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戦時海上保険補償令を発布させる

 その上、大正三年には北浜銀行の問題が勃発して世間の景気はますます悪くなる一方で、さすがの金子もさんざんの苦しみをなめた。当時また海の外では世界戦争がいよいよ始まるというので「鈴木商店の銅、ハッカ、樟脳等を積載して欧州に向かった平野丸の積み荷に対して戦時保険をつけなければビルを買わない。また一度買ったものを戻すから現金を返せ」という厳重な交渉が銀行方面から来るという騒ぎだった。保険会社にかけ合うと一割の保険料をよこせという。この時は鈴木商店のみでなくどの貿易業者も非常に弱って保険を付す者は一人もなく、ハッカは香港、上海等で荷揚げする騒ぎで、平野丸の積み荷にはさすがの氏も処置に窮した。結局行けるところまでやる方針でシンガポールまでは無保険、その先は一部シンガポールに荷揚げをし、やむを得ないものだけは保険を付し、この方はどうにか片をつけた。このような状態で貿易は一時混乱状態を呈し金融は全く途絶した。荷物は山のように波止場に積まれてもこれを動かすことができなかった。一方また欧州に向かった船はドイツの軍艦に拿捕され、または撃沈されるのでインド洋から行くものは中立国の港に避難し、先方から来るものはハンブルクの港に抑留されるという、前途まことに暗澹たるもので、貿易業者や海運業者は手も足も出ず困り果てていた。そこで金子は同士を糾合してしきりにその対策を政府に陳情した。
  政府もこうなっては捨てておくわけにも行かないので、とりあえず興銀に五百万円、正金にも相当の準備金を出させ保険会社に緊急勅令で戦時海上保険補償令を発布することになった。そこでようやく輸出も幾分順調になり金融の途もつき、滞貨の動きも次第に良くなった。この戦時海上保険補償令を発布させた金子の努力と功労を我が経済界は忘れてはならない。