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米騒動と焼き討ち

 米価は日に日にうなぎ登りに暴騰し、米不足の声は全国に充満した。こうして越中滑川の漁師の女房連が昔からある「壊し方」という最後の手段を講じたのが源となり、いわゆる米騒動が全国に蔓延した。東京大阪はもちろんのこと、少し大きい街ではコレラ病のようにこの勢いは激しく拡大した。そして、米で最も活躍した神戸の鈴木商店は、当時大阪朝日新聞の盲目的煽動記事などが主因になって、ついに暴動の渦中のまっただ中に巻き込まれ、暴徒の襲撃によって店舗打ち焼きの憂き目を見ることになった。
 時の農相仲小路簾が検事上がりの本領を発揮して暴利取締令、収用令を八方に振り回したことは前述のとおりであるが、更に一方では、外米管理令というのを発布して外米の大輸入を図ったことは却々の大出来であった。暴利令は次の政友会内閣の出現とともに伝家の宝刀という名に変わってこの世を去り、収用令もその影を潜めたが、外米補給だけは食料問題の骨子として永遠に変わりがない。こうして外米買い入れのお役を仰せつかったのが鈴木商店である。
 大正七年米価狂騰に際して鈴木は既に買い付けていた二十六万袋の外米を阪神間の市町村に廉売した。四国中国方面にも補給した。それから当時兵庫県知事であった清野長太郎が廉売資金を有志から募集した時でも大枚十万円を寄付している。米の補給を行い、大金まで寄付しているのだし、買い占めや輸出は政府の慫慂でやったのだから俯仰天地に恥じる行為ではなかった。けれども新聞紙の煽動記事や何も知らない巷間の庶民の鈴木に対する誤解の声は金子の耳にも入った。そこで氏は自戒自粛の意を固め、各支店係員に左のような注意書きを送った。

 今回指定外米輸入業者たる特権を得たるは御同慶に耐えざるところにあり、この機において当店は一意奉公の誠を致しもって政府の米価調節、下層民救済を旨とする政策に順応し、一面社会公衆の福利に貢献したき念慮にあり候については、本支店各所においてことに外米の事務に従わるる各位は深くこの趣旨を体し遺憾なきを期せられたく、ご承知の如く市井小売の輩が薄利の事業を営むに当たりては往々公正ならざる商策を試むるものなきを保すべからざるものに候らえば、当店のこの事業の如きも図らざる方面より疑心を挟みて嫉視せらるる事あるやも測りがたきことはすべからく覚悟せざるべからざるところにあり候。すなわち当務者各位はその事務に関して特に慎密なる注意を払われ、万事政府の命令を遵奉し、現品に帳簿にまた商談に終始一点の陰影を留めざるよう致したく、斯くの如きは独りこの時局に処して当店奉公の務めを全うする所以なるのみならず、また実に将来多々国家的事業を経営する基礎を築く所以に他ならず、なにとぞ各位の一致協力によりこの事業、有終の美を済したく不堪切望候右特に小生より呈婆言如ここに御座候。
 敬具
なお帳簿記録往復文書等はいつ検査を受くるも一点の誤りなきよう御整理相成りたく特に切望致し候。

 と痛く投機の弊と世の誤解を招かないように戒めている。これによって見ても氏が米価問題に対しては常に政府当局の命を奉じ米価が安ければ輸出し、高くなれば輸入し常に政府の政策に順応していたという中順な志操がよく伺われるのである。すなわちいつもしっかりした目標をつけて、こうした時はこう、ああした時はああと目標に向かって時々刻々ハンドルを回していたのである。数多くの店員の中にたまたま射幸的投機的考えを抱く者があると、金子氏はそっと呼んで、「実業家の成功はそんな浮調子で行くものではない。たとえ猗頓の富を望むとしてもそのはじめは極めて堅実に塵土集めて山嶽をなすというような心掛けが肝心である」と繰り返し繰り返し説くのであった。
 しかし、住田正一が直接金子から聞いた話の一節に「株というものはつまらないのでやるべきものではないが、未来に対して魅力を持たせるものは株しかないから、新東の百株くらいなら売買もよかろう」と言われたとのことだ。
 金子が米国大使モリス氏から至急会いたいとの電報が来たので八月十一日の夜行で上京しようとしていると、時の兵庫県知事清野から使いが来て至急面会したいというので行ってみた。すると、「奸商が米の買い占めをするから米価が高くなった。ことに鈴木商店がむちゃくちゃに買い占めるから一層高くなったのだと言って湊川の土手の上でうどん屋の出前持ちなどが昨夜過激な演説をした。今夜もまたあそこには皆集まるかも知れない。そこでこの方はこれに先手を打って米の廉売をやって解散せたいと思うから金を出してもらいたい」との話だった。氏はそれに答えて「いくら出したら宜しいかお任せする」というと、清野は「五万円出せ」というから承知の旨を答えて帰ってくると、今度は「内田信也がもっと多く出すから鈴木商店は七万円出せ」という。これも「宜しい」と言っていよいよ車に乗って三ノ宮停車場へ行くと、途中に張り紙があってそこら辺りに胡散臭い男が多数集まってみていた。おかしいとは思ったが気が付かなかった。そのまま汽車に乗って静岡まで来るとボーイが電報を持ってきた。見ると、「イマホンテンヤキウチサル」とある。電報は丸の内から出ている。氏はこの電報を見て考えた。「これは東京の破戸漢が悪さを打ったに相違あるまい。うっかり東京駅へ着いたらひどい目に合うだろう」とこっそり横浜駅で下車して電車を乗り換え新聞を買って広げてみると、神戸の鈴木商店はもちろん須磨の家まで焼かれて主人も店員もどこへ行ったか皆目行方不明であるという記事が掲げてあった。
 これにはさすがの氏も大いに驚き、モリスとの会見はそこそこにすませた。その夜神戸に着くと店員が出迎えたが目標があると殺されるかも知れないと帽子を取り替えバッチをはずさせなどしてひそかに山の手にあった柳田富士松宅の離座敷に伴われしばらくそこに隠れていた。
 そして市中の状況を聞くと毎日略奪が行われ、金子直吉の首をとったものには十万円やるという懸賞の張り紙がしてあるという。ますます危険で外に出られなかった。
 一方新聞記事や付和雷同によって狂い猛る暴徒に対し官憲はこれを鎮圧する術がなかったが、翌々十四日、姫路師団派遣の軍隊が来神するまでは全く無秩序な乱脈に陥っていた。流言飛語が飛んで「金子の首をとった者には十万円やる」だとか「鈴木商店の幹部を皆殺しにする」という張り紙や噂が喧しかった。血気にはやる鈴木の店員西岡勢七は、この無警察状態に憤慨し店の幹部に相談するのももどかしく単身県の内務部長室に飛び込んだ。時偶々同僚を集めて協議中であった。その日は知事も警察部長もいなかったが、協議中の人々の中に顔見知りの外事課長森岡二郎(後の台湾民政長官)警務課長福本義亮(後の神戸商工会議所書記長)二人と今一人西岡と同郷の近藤正衛老刑事の顔も見えたので、西岡は「貴君方はこの無政府状態を何と見るか!直に鎮圧の策を講じてもらいたい!できますか!」と癇高に呼ばわって詰め寄ったが、皆黙って考えこんでいるばかりで一座に応答する者は一人もいなかった。そこで西岡は一層声を荒らげ「県庁の方でできなければこちらで正当防衛をやるから左様ご了解を願いたい」と言い放った。驚いたのは森岡課長である。「それは困る」と遮った。西岡は満面朱を注ぎ、「あなた方は聞かれたか?何の罪もない鈴木商店は焼き討ちされた!その上金子の首を懸賞付きで取ろうと言い、幹部を皆殺しにするとさえ言っている。この上左様な不祥事でも起こったら何となさる。責任持てますか!」と畳み掛けると、この時まで黙ってうつむいて聞いていた福本義亮が突然大音声で「やり給え!僕が責任を持つ」と叫んだ。西岡は待っていたとばかりに「ようし頼む」と県庁を駆け下りその足で三宮署と所轄相生橋署に駆けつけ、両書長に面会して県庁であった次第を告げた。直ちに平素店の出入りの明石組明石久吉老の宅に飛び込み、決死の部下二百三十人を集めて防衛の陣を固めた。しかし火はますます激しく力がおよばなかったため、店員の一部は西川支配人の自宅を訪ねた。しかしそこでは各重役が集って片っ端から電話をかけ、「造船部は居留地十番館に、その他はどこどこ」と店の各部が翌日から働く場所を定めていた。それを見て如何に鈴木が仕事本位の店であるかに驚嘆しない者はいなかった。
 その時である。東京から引き返してきた金子が、他の幹部が上を下へと混雑し興奮しているのに従容常の如く幹部の報告を聞き終わり、ただふた言、
「仕方がない。仕方がない」
と言ったのみである。これはこうなったことはもはや致し方ないとの意である。それから海岸通後藤回曹店の階上へ行き幹部一同と共に善後策に当たった。その時西岡に向かって「おまんのやっちょる山の所はどこぞよ」と問うので、西岡は当時盛んに計画を推進していた満州間島省琿春和龍県方面の森林事業予定地を地図で示すと「うむそうか。あれはこういう風にやるつもりじゃ」と地図の上へ指で図形を描いて示した。それを見ると吉林省の全面を指しているのには驚いた。しかもそれが自己の本城が焼き討ちされその燃えさしがなお消えぬ最中であるにかかわらず悠容迫らざる次の計画についての大腹には一同頭の下がるものがあったという。
 要するにこの焼き討ちは、前段で述べたように他の煽動により鈴木が誤解された結果に他ならない。その理由は当時「米価問題と鈴木商店」と題し、鈴木商店の永井幸太郎(前貿易庁長官)が一冊書いてばらまいたものに詳しく載っている。それには、前に述べたように政府の命令で米を収集しまた配給にも全力を尽くしたが、定期米市場の買い方や新聞が鈴木の買い占めを材料にして悪宣伝を行った悖徳の犠牲に他ならないことが指摘されている。
 しかしながら同じ焼き討ちにあったのでも越後の川佐の焼け跡にはヨモギが一面に繁茂し鬼気愁々であるのに鈴木の方は野次馬共ののぼせ上がった出来事であったし、当時は鈴木商店全盛の時代で人の手も揃っていたからバラック建ではあったが二週間のうちにたちまち建築が出来上がって、八月二十五日にはそこに引き移って仕事をやり始めた。
 鈴木商店が東川崎町の焼け跡のバラック建から京町にいよいよ移転することになって上棟式の小宴を催したことがあった。来客の橋本喜造から金子さんは鈴木の大久保彦左衛門じゃとの話が出て、歓声共笑に時の移るのも覚えぬほどであった。その際金子から次のような話があった。「社員諸君も得意先の人々も今日の鈴木商店の財界における勢力地位から見て鈴木の本店は堂々たる鉄筋コンクリートの大廈高楼を想像期待していたかも知れないが、この倉庫を改造した三階のレンガ造りはいわば秀吉が中国を平定した白鷺城の格好で、天下に号令を発する大阪城は追って建築する。いわんや鈴木には淀君ならぬ『御家さん』と秀頼ならぬ主人があるから諸君はあくまでその武運長久を確信して大いに働いてもらいたい」と当時大手の本邸が桃山の聚楽殿そっくりだと土佐の横山夫人から家相地相が芳しくない話を聞いていたのでヒヤヒヤした。その後二年モラの悲劇となって遠征軍は涙をのみ大陸より引き揚げその雄図虚しく頓挫したのは豊太閤と不思議の縁を感じる。ただその異なるところは指導者を失ったミリタリズムの最後と産業開発をモットウとする金子の理想が不滅の精魂となってピリオドを見ないことである。
 御本家の大危難を耳にした鈴木の一族郎党は、内地からも海外からも「一大事愁傷の極みに存じ奉る」旨の電報が次から次へと舞い込んだが、ロンドン支店長を務めている高畑誠一だけは「慶賀に堪えず」という電報を送ったそうである。そしてその「慶賀に堪えず」のいわれは、「日本のような小さい土地のものばかりを売ったり買ったりするからこういう目に遭うのだ。これを機会として外国の物を買い占めて外国へ売りつける算段、とりも直さず世界的に物資を移動させる大方針を立てたなら、災い転じて福となす。だから、焼け太りという諺もあるとおり、この意味において焼き討ちこそ大慶の至りだ」と言ったのだそうだ。
 幹部連が上を下への混乱をしている最中に人をくったこの進言を突きつけられた金子はぽんと膝をたたいて「ああよい、よい」と称賛の辞を惜しまなかったという。誠に猫の額のような日本内地で多寡の知れた商品を弄っていればこそこんなひどい目に遭うんだという高畑の進言は卓見であった。それ以来金子の代理となって欧州総合国食料委員としばしば折衝した高畑が、砂糖でこい、麦粉でこい、小麦でこい、何でもかんでも手当たり次第にさらいまわって同業者を「あっ」と言わせたのは周知の事実である。将来金子の後を継いで鈴木の伝統を双肩に担う者は高畑でなければならない。高畑は先代鈴木岩治郎の令嬢をもらって血統的にも鈴木商店の直系に該当する。のみならず、鈴木破綻後かつて貿易によって名声を博した日本商業の名にちなむ日商株式会社を興し、自らこれを統率し、おさおさ鈴木商店昔日の隆昌を回復しようとしている。