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合同油脂

 合同油脂は人造絹糸における久村清太、秦逸三の場合と同じく、久保田四郎を採用してこれに研究を行わせたことに端を発している。久保田は大正元年大学を出ると、まもなく鈴木商店に就職を依頼してきた。金子翁が彼に会って「大学では何を専門として研究したか」と聞くと、「油脂類をやっていた」という。これよりも前、鈴木商店では北海道の魚油や鯨油をドイツのイリス商会に売り、イリス商会はそれを本国に送っていた。しかしその価は百斤が六、七円、高くて十円程度の安価なものであった。しかし、これをイリス商会以外に売るとイリス商会では目を丸くして怒る。その怒り具合をみると、「これに何らかの加工を施し、これを高く売って非常に儲けているのだ」と、かねて金子翁は感じていた。そこで翁は久保田に向かって、「それでは鈴木商店の魚油部に来て実験をやって貰いたい。魚油の商売の状態を見ると、値段は安いにもかかわらずドイツ人が非常に注意していることを考えるなら、君などが研究をしてくれれば何かその内から値段が高いものが得られ、日本の国家のためにもなるだろう」と言ってその研究を激励した。そして第一に発見したのが抹香鯨の脳油を分解して魚臘を取ることであった。この魚臘から製造されたロウソクは高価なもので、西洋の高貴な宴会には必ずこれが用いられるということが分かった。それと同時に、臘を抜いた後の脳油は遠心分離器を回転させるのに必要な機械油で、英国から南洋の鯨脳油と称して大変高い値段で日本にも売り込まれていることが分かった。ここで初めて久保田を雇い入れた第一の目的が達成された。
 その後また久保田は金子翁のところに来て、「西洋ではイワシやニシンの油に水素を添加して臘の状態に変化させる発明があり、これを石鹸にしたり、ロウソクにしたり、その副産物としてグリセリン、オレイン油などをとって、大変金を儲けている」という報告を行った。これを聞いた翁はかねて自分も不思議に思っていたイリス商会の態度が読めたので、久保田に「是非この方面の研究を進め、安い魚油は外国に輸出せず、日本でも石鹸やグリセリンのようなものに精製して輸出するように」とその研究を命じた。久保田はその後もまた再び来て、「農商務省の水産講習所で魚油に水素を添加してロウをつくる試験が完成したというから、これから上京して調べてきたい」と告げ、まもなく帰って水産試験所で試験をしたという茶碗大の蝋を持ち帰った。それを見た金子翁は一種異様の感に打たれた。自分が積年考えていた希望がなかば達せられたように思ったが、しかしこの研究を完成させるにはまず第一に水素をこしらえなければならない。水素をこしらえるにはまず水を電気分解して水素と酸素とを分かつ必要がある。そのためとりあえず水素製造所を神戸製鋼所内に設け、村橋素吉を主任とし、久保田を始め磯部、二階堂、小川等七、八名の工学士を技師としてその研究に着手させた。当時あたかも酸素の需要が起こっていた時であったから、酸素は鋼の溶接用に売却し、水素で硬化油をこしらえて、水素の製造には大きな便益を得て大いに研究が進歩した。しかし、硬化油の製造は小規模の試験では訳もなく出来たが、大規模に一度に二十トン、三十トンの大量製造となると中々意のままにはいかなかった。副産物のグリセリンも思うように技術は進歩しなかった。そのうち第一時欧州大戦となり硬化油の需要が盛んになると、グリセリンは火薬を製造する必要からにわかに需要が勃興した。こうしてようやく大正六年に至ってすべての技術が進歩し、まず技術的な完成を見たことから、主工場を兵庫に、分工場を王子と程ヶ谷に造った。石鹸、グリセリン、ロウソク等の製造に着目し、一面また豪州から入っていた牛臘の輸入を防遏することができた。これより前、戦争中政府が八分の配当を保証して設立した大日本グリセリン会社というのが大阪にあったがその成績は面白くなく、鈴木商店の油脂工業と合併交渉が行われた。
 その結果として成立したのが合同油脂である。この合同油脂会社は事業としては必ずしも大きなものではなかったが、従来日本においてできなかったグリセリンおよびオレイン油を製造する技術を完成させ、および魚油を硬化油という蝋の状態にして一つの商品にし、化学的貢献を行った。それだけでなく液体油輸送上の浸漏防止と簡易化を実現したので第一時大戦中から多量の硬化油の輸出を行った。この会社も鈴木破綻後は、田中栄八郎が社長で二神駿吉が専務、石川一郎が常務となり今日は日産化学の一部を構成している。