ページ

太陽曹達株式会社

 太陽曹達株式会社もまた第一時世界戦争中に翁が造った会社である。ヨーロッパ戦争が始まると同時に、それまで西洋から入っていたソーダ類の輸入が途絶したことを受け、時の農商務大臣仲小路廉は金子翁を招致して「ソーダの輸入が止まると、ガラス、製紙その他百般の工業は一大障害を受け、中には工場を休まなければならないものも出てくるかも知れない。何とかして日本でソーダをこしらえるわけにはいかないか。三菱の仕事で九州に一つ、大阪の岩井の仕事で周防の徳山に一つあるが、どうも成功していないので政府も当惑している」と話した。金子翁はその意を体して鈴木商店の磯辺信房に、当時来朝中のブラナーモンドの代表者に交渉させた。ブラナーモンドは世界のソーダ工業を一手に占める世界のソーダ王と言われる会社で、日本が輸入しているソーダはすべてこのブラナーモンドの製造にかかるものしかなかった。ところが、このブラナーモンドの工場はグラスゴーにあったため、戦争が始まると日本へ積み出すことができなくなってしまった。従って、ブラナーモンドも、うかうかすると日本の得意を失ってしまうと心配していた時であった。磯辺はその代表者に向かって、「この戦争はとても二年や三年では済むまい。むしろ東洋において鈴木商店と合弁でソーダ工場をこしらえてはどうか」というと、先方では「塩と石炭が安いところはどこかにあるのか」というので、磯辺はそれに対して、「鈴木商店は満州の租借地の塩田をことごとく一手に持っているから、恐らくは英国の塩と同一の値段で供給できよう。石炭は近くに撫順の石炭鉱があり安いものが使えるから満州に工場を建て貴国の技術で来てくれれば立派なソーダが出来るだろうと思う」と説明した。するとその代表者はたちどころにそれを承諾して契約書を作成した。その契約は「資本金六百万円とし、ブラナーモンドと鈴木商店とで株を半分ずつもって満州にソーダ工場を作ること、この契約はロンドンでブラナーモンドの重役会において可決した時に本契約の効力が発生する」ということで、その仮契約書をブラナーモンドの本店に送って重役会議にかけることになった。引き続いて磯辺も日本を発って英国に行くと、重役会でそれは否決されてしまった。なぜこれが否決されたかというと、仮契約を作る時は戦争はまだ盛んであったが、重役会議にかけたときには戦争はもうドイツの負けと決まり遠からず平和の時期が来ることが予想され、ブラナーモンドは東洋に自分の技術を送るのが嫌になったからである。
 磯辺はわざわざ英国まで出かけて行ってこの否決に逢いひどく失望した。ロンドンの高畑誠一支店長に相談すると、その時ロンドンにマガディソーダ会社というのが創立されていた。アフリカの東岸からアフリカの大陸を百里ほど入ったところにマガディという湖がある。その湖には三尺層くらいの天然のソーダがおよそ三十里にわたって一杯満たされている。これを世界に売り広める使命をもって生まれたのがマガディソーダ会社である。この会社はまた鈴木商店の取引先であるサミュエル商会の管理下にあった。そこでブラナーモンドとの交渉は不調に帰したから、「このマガディ会社の一手販売権を取ったらよかろう」ということでその申し込みをすると、先方も非常に喜び、「十二年間マガディソーダ会社は原価で毎年十万トンずつ売り渡す。鈴木商店はまた別個の専門の販売会社をこしらえて、独立した計算の下にこれを販売しその利益をマガディ会社に渡す」という契約を締結し磯辺は日本へ帰った。この契約に基づいてそのソーダ販売会社として創立したのがすなわち太陽曹達会社である。太陽曹達会社がこれを売り広めたのが大正九年であった。当時競争者のブラナーモンドは百ポンド六円五十銭の割合で日本に売っていたが、太陽曹達は百ポンド六円の割合で売り出し、たちまち激烈な競争を惹き起こし、結局大正九年より十三年の間に二円六十銭まで値段を競り下げてしまった。それは単にブラナーモンドとマガチとが日本で競争したと考えることもできるが、日本のガラス、製紙、ビール、その他各種のソーダを原料とする工業も非常な利益をもたらすこととなった。
 しかしブラナーモンドは窮余の一策として英国においてマガチソーダ株の過半を買い占め、ついにマガチを自己の管理下に属させるに至った。しかし太陽曹達の一手販売権はブ社と協定しており、このために少しも侵害されることはなく日本にマガチソーダを供給することができた。当時、小川実三郎が常務で経営を続け販売の衡に当たっていた。昭和二年鈴木破綻後小川が衝に当たり、高畑、永井、北浜諸氏の保証で正金からこの株を買い戻した。金子翁はこの会社を持ち株会社にして鈴木の諸会社の株をこれに所持させて今日に至っている。