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豊年製油株式会社

 豊年製油株式会社も金子翁が創立したものの一つで、資本金一千万円でこれは鈴木系の人が社長および重役であったが、後の日銀の井上総裁ならびに森台銀頭取の頃から杉山金太郎が社長になった。この会社の由来は、従来マメもしくはナタネから油を製造するにあたってこれらを圧搾して油を絞りだすが、粕の中にはなお多量の油分が残存し、油がとれる歩合はそれだけ少なくなってしまう。またそれだけでなく、油分が残留しているため肥料としての効果も減殺されるという欠点があった。よってこれを滲出させて油をとるということが学者の実験には上がっていたが、工業としてこれを実施するまでには至っていなかった。翁は、つとにこれに着眼し明治四十年ごろから安倍元松を主任としてその工業化に努力していたが、実験室では成績が良いが、大規模にするとどうも上手くいかないので、一時放擲の姿であった。しかし前欧州大戦が始まる少し前に、人を大連に派遣し調査させると、満鉄が満州の特産である大豆工業の将来を考え、当時ドイツにおいて行われつつあった「ベンジン抽出法」の特許権を購入し、大連市外寺見溝に工場を建設し将来一大工業として世界的に飛躍しようと企て、大いにその企業価値を研鑽中であることがわかった。
 翁は人を大連に派してその工場の作業状態を見るようにさせたところ、いかにもよく出来てほとんど間然するところがなかった。これにより圧搾法による従来の製油事業は、このベンジン抽出法によって駆逐されるものと思い、当時の満鉄総裁中村是公に面談の時大成功であると喜びを述べると、中村総裁は自分も大成功であると思っているが、大連にいる商人も工業化も皆満鉄は無駄な金を使っていると言って非難するのみで、実は甚だ持て余している。褒めてくれるのは君独りだ。望みとあらば売ろうかと言われたので、大正五年万鉄から寺児溝の大連油房の工場を譲り受けた。大連油房譲り受けの条件は満鉄は製油の技術および特許権を鈴木商店以外には何人にも売らない、その代わり鈴木商店は日本の各地になお二三箇所に工場をこしらえてこの仕事を国家的大事業に育て上げる義務を負うという約束であった。鈴木商店は右の約束に基づき、横浜、清水港、鳴尾の三箇所に工場を建設し、大正十一年頃一日八百トンないし千トンのマメをつぶして製油業と製肥業とを行った。すなわち従来の圧搾法においては九%ないし十%程度しか採れなかった油がこの方法では十五%ないし十七%という好成績を示し、これによって得た油はその一部分が内地の食料油となり天ぷら、ガンモドキ等はもちろん一般料理の材料となり国民の保健食品として重宝がられ、残りは海外に輸出され、残余の油カスはそれだけ低廉に肥料として一般農家に安く供給することができたのである。当時我が国における食油と肥料の状況を見ると、肥料においては金肥の消費が年一億一千五百万円で、この内大豆粕の輸入額は三千二三百万円の巨額に達していた。そのため、これが輸入の防遏は我が国の国際貸借改善の上にも大いに役立つので、農業の助成発達の上にもゆるがせにすべきものではなかった。しかも油脂工業としても未だ揺籃期であり、わずかにナタネ油を中心として各種の植物油が食用、灯明用が主でその他わずかに工業用方面に利用されつつあったので欧米の発達した油脂工業に比べると著しく立ち遅れの姿であった。従って我が国の大豆油工業の抽出式採油法は前人未到の域にあり、これが経営上容易に採算がとれず多分の危険性をもった事業であった。しかし鈴木商店はこれら幾多もの艱難を排し、あえて自らこの経営に乗り出したのは、単に営利観念のみにでたのではなく、実にこの国家的重大意義の下に策を永遠に建てて発足したのである。
 しかし大正三年第一時欧州戦乱の勃発により世界の経済界は俄然大変動を来たし、我が国の油脂工業界も一大衝動を受けるにいたり、各国の植物油欠乏はその極みに達し、満州における大豆油は各国より注文殺到のためかにわかに大活況を呈し、ここに我が油脂界は飛躍的発展の機運に恵まれたのである。こうして鈴木商店製油部はこの機に乗じ、大連工場の能力を拡張して従来の原料一日の使用能力百トンを二百五十トンとし、さらに大正六年静岡県清水港に、五百トン能力の工場を建設し同七年鳴尾、横浜に能力各二百五十トンの工場を建設し、これで本邦最大の製油工場とし往年の雄図を実現したのである。
 しかし、大正七年十一月平和条約が締結されたため、大戦後半から好況に酔った我経済界は遂に逆転して随所に巻き起こる恐慌の大旋風が各方面で倒産破産の悲劇を生み、鈴木商店も漸次整理のやむなきに至った。その事業も本店から分離して独立自営させることとなり、大正十一年四月この製油事業を資本金一千万円の豊年製油株式会社に移し、柳田富士松を社長とし、取締役は妹尾清助、森衆郎、永井幸太郎、村橋素吉、谷治之助、戸坂隆吉の諸氏で、監査役は日野誠義、松原清三の両氏、高級社員には後藤伯の甥である後藤幹夫君でいずれも鈴木商店生え抜きのお歴々である。
 しかしこの会社を大正十二年十二月台湾銀行幹部の命令と大蔵大臣井上準之助の口入りで一時鈴木の経営から手放さなければならないことになった。これを手放すことは金子翁が精励心血を注ぎ大いに将来を翅望してこしらえた会社だけに翁はもちろん鈴木一党の愛惜おく能わざる痛恨事であったことと思われる。しかし台銀の負債さえ返却すればまた鈴木の手に戻るというので、その経営を一時杉山金太郎一派に任せることになった。そして該会社はその後ますます拡充発展して、今日東洋随一の油脂会社として日本に重きをなして栄えていることは、金子翁としても地下に冥することができると思う。