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大隈内閣の米価引き上げ策

 第一次世界大戦当時、日本は極東に懸絶していたので商工業は非常に発達した。強気の商人は買えば儲かる儲かるで有頂天となり、工業家はそれ造れや造れで、およそ買ったほどのもので儲からないものはない。しかし大正三年は、農家は豊作続きで米価が漸落して大正三年十二月には十二円までに低落し農民の不景気は名状すべくもなかった。そこへかてて加えて商工業の繁栄のおかげで、働き盛りの子弟は糞骨の折れる百姓を嫌って農村を飛び出し商工業に吸収されてしまう。「農民を救え、米価を上げろ」の声は全国に満ちた。当時憲政会を足場にして総理大臣の印綬を帯びた大隈重信侯は景気直しに一つ米価を釣り上げてやろうと考えた。だが高遠な理想ならいざ知らず、米の事については差し当たり妙案がない。そこで民間の素町人である金子直吉を御前に召し出してその意見を聞いた。博識多才の金子のことである。仕事にかけてはもちろん目から鼻へ抜ける男であるから即座に答えて、「米価釣り上げくらいは朝飯前の話でござる。ところでここに良策が二つある。一つはその筋で定期市場の買い方を助けてやること。二つは過剰米を海外に輸出することである」と献策した。
  大隈侯は、過剰米を海外に輸出するには如かずという点にいたく共鳴した。そこで金子の同郷で当時大蔵大臣であった濱口雄幸に旨を含め金子の鈴木商店に向かって過剰米の輸出を命じてきた。濱口雄幸は当時憲政会の総務で物価調節の本尊であるかのように年百年中津々浦々で力説主張していた男であるから、一も二もなくこの意見に賛成した。
  ここに少し米問題と鈴木商店のことを述べると、明治四十三年一月、十一円五十銭であった米価は大正元年十二月には二十八円八十銭という暴騰となるまで漸騰を続けた。しかし、大正二年定期に台鮮米の代用を許したことは大正三年の大豊作と、加うるに欧州大戦勃発後当初、一時的に財界が不況となったので米価は漸落して大正三年十二月にはついに十二円までに低落した。これを受けて時の大隈内閣は米穀を買い上げたので大分米価引き上げに効果があった。だが、大正四年またまた大豊作で買い上げ策も大勢を左右することはできず、大正五年六月には十三円に低落し、なお低落を続ける勢いが見えた。そのため政府は鈴木に命じ海外輸出を慫慂した。そこで氏は政府の意を体して政府買い上げ米のうち、大正五年大阪および兵庫の在米四万六千三十石を建値十一円八十銭で引き受けた。これを手始めに、大正六年五月十一万俵を建値十五円十一銭で政府から買い受けた。これを最後として順次中国、九州地方で玄米を買い集め、岡山精米所、大里精米所で七十一万俵を精白し、主として英仏ならびに革命前のロシア政府に供給した他、玄米のままマルセイユ、桑港等に輸出したものが約十五万俵に及んだ。
  それでも米価は依然として低迷の有様であった。これを昭和二十年以後今日の食糧不足から見るとまことに今昔の感に耐えない。ちなみに当時金子の懐刀には内地の米収穫を明確に予想する名人松下某を配下に抱えていた。
  しかし、大正六年米作第二回収穫予想の発表の結果、大正七年度において三、四百万石の供給不足に陥る事態となった。また大正六年末から世間の事情が変わってきた。今まで商工業万能であったものが追々下り坂となり、工場労働者の失業や一面過剰米一掃の効果も表れ、米の廉価から来る国民の乱食は需給の不潤沢をきたし、生糸高で儲けた農民は今までのように安米を売らなくなった。そこでにわかに外米を輸入して米価の調節をする必要が生じた。この時も鈴木商店は率先して米の輸入を企てた。すなわち管理令施行前において輸入販売させたもの二十五万六千九百六十三袋(蘭貢米)、指定商人として輸入したもの七万二千四百九十三袋(蘭貢米)、別に原価で政府に提供したもの六十六万四千四百三十五袋、通じて百十五万九千六百鉢袋の外米を輸入した。その数量が巨大であると、海外から買い付け輸入した精白米等、金子独特の早業は一世の耳目を聳動させたのである。疾風迅雷とはこのことである。まことに切れ味のよいこと水も貯まらぬくらいであったが、こうなると貿易商も米の玄人も鈴木にしてやられた悔しさと、金子の怪腕に恐れをなしたためか、色々な噂が捏造された。かつて門司から対米輸出米を諾威船へ積み替えたのは鈴木が敵国へ食料を供給したものだなどと、あらぬ噂が一種の凄い熱で街から世間へと悪喧伝された。
  大隈内閣は潰れて寺内内閣となって全国期米市場の買い方の手を縛って未曾有の取引所に官令で停止を命じたり、暴利取締令を発布して、岡半、増貰を戒告したのもこの時である。収用令を出して農民の米を時価から十円安の三十二、三円くらいで買い上がる算段を講じたのも大正七年の夏であったが、都会の在米は減り、百姓の囲米は減るので米不安の人心は日本国中で広まって行った。