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東亜煙草について

 金子は常に独占事業が好きであった。砂糖、樟脳、ハッカ、タバコ等すべて専売式である。これで妙味を味わったので非常に後口を引いた。濱口雄幸が専売局長官時代に東亜煙草ができた。明治四十年頃ブリッシュ、アメリカン、ユーピー、トラスト、ブリストカンパニー、アメリカンカンパニーが満州から支那南洋に進出して大競争を演じ双方ともへとへとになるまで販売戦をやって共倒れになり、ブリッシュアメリカンカンパニーに他の欧米のカンパニーはまたたく間に満州から支那まで駆逐されてしまった。歴史を金子はよく知っていた。日本では煙草は専売だから海外発展は望めない。そこで彼は東亜煙草を造ってブリッシュアメリカンカンパニーに対抗しなければならないと濱口を動かして東亜煙草をつくり、朝鮮の煙草についても権利を確保し満州において英米トラストを駆逐する大使命と大抱負のもとに努力した。しかし内地のモノポリのために満州支那南洋へはわずかに二百万円くらいしか出なかった。もし煙草が民営であったら生糸綿糸同様に、あるいはもっと発展していたかも知れなかった。しかし金子の所論は、貿易品は販路の基礎を半分は内地に持ち、他の半分は海外に売れる商品でなければ成り立たないと言うものである。たとえば綿でも生糸でも砂糖でもそうである。海外の販路だけに頼っていると、一朝外交関係の悪化、あるいは戦争、動乱などが起きるといつその商社が全滅するか分からない。しかし内地に向く商品であったらそんな時に商品を内地に振り向けて商売をして保って行ける。煙草は内地で不況の時は東亜へ出て行き、東亜が盛んになって競争に耐えられない時は内地でやっていればよいと解いたので、濱口もその理屈を取り上げて「よかろう」といい東亜煙草会社が生まれたのである。
 しかしその時濱口長官は「なるほど金子さんのおっしゃるとおり、煙草は東亜のどこにも日本の輸出先がないら、これはどうしてもやらなければならない。同時にブリッシュアメリカンカンパニーを打破しなければならない。専売局からは許可をしてやる。しかしそれには資本がいるぞ!資本は君の手でやれ。政府は無論援助はするが政府にも予算があることだから、そうどんどん出せるものではない。資本を集める考えを持たなければならない」。その資本は何によって賄うかについて盛んに両人の間で議論が戦わされた。その結果濱口は「保険会社に集まった金を使ったらどうか。嫌かは知らないが保険を国家的仕事と思ってやれ」と言ったので金子もなるほどと頷いたそうである。
 世の中に金子ほど保険が嫌いな人はなかった。それは恬淡寡欲で子孫のために美田は買わずという流儀だから生命保険のことなど全く眼中になく、あれほど博識多才の人ではあるが、保険事業にはなんの興味もなくまた研究もしなかった。この煙草事業で濱口に初めて保険のことを解かれて全く心底から感心し、早速太陽生命の大株主になって鈴木商店から藤田謙一、桂次郎を入社させ、次いで金光庸夫らに第一に研究にやり、後に大正生命などを起こさせ、続いて第二に火災保険、第三に教育保険などを目論んだ。後に金子は人に「濱口さんはさすが大蔵大臣だけあって、保険会社をこしらえて金を集めるなどということはわしより上だ」と大笑いした。