鈴木商店店員の角帯前垂掛時代の末期までの営業種目といえば、砂糖、樟脳、小麦粉、ハッカであった。ハッカに目をつけたのはもちろん金子である。彼は鈴木入店当時ドイツ人経営のラスベ商会に樟脳を売りに行ったところ、あまり外交が上手でなかったのか風采がよくなかったのか、樟脳という商品に希望がなかったのか、金子に対してもうお前に用事がないから来るなと言って彼を戸外に押し出した。彼もどうかしてこの商館と商いをしたいと、同商館の小遣いに何を持ってきたら商いできるか聞いた。すると、今商会ではハッカを欲しがっていると聞いたので、彼は早速我が国の特産品であるハッカを調べて商売を開始した。やってみるとハッカは幅がある商売で有利であることもわかり、相当の業績も上げたので、明治三十五年雲井通りにハッカ製造工場を新設し長下某にこれを担当させた。これが鈴木が工場を持った最初の試みだったとのことである。ハッカの生産数量は定まっていて、日本では三陸地方と北海道、海外ではアメリカの中部諸州である。作柄の出来不出来があるので相場にも著しい相違がある。安い時に買っておいて持っているといつかは二倍にも三倍にも、時によっては五倍にも騰がることもある。当時ハッカで大儲けをした人はザラにいた。しかしその後北海道で農産組合が出来て直接売買をやりだしたので大分商売の味は悪くなってきたが、内地では彼は徹頭徹尾やり通したためにほとんど専売的な仕事になった。たまたま横浜に小林常三郎という強敵が現れたがそれとも競争し、後に西川源蔵をアメリカに派遣しハッカに関する綿密な情報を聞いて万全に備えた。そのうちにハッカの製造と輸出に興味を持ち明治三十六年に神戸市磯上通四丁目にハッカ工場を新設拡張し年を追うに従いその取り扱い数量は増加し、欧米、インドを始め世界市場に鈴木ブランドのハッカが行き届かないところはなく、また鈴木ブランドは品質優良でついに特等品扱いを受け、海外からの注文は激増した。日本のハッカ製造業者は六軒あったが鈴木商店の取り扱い高は実に日本で生産される数量の五割を取り扱い得るまでに発展し、外貨獲得にも大いに貢献した。そのようなこともあり、日本の生産も年々増加することになった。昭和二年鈴木商店が整理された際に鈴木薄荷会社を設立しこの事業を承継させた。
昭和二年度および昭和三年度は本邦生産の二割ずつを取り扱ったが、昭和四年度は速くもその四割を取り扱うまで復活した。この間、金子翁への声援は多大なものであった。なお昭和十八年政府の方針で同業者六軒がハッカ製造部門を合併することになり、その時鈴木ハッカ工場のみが残存工場として残され、他の工場は更生金庫が買い上げることとなった。
その後不幸にして戦災で全焼したが現在は小規模ながら工場を建設し復興しつつある。