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日米船鉄交換問題

 金子氏が日本の実業家として最初に名を成したのは大里製糖所を設けたことである。第二は一世を驚愕させた日糖事件で、「ここに日本の金子直吉あり」と非常な声明を博して男を売った。第三に、金子という人はえらい人だと世界的に知られたのは、大正七年の日米船鉄交換問題の成立である。モリス大使と交渉した金子の態度が実に鮮やかで、言葉は非常に簡潔であった。外務省が交渉してもまとまらず、逓信省が引き受けてやってみても失敗し、浅野総一郎がやってもうまく行かず、結局金子独特の民間外交で見事に成功したのである。
  氏が鉄と船との大思惑で四年、五年も続いて順風に帆を掲げて大いに当たっていると、英国政府はにわかに鉄の海外輸出を禁止した。このため我が国の造船業者、鉄工業者はもちろん氏も大いに狼狽して相棒の松方幸次郎その他多数同業者と合同し鉄解禁同盟会を組織し、大いに世論を喚起して外務省に押しかけ、出先大使に鉄の輸出解禁の交渉を頼んだ。それと同時に氏は国民世論の反映を英国政府当路に訴え大いに尽力した。それによって幸いに効を奏し、英国政府は鉄の輸出禁止を解いた。一同蘇生の思いをしていると、英国はまた造船その他に対し直接戦争に関係あるものを先にし、そうでないものを後にするという鉄の需要先に順位をつけた。結局日本への輸出は第三位となり輸出禁止と同様の結果となった。そこでやむを得ず米国の鉄のみで需要に応じていると、大正六年八月に至って米国もまた鉄の輸出禁止を行った。この時鈴木商店は約一億円の鉄材買い付けをやっていたのでその打撃は大変なものであった。ひとり鈴木商店のみならず各造船業者はもちろん鉄鋼商工業一般が一大痛撃をうけた。そこでこれまであまり世間に顔を出さなかった氏も神戸オリエンタルホテルに多数同業者を集めて米国の鉄解禁同盟会を組織し、自ら委員長を買って出て活動を開始した。大いに世論を喚起して米国政府を動かし、鉄の輸出解禁を実行させようと、まず神戸に市民大会を開いて反対決議を行った。全国の商業会議所に反対の決議をさせ、大学の学者や郷男爵や文豪徳富蘇峯などを動かし、あらゆる手段を講じた。それとともに、遥か米国の大統領に電報を発した。しかし何の反響もなかった。それもそのはず日本帝国の外務大臣が話をしてもまとまらないものを下々の平民などに何が出来るものか。時々刻々鉄材不足の度を加えて作業に差し支えが生じ、ことに神戸のような鉄工業中心地では失業者を出して思想険悪に導かんとする恐れもあり、為政者も非常に心配していた。一方全国の商業会議所や民間の鉄関係の団体が打って一丸となり、せっせと外務省に押しかけ陳情に必死であった。外務省もいたたまれず意を決して米国政府へ強硬に交渉することになった。その結果、第一次の交渉がワシントンで行れた。しかしこれは失敗に帰した。そのうち六年十二月に米国大使ローランド・モリス氏が新たに日本に赴任したので浅野総一郎翁が談判した。しかしこれも不成功に帰した。次いで外務省と逓信省とが連合で大使に船鉄問題で数回交渉を重ねたが、これもまた結局不成功に終わった。
  金子は、モリスがワシントンで弁護士や破産管財人などをしていた法律家で立派なジェントルマンであるということを、この運動に関連して米国に行って帰社した鈴木の店員から聞いていた。そこでひそかに思うに、「世界を股にかけてあっちこっちを飛んで歩く古手の外交官なら食えないが、破産管財人までやった男なら純真な点もあろう。ひとつ誠意を披瀝して一切の事情を訴えて頼んだなら必ず成功するであろう」と信じ、自ら乗り出して行き七年二月、内務大臣後藤新平伯の紹介状をもらい、英語に堪能な頭本元貞(ジャパンタイムズ)という通訳と長崎英造(現在の産業復興公団総裁)、石橋為之助(後の神戸市長)、西川玉之助(元関西学院教頭、後の鈴木商店員)、南治之助、荒木忠雄、浅野良三(造船方面の知識と語学堪能を頼みに)らの精鋭を従えて米国大使館に赴き、金子一世一代の大芝居である船鉄交換の商議について大談判を開始することになった。
  その談判にも中々紆余曲折があって一朝に書き尽くすことはできないが、金子は簡潔に鉄不足に基づく国内工業の休業状態を説き、労働者の失業状態から思想嫌悪の危機を語った。「なお日本が国際連合国の一員としての責任上、船腹供給の義務を果たすには是非とも貴国から鉄材を供給してもらなわなければならない。そしてお互いに有無相通じて世界の平和に貢献したい」と熱誠面に溢れ、富婁那の雄弁をふるって説き去り説き来るのであった。純粋な米国紳士であったモリスも金子の誠意にはそぞろに動かされたのであるが、そう簡単には応諾の色を見せなかった。ところが金子はこの談判開始に当たって自己の店員および外交関係者から相当有力な情報を尽く収集していた。米国政府がモリス大使に出している訓電も略々想像ができるので、こちらからは先方の持っている限度すれすれにおよそ内側の条件を決めて、そのオファーを提示した。モリスは怒ってこんなことが出来るものかと言う。こちらも怒られるのは覚悟の上だが、続いて慇懃懇切に交渉を続け最後に「それでは一つカウンターオファーをいただきたい」と謹んで申し出た。そうするとモリスは書記官を呼んでカウンターオファーのタイプに打ったものを持ってきた。すなわち彼の有している権限の最大限のものだった。それから数次応酬した後こちらがそれに署名し、先方において一通をこちらに持って帰った。それを要約すると、米国から鉄材を受け取り、日本はその三分の二に相当するトン数の船腹米国へ提供するが、その代わりに残余の資材は日本の需要に使用するという条件で、百パーセントの成功を博したものであった。しかし、米国は世論の国である。国民の世論がやかましくなりこの協約が覆るようになっては困るというので、氏はモリス大使に対し民間の保証を要求した。モリスはすこし首を傾げたが氏の熱意に動かされ、前例はないが民間外交家の金子の主張ももっともであると、直ちに本国政府に電請しその許可を得、後日ナショナルシティーバンクに本協約の保証を行わせた。こうして長い間日米間の懸案であったものがわずか一時間余りでこの重大問題は無事に解決したのである。これが当時やかましく言われた日米船鉄交換問題である。
 なにゆえ氏が官民共に手を焼いたこの難問題を苦もなく解決したかというと、氏は神戸の居留地で丁稚小僧をして育ち、世界中の人間の気質をよく知っていたからである。英国人であればロンドンから、ドイツ人であればベルリンから、米国人であればニューヨークまたはワシントンからまっすぐに日本に来た人に対しては紳士的に何もかも正直に交渉すれば必ず成功するが、もし先方がボンベイ、カルカッタ、アフリカ、上海、天津、インド、バルカン半島、黒海沿岸などの半開国をわたり歩いて来た人だと、すれっからしだから中々駆け引きがいるし、人情味がないと判断をしていた。こういう気持ちが氏の外人観で、「モリス氏の口説き落としに成功したのもこの駆け引きなしに正直に心情を吐露して交渉したためである」と氏自身も言っていた。この百パーセントの大成功を収めた裏面には柏万次郎という鈴木の米国詰めの人材がいた。彼は子供の時から長い間米国に住んでいて、かの地の各階層に多くの知己を得ており、大使に対する訓電を想像しこれを情報として金子に提供していたのである。
  日米船鉄交換問題成立の後、米国船舶局長代理サンフランシスコ商業会議所会頭ならびに同地ユニオン造船所長マグレガーと交渉して播磨造船所をはじめ、日本の各造船所に鉄の割り当てを定めたが、その事務が無事終了の慰労として鈴木の辻湊他三、四人はマグレガー一行と京都の保津川下りの清遊を試みしに、その費用五千円を要したので会計から目を丸くして咎められた。しかし、金子と辻はそんなことは一笑に付した。もっともその当時の日本金のレートは非常に高く、記者、汽船、旅館等は一等で英米を周って一ヶ月の平均費用全部を含めて二千五百円以内で済んだものである。
 協約成立の結果として当時の予算では、日本が三億五千万円儲かる勘定となり、日清戦争以上の収穫だと世間の賞賛を受けた。この船鉄交換協約の履行中に戦争が済んだので、結局三十五、六万トンの鉄を受け取り百万トンほどの船舶建造に寄与した。そのうち三十七万五千トンを米国に引き渡し、あとに六十三万トンの船が残り、そのうちの五十万トンが国際汽船となってあとに残ったから、本邦造船、海運会に貢献するところ甚大であった。
  船鉄交換がようやく成功した頃、世間ではまだ戦争が長引くものと考えていたが、氏はそうは思わなかった。ブルガリヤが連合軍のために手ひどくやっつけられた際、ドイツはこれを救助しない。スイスからリヨンへ独軍が侵入すると思ったが、これもやらないところをもって見ると、ドイツは表面強そうに見えてもその内実は大分窮しているに違いない。戦争はドイツの負けとなって近く終息するという見当をつけた。そして今にも戦争が済んだら大変であるから、鉄は鉄材のまますべて売ってしまうかと一旦は考えたが、船にして売る方が一層儲かる。それには建造計画中に売約して手金の三分の一くらいとっておけば安全と考え、売約のあるもの以外の鉄はことごとく自家の製造材料とする方針で、船鉄交換で米国から受け取るはずの鉄の数量、日限に応じて進水の日限を定めてリストを作り、右のリストによって売約をするという案をたてた。時たまたま高知にいる母が大病で危篤との電報が来た。家庭のことなどには一切無頓着で事業に邁進する氏のことではあるが、母にも長く会わず九十二歳の老齢でもあるので、七月二十七、八日頃、神戸を発って帰省し母が死ぬまで枕元で侍し、八月五日葬式を済ませて九日高知を出発して十日に神戸へ着いた。
  神戸に着くと米国大使モリスから至急会いたいとの電報が届いていた。それが焼き打ちの二、三日前のことである。