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朝鮮製紙株式会社

 金子翁はまた大正三年に朝鮮に朝鮮製紙会社を造った。それは寺内伯が朝鮮総督時代、翁が朝鮮に行って見ると、芦草が一面に繁茂したところがあり、朝鮮人はこれを薪にしたり敷物にしたりしていた。芦田と称してひとつの地目があるくらいだが、その芦田が多くの面積を取りながらほとんど利益をあげていない。たまたま寺内正篤という人がいて、これを製紙の原料にするという研究を進めていたがものにならなかった。翁は寺内伯に向かって「朝鮮にある葦草をみなわたしに頂戴したい。これを下さったならば朝鮮から相当立派なパルプや紙ができるようにしましょう」と言った。すると、「貴様なら多分成功するであろう。ではやろう」ということで、鴨緑江に六千町歩、今一箇所に千六百町歩の芦田を貸下げ名目でもらった。現在朝鮮製紙の工場は釜山付近の洛東江沿岸の亀浦邑にある千六百町歩の芦田から生ずる葦草を原料としてパルプの製造を開始したが、技術工程に種々の障害があって製品の完成は容易ではなかった。しかし百万円の試験費と十年の歳月を費やし、遂に輸入パルプの最高級品である英国の「エスパルト」に劣らない優良品の製造に成功した。これにより金子翁は微笑をもらしたが、その後パルプ工程を改めて製紙工場に改造しているところで鈴木商店の破綻に遭遇し、この偉業の承継は見なかった。これは惜しみても余りあるところである。
 当時翁の考えは、「今日材木を伐ってパルプを製造して紙をこしらえる。材木は伐るに従って生える。輪植輪伐法を行えば製紙の原料に困らないだけの計画は立つ。そしてこれを繰り返していくからいつまでたっても無尽蔵のようであるが、木が思うように育たないこともある。世界の製紙の原料は年々減少しつつある。現にノルウェー、スウェーデン、スカンジナビア半島のようなパルプの中心地にあっても段々材料が尽きて困っている。先年ビルマでは竹は年々たけのこが出て尽きないから、これをパルプの原料としたら良いという論文を発表して実行した人もいる。我が国でも台湾にある大竹やぶを原料として製紙をやったらよかろうという説があって、三菱の計画で台中に大きな製紙工場をこしらえたことがある。しかしこれは失敗に終わり、その機械を樺太に持って行って現在は樺太でパルプを製造している状態である。竹は失敗したが葦草は年々刈る程度繁殖する傾向があるから、手入れが行き届けば二千町歩くらいの芦田があれば製紙会社の一つくらいは維持できる。一反歩の葦草から製造された紙の価と、一反歩の甘藷園から取れる砂糖の値段とを比較するには甘藷一反歩から七十円見当であるが、芦田は約五十円ほどのものが取れる。しかし甘藷は耕作に肥料を必要とし運搬するのに必要なレールを引く資本を要する。一方、葦草は川端に生えて小舟で運搬でき、河水の氾濫によって肥料は自然に運ばれてくる。このような状態であるから、葦草耕作とこれを原料とする製紙工業を完成したなら紙の生産に対して非常に貢献するであろう」という説であった。