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第一次欧州戦後の活躍

 焼き討ちを食らって柳田宅に蟄居中でも氏は一日も早く造船目録を作って船を早く拵え上げて利食いをして逃げようという考えだった。新築の事務所に移って商売を始めるとともにこれに着手しようとしたところ、焼き討ち騒ぎのため明細書も図面も一切の材料が焼かれてしまっていた。そのため、更にアメリカに電報を打って再びこれを拵える準備をしていると、突如として大正七年十一月九日休戦条約が成立した。その結果、第一番に海運界が不況に襲われ続いて船価が暴落した。そのため氏がせっかく船鉄交換で得た利益は思惑の所有船舶により大部分が吹っ飛んでしまった。それでも戦争が近く終息するものとの見込みをつけていただけに他の商品はいち早く処分していたので、茂樹が倒れ、久原は傷つき、その他大小の戦争成金が将棋倒しになったにもかかわらず、鈴木商店は比較的うまくあの大波を乗り切ることができた。
 戦時中と戦争直後の鉄と並んで鈴木商店が最も多く買い占めたのが小麦、麦粉、砂糖であった。これは世界的な大買い占めであった。それに油脂の原料類もたくさん買い集めた。戦争中は連合国の委員がロンドンに駐在し、英国の食料の役人が主任となって各国へ食料品を配給する制度になっていた。当時鈴木商店では高畑誠一がロンドン支店長であったが、この人はカイゼルを商売人にしたような人間だとの評判をとったほどの男で、その上、語学の天才でもある。鋼材の購入、船舶の売却、さらに買い占めた食糧品を売りさばくなど、英国の船舶省ならびに食料省はもちろん、連合国の軍需品購買局の間で活躍し、さかんに注文の電報を送ってきたから、戦争の末期および終戦直後はロンドンにおいてはどこの商人よりも鈴木商店が最も有名で、鈴木商店は非常に信用を博し評判が良かった。そのため各方面の注文が殺到して一葉の電報で巨額の取引を行うことも珍しくなかった。一遍の交渉でロンドンの諸銀行から一億円という巨額のクレジットを得たほど盛んな信用であった。
 ロンドンにおける高畑の活動のめざましさにつけても氏は、「この男をただ単に支店長としておくのはもったいない。むしろ鈴木家の親身として永久に鈴木と結びつけておいて、お店万代不易の基礎を固めよう」と左のような書面を認め、高畠の意向を打診した。

 ロンドンにおける貴君の働きが抜群であるため、鈴木商店の名声は至るところでまた抜群である。しかも本店における各種の事業はいずれも好評でおおよそ成功の二文字をもって確答を得ている。今この勢いで一歩進めばまさに天下を三分することになるだろう。
 しかし小生と柳田らはおいおい老境に入ろうとするにつけ、然るべき後継者を定め鈴木商店の目的を大成すると共に今日まで小生らを助け献身的に働いた店員諸君の前途を確保することはまさに小生らの義務であると信じる。よって貴君を後継者と定めこの鈴木商店の経営を西川くんを経て貴君に委ねよう。
 思うに小生らは今日まで奉公人の資格でこの経営をやって来たが、今後は主人の資格で鈴木商店に君臨するのでなければ、大小の人材を縦横にし事業界で優秀の地を維持することはできないだろう。後略
 大正七年七月二十八日 須磨において 金子直吉

 大正八年は休戦のまま年を迎え、財界はようやく崩落の兆しを呈し、大阪では染料商、米穀商らの支払いが停止することさえ生じた。しかし、六月に入って講和条約が調印され、戦後ドイツは特に食料品の欠乏を告げていた。そこでこれを救援しようとする議が国際間で起こり、主として米国が食用品を送ることになった。鈴木商店は小麦、麦粉、油、砂糖等を米国筋等の注文を受けて主として欧州向け輸送を行った。それを始めとして、大正九年には日本海軍の八八艦隊建造議案が可決されたため、鈴木商店の内部では支那方面に船舶関係の出張所を設置する案があった。しかし、金子によると、「支那というところは中々仕事がやりにくいところで金を儲けるのに骨が折れる。しかし今日本は八八艦隊を造ることに定まり、各軍港に多額の金を落とすため、それをとってはどうか」ということになった。そこで、呉が最大の工廠であることから呉に力を注ぎ、辻湊、武藤作次をここに駐在させ、佐世保には前の大蔵大臣北村徳太郎、横須賀には小唄平作を駐在させ、舞鶴には武藤を兼任させた。しかし、その商売ぶりは、三井、三菱、高田、大倉、住友、鈴木と、鈴木は第六位であったが、金子の采配宜しきを得、一年後には鈴木が第一位の商取引高に達した。これは鈴木の鉄材部、木材部、冶金部、その他各部の緊密な連絡と相互援助の結果によるものであった。しかしまた鈴木関係の神戸製鋼所、播磨、鳥羽の造船所も活気を呈し、同時にまた第一次欧州戦後、一二年後には前記の通り欧州諸国は食料品の欠乏が著しく、ことに砂糖、油脂、麦粉、澱粉が大不足を来した。そのため連合国政府は、ロンドンの英政府監督のもとに食糧費を戦時中と同様引き続き買い入れることとなった。時たまたまロンドンの砂糖ブローカーであるザーニコーが砂糖の買い占めを進言したので、ロンドン支店は直ちにこれを神戸の本店に献策してジャワ糖を大量に買い込み、これを欧州諸国に売りつけ、同時に露国の小麦、アルゼンチンの穀物、満州の大豆等の買付け等をも一緒に売約して巨利を博した。鈴木が累年の事業拡張により、ようやく戦後の打撃を受けかかった時、ロンドンの銀行家が信用状を極度に利用しこの巨利により本店の金融を助けたことがおびただしいものであった。そのため戦後我が貿易業者が相次いで倒れたのであるが、鈴木商店のみは幸いにがっちりと補強工作ができ、このおかげで命が延びたのである。このようにして本店と連合してロンドン支店の大思惑買いが当たって一挙に六千五百万ギルダーを大儲けした。また同時に英国政府から注文を受けて、満州、青島、シベリア等から五十万トンほどの小麦および大豆を輸出し、それらの取り扱い貨物は定期船を利用したほか、大正八年には九千トンの船が三十艘、大正九年には四十五艘の多さにおよび、当時スエズ運河を通過する日本の貨物船は鈴木の米マーク付きのものが多く実に壮観であった。元帝人社長、現商工大臣の大屋晋三は、その時のポートサイドの駐在員で大いに活躍した。第一次大戦中から戦後にかけて鈴木商店の手で金子の思惑で造った商船の海外輸出による大利と商品買持の値上がりの輸出貿易により我が国が吸収した正貨は無慮数億の巨額に達し、我が国際貸借の上に貢献したところは、けだし鮮少ではなかった。すなわち、鈴木商店は戦争中にも当たり、戦後の後始末もうまくやり、対独食糧品の輸出、ジャワ糖の思惑等で着々成功したのである。けれども借金によるあまりに多くの事業会社の金融の工面のため儲けた以上に借金をし工場に固定したため、百戦百勝の楚王項羽が最後の一戦に敗れたように休戦条約以来の物価の下落、引き続き大正十一年二月ワシントンにおいて調印された軍縮会議は、迅雷の一斉落下となり世界の軍需業者に大打撃を与えた。そのため、借金による重厭の大波濤は強く鈴木商店にも当たり、ついに敢えなく破綻を招くに至った。
 これより先に締結されたパリ平和会議はこの軍縮会議の前提ではあったが、単に表面上平和を口にするに過ぎないとみなされ、我が国は八八艦隊の建造を決し、世界各国もまた軍備の大拡張を目論んだ。我が国はもちろん、世界の軍需品供給者は戦争の再発を密かに予想していたのである。しかし、この軍縮会議で一切の計画は全く跡形もない夢となった。
 後年英国のビッカース会社の社長が日本へ来て、「大正八年六月の平和条約よりも、十一年二月の軍縮会議の方が恐ろしかった。その結果はビッカース会社も一挙一億円の損失切り下げを断行せざるを得なくなった」と痛嘆し、金子氏もまた「えらい目に遭いました」と敗軍の将互いに過去を述懐して冷たい思い出の握手を交わしたという。以来鈴木商店の業務は日に振るわず、毎日借金の整理に追われ、手形書き換えへの金利にも窮し、ついに昭和二年の弥生、四月の初旬には巨木が倒れるかのように没落した。
 金子に対する世間の批評はまちまちで、確かもとの報知新聞記者の某氏が書いたものに「金子は天保六歌仙にある金子市之亟と直侍を一緒にしたような名前の男だけに、生きている限りおとなしくはしていらない人物らしく、何か一騒動おこして世間を騒がしている」と言っている。福沢桃介は「鈴木商店の金子は、人造絹糸、製油、樟脳の再編、窒素工業といった我が国に必要な基礎工業にも先鞭をつけた。その英雄的行為は驚嘆するに余りがある。ナポレオンはモスクワの戦いに一敗地に塗れてついにセントヘレナで悶死したが、やはり彼は歴史上の偉大な英雄であることは失われない。それと同じく昭和二年四月若槻内閣当時、例の金融動揺にあって、鈴木商店は脆くも没落したが、首脳者金子は我が財界におけるナポレオンに比すべき英雄だ」と賞賛している。
 また世間では「金子は大山師だ」と思い、投機的商売を盛んにやって一攫千金を勝ち得たのかのように考えている者もいる。しかしその実は取引所などでやる投機は大禁物で、米穀や株式などは一切やらない。欧州戦争当時盛んに買い占めをやったが、これは外国市場でやったことで内地の市場で同胞を苦しめたり社会奉仕の意味に反したことなどは一度もやらなかった。この点は少年時代に貧乏長屋の片隅で雨漏りを避けながら懇々と言い聞かされた「金持ちになっても貧乏人をいじめてはならぬ」という慈母の訓戒をよく守っているからだと本人が戦前人によく語っていた。
 「草の庵に寝ても覚めても祈ること、我より先に人を度さん」という道歌がある。これなども金子母堂の気持ちにピッタリと合うのであろう。
 氏は一面商人でもあったが一面また大いなる工業家で、後藤伯の知遇を受けた前後から欧米の商工業が科学を基礎として技術の上に立脚していることを知り、「事業家や学者を養い、研究させ、科学上の発明を土台として事業を起こし、また外国から技術を輸入して日本の技術者に植え付け、それを日本の事業にしなければならない。ドイツ等の状態を見るとその技術は必ずしもことごとくドイツ人の発明のみではなく、外国の技術を輸入してこれに工夫加工してドイツ固有のものと同一のものとしたのが甚だ多い。日本なども学者を養成して発明研究に従事させるとともに、一面外国の特許技術をも輸入して我が国の生産を盛んにしなければならない」との考えを起こした。その理想のもとに樟脳の再製を始め、製鋼、人造絹糸、造船、製油、製塩、窒素工業、石炭液化等のような我が国に必要な各種の工業で明治、大正の間いやしくも我が国が産業革命に費やした重要事業は氏が第一着で手を染めていった。氏の工場経営の主義は、米国のフォードのような法則を実行するのが理想で、労働者にはなるべく賃金を多く与えて、大量生産を行い、原価を安くして多く売るというものであった。
 このようにして氏が第一に企てたのが神戸製鋼所である。