈴木商店もストックボートを長崎造船所へ注文しているような際であった。金子翁は台湾にいた辻湊技師に「相談があるから急遽帰国せよ」との電報を打った。辻技師が帰ってくると、金子翁が「ボロ造船所を買いたいと思っているのだが、ひとつ君が行って見て来てくれ」と言うので行ってみると、設備万端粗末ではあるが場所と海があれば船は造れる。「この節のことであるから大丈夫」という見極めをつけてその旨報告した。「それならば買うことにしよう」と買い取ったのは確か大正五年三月頃であった。株を全部買収することになったが、一番面倒な船主連中の持ち株は高橋の方で一株三十円でまとめてもらい買収した。残り二百株ばかりは中々売ろうといわない。辻が交渉して少し高く一株三十五円くらい出してようやく全株を鈴木のものとしてここに鈴木の単独経営を始めたのである。
 それを資本金五十万円払い込み済みの株式会社播磨造船所と改名した。これが鈴木商店が造船所を経営した初めである。技術上、経営上のことは辻が部長となって鈴木商店造船部を創設した。
 買収当時造船所に二千トンと四千トンの貨物船の注文を受けていた。ところが値段が話にならないほど安いのでとても引き合わないから、多少値上げしてもらって完成した。その当時は相生村は一漁村で、宿屋は水月というのが一軒あるきりで、唐畑村長と持ち主の高橋為久と辻と三人でその宿屋で最初の会見を行った。その時も、宿屋の主人は何とか造船所をやってもらわないとこの宿屋も商売が立ち行かないと節に懇請した始末であった。前記の注文船の方は材料が買えないため手もつけておらず丁度その頃流行のトロール船の引き伸ばし(船を真ん中から二つに切り、その間へ船体を入れ再び継ぎ合わせて船の長さを大きくする)を二艘引き受けていた。鈴木の経営になってから二千トン級貨物船も損をしない程度に値上げして建造した。その後の四千トンの貨物船が播磨造船にとってはドル箱となった。すなわち同船の建造にとりかかって五分通り出来た頃、内田信也からその船を譲ってもらいたいとの申し出があり、百五十万円で契約した。実際は三十万円くらいで出来上がっていたので一挙に百万円ばかり儲かり、ドック買収費はいっぺんに浮いた。これに力を得て新企画に取り掛かり、一万トン級の船を作ることとし、材料はすべて鈴木商店鉄材部で買わせた。
 こうするうちに欧州戦争は段々たけなわになり各所に造船所が乱立される形成となったので、材料の手当難も一通りではなかった。時たまたま金子翁の民間外交で日米船鉄交換問題が成立したのでまた材料難が緩和され、造船界も大分楽に事業ができるようになった。この播磨造船で最初の一万トン級の貨物船が出来た。それは鈴木よね刀自の名前にちなんで「米丸」とつけた。これを造るには機械がないためボイラーのような腕づくで造り上げるという随分乱暴な作業を強行したものである。これについて一つの挿話がある。元来船のプロペラーはブロンズで造るのが一番良いのであるが、材料の関係から鋳鋼でも良いということになり神戸製鋼所へ注文したが遅れたため、クズ鉄製のプロペラで試運転をやってのけた。ところが大連から大豆か麦を積むのに既にこの船を配船計画の内に組み入れてしまい万端の手配を終えたため、どうしても回航しなければならず、米丸はヅタのプロペラをつけたまま出航してしまった。そうすると、インド洋で暴風雨に遭遇しプロペラを一枚折ってしまった。これが受け渡しの時に問題となり裁判までして長い間争ったが、遂に敗訴となった。
 大正九年第一次欧州大戦直後までは播磨造船所は船体だけを造り、神戸製鋼所は機械およびエンジンを造る分業的建前で経営していた。しかし、競争が激しくなるとエンジンと船が分かれていると不便であるし不利であるというので、神戸製鋼所の傘下に入りその造船部ということになった。
 その間一方において大正六年二月頃鳥羽造船所を建設した。これはもと安田鉄工所といって安田善次郎がやっていたのであるが、安田はこの種の事業から手を引くというので名古屋の紡績方面の財閥が安田から買収して経営していった。しかし、ドック仕事はどうも紡績屋には向かないというので鳥羽造船所の機械を外して名古屋へ持って行こうとしたところ、土地の人々が反対した。たまたま鈴木の松島誠が伊勢山田の出身であるので松島を通じて「金子さんに買収してもらえないか」との話を持ってきた。この時も辻技師が見に行ったが相当な機械がある割に値段も高くない。しかし買っても良いが造船所が発展するとなると、すぐ土地の者が色々と難題や寄付を強要する。それでは面白くないから、そのようなことは絶対になくすべて造船所に協力するということであれば買っても良いと交渉した。そうしたところ、町ではさっそく町会を開いて決議をしたが衆議一決はしなかった。しかしたまたま真珠で有名な御木本幸吉翁が相方に向かって自分に任せてくれと買って出て、松島も共に斡旋し町議も一決した。そのため、設備一切十二万五千円、内二万五千円だけ現金とし、後の十万円は十年賦ということにして買収した。
 そこで播磨は大型船、鳥羽は小型船の建造専門となり、播磨ではその造船能力は年約十万トン、鳥羽は三万トンで戦時中さかんに商船を造った。播磨造船所においては船鉄交換え米国にやった船の多くを造ったが、鳥羽造船所は専ら内地向けの船で、せいぜい三千五百トンまでの船を建造するかたわら電気機械の製造に乗り出した。現在では造船はやめて電気のみとなっており、第二次世界戦争中に山田、松坂にも電気関係の分工場をこしらえて大いに発展している。
 金子翁が前欧州大戦の時、船をやれば儲かるというので素早くこれらの造船所を手に入れ大いに当たった。これも翁の決断と果敢によるもので、その後、備後船渠、因島船渠などをも手中に納めて大いに役立った。その慧眼と実行力は阪神地方実業家の羨望の的であった。
(以上、辻湊氏談)