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日本商業の創立と海外発展

 大日本製糖の債権者会議が済んで半年も経ったころ、たまたま丁稚の頃から懇意にしていたドイツ人のポップという男がラスペという人(元ラスペ商会の組合員で、ポップと一緒にラスペ商会を経営していた人)と一緒に突然鈴木商店を訪ねて来た。来訪の目的は今度ラスペ商会を解散してポップは郷国ドイツに帰ることになったが、長年神戸で商売をやってきたのだから、知人も得意先も多少あるので引き続き日本に留まって誰かと一緒に商売をやってみたいと金子を訪問した。
「金子さん、お店で私を利用して何かお役に立ちませんか。私はこれまで色々商売をやってみたが一つも成功しない。そこで本国へ帰ろうと思ったが、また考え直してみると私は最初長崎で商売し、その後神戸へ来て商いをしたが、今から考えると日本人と共同で商売をやらなかったのが成功しなかった原因だと思う。日本の商人は全く見当がつかない。この人はと思って信用して取引すると、ひょっこり騙される。そうかと思うと用心して取引していたような人がだんだんと成功してくる。つまり日本人の心を忖度することができなかった。これが私の成功しなかった原因だから、今度は一つ日本人と一緒に商売をやってみたい」
と言った。そこで金子はポップに「ではポップ商会としてやるのか、または鈴木商店に入るのか」と聞くと、ポップは「あなたの店の番頭になってもよい。自分は商売さえすればよいのだ」というのでポップが鈴木商店に入った。これまでラスペ商会でポップがやっていたことを鈴木商店でやることに話がまとまった。
 ところがポップを入れてみると商館番頭を使ってやっていたポップのやり口と丁稚上がりを使っている鈴木商店とでは人の気持ちが違い、うまくそりが合って行かなかった。
 そこで別に日本商業株式会社を創立して、ポップを社長とし井田亦吉を専務として輸出はポップ、輸入は井田にさせ衡に当たらせることとし、ポップを一度帰港させ、インド洋を経てボンベイ、カルカッタ、地中海沿岸の都市、フランス、ロンドン等の各地を回らせ、商況を探らせ、さらに本国ドイツに行かせ、途々販路を開拓させたりなどしてしばらくやって見た。最初は多少成績も上がったが、結局合併事業がうまく行かないのと人身の一致を欠き、日々衝突が絶えなかったので、相談の結果ポップは退社させ国へ帰し、日本商業は直接鈴木商店の手でこれを経営することになった。
 これまで金子の経営方針は一時に多くの仕事に手を広げず、極めて徐々に一二の例外を除き、一つの商売をやり始めると、まとまった利益があがるまでは次の商売に移らない。一つ一つ営業成績を上げて、またその次に進むという手堅いやり方であった。しかしポップを追い出してみると、日本商業株式会社は正面鈴木商店とは別個のものとはいえ、事実は一体をなすものであり、日本商業の仕事も鈴木商店においてこれを経営する他なかった。それまでは鈴木商店の商売は、砂糖、樟脳、ハッカその他二三の輸出品にとどまっていたが、今では日本商業を引き受けた結果、やむを得ずやりだしたのではあるが、外部から見れば鈴木商店がにわかに八方に手を広げてきたものとしか思われなかった。
 その上、商売が大きくなるにつれて従来は定期船の利用で間にあっていた鈴木商店も、チャーター船を使い、ついで自分で船を持たないと都合が悪いということになった。それも外国船を買い入れて日本船籍に登録するには輸入税がかかるというので、大連に名義だけの汽船会社を置き、海運業を経営することになった。その頃の鈴木商店の持ち船は三、四万トンであったが、これだけでも当時では相当大きな活動であった。
 前述のような経緯で、明治四十二年頃から大正元年へと推移し鈴木商店の手は四方に延びた。その間明治天皇が崩御され諒闇の世の中となり財界は極度の不景気に襲われた。この時鈴木商店の事業は従来の固有の貿易の他に、日本商業の事業と汽船会社とを直営し、関係の会社には九州に帝国ビール、台湾に東洋製糖、東京に東京毛織の前進の後藤毛織その他なお四、五の直営会社を持っていた。これだけの事業を控えてこの不景気時代を乗り切ろうとするには急に発展しただけ基礎も確定しておらず容易ではなかった。したがって、金融界からも警戒され、経営には一層骨が折れた。