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神戸製鋼所

 神戸製鋼所は、最初小林製鋼所として日露戦役直前に東京の書籍商小林清一郎が、その親戚に当たる元呉海軍工廠の小杉技監の勧奨により現在の神戸製鋼所山手工場に建設したことが、その濫觴である。明治三十八年の初秋、当時合名会社鈴木商店金子直吉がこれを買収して田宮嘉右衛門にその経営が託し始まった。
 以来幾多もの変遷を経て今日の大に至った。明治四十四年に鈴木合名の直営から分離独立して株式会社神戸製鋼所となり、初代社長に海軍少将黒川勇熊、その後順次鈴木岩治郎、海軍中将伊藤乙次郎、海軍主計中将永安晋次郎、田宮嘉右衛門、浅田長平の諸氏を経て現社長永三郎に至る。金子翁が逝去した時は終戦の田宮社長時代であった。
 同社は日露戦争後の日本発展に正比例し、日本の陸海軍ことに海軍の拡充に伴い日本の重工業は発達し、神鋼もこれに順応して海軍の注文を引き受け、日本の大陸政策と歩調をともにして拡張に拍車をかけた。しかし軍部と平和産業の注文を半々くらい、鈴木商店の華やかなりし頃には第一次世界大戦中、ご多分にもれず大発展を遂げた。特に鋳鍛鋼品は会社が最も得意とするところであった。大正六年に門司工場、同八年には脇浜の埋立地の海岸工場を建設し、同十年播磨鳥羽両造船所を買収、昭和十年には満州工廠を建設しその後第二次世界大戦前より軍部の要求により第二次拡張となり、全国各所に約十余工場の建設を見るに至った。しかしその初めに買い入れた時にはこの事業は赤字続きで経営は思わしくなく、鈴木にこれを売りつけるような形で四、五十万円の借金をしていた。それでも、旧所有者はまた儲かりそうなら買い戻したいという未練を持っていた。その使用人で製鋼所とともに鈴木に引き継がれた小林恒四郎という会計係がいた。小林の主人はその男から始終会計状況の密告を受けていた。そのスパイ的事実が他の従業員から金子翁の耳に入り大分やかましいことになった。そこで翁は密かに小林恒四郎を一室に呼んだ。小林は顔を真っ青にして固くなった。そこで翁はおもむろに言うに、「君が先の主人のためにこちらの秘密をいちいち報告しているそうだが、私は君が先主に対する忠誠を愛でて何も言わないが、私の社員として会社の秘密を暴くのは良くない。がしかし、私にはそれが誠に結構なことになってきた。なぜならわしがなんぼ小林に会社の赤字状態を話しても彼は本気にせず、いつまでも製鋼所に未練をもって思い切りが悪い。しかしその懐刀の君が内密に知らせる話は真面目に受け入れたので近頃では真からこの仕事を思い切る気になったらしい。(明治三十八年九月頃鈴木の手に入る)君も前途ある身だから一つ海外に行って勉強してその忠誠をひとつ鈴木のためにも尽くしてくれまいか」と洋行を命じた。
 鈴木の経営に移ってから三年くらい経って海軍省からも注文があり面目を一新した。また旅順港内の沈没艦船の引き上げを行うことになり、松島、椋野、田丸等を派して監督させその引き揚げた銅鉛、鋼材等を製鋼所に送り、これを売却し、その利益の一部は、鹿児島に海軍兵学校ができるので、そこへ寄付することになっていた。ところがこれは中止になった。
 なお、金子翁と神戸製鋼所との関係は神鋼三十年史にその経緯と同翁の回顧録が載せてあるから左にその全文を掲げることにした。

 田宮君から神戸製鋼所の事跡を上程するに付し、従来の沿革を記述してもらいたいとお頼みがあったから左に老生の知る限りを認めてご覧に供する。
 鈴木商店が神鋼を約束したのは極めて匆卒の間に不用意に引き受けたのであるから、最も慎重に取り扱うべき重工業を軽率に処理したという誹りを免れず少々お恥ずかしい話であるけれども、何事も厳正なる判検事の前に出たように偽らざるをもって人生の本意とするものならば、その真相を告白することもまたやむを得ないところであるが、これがために本文はあたかも一つの懺悔録のようになったのは恐縮の至りである。
 時は明治三十七年かであったが、日露が開戦すると大阪の百三十銀行が取り付けられた。そうすると西宮紡績の煙突から煙が出なくなった。それは平素西宮紡績は百三十銀行の紡績部だと謳われるほど関係が深かったからである。
 ここにおいて老生思えらく、この戦争が済んだら紡績業は一大発展を見るであろうから今この工場を安く買っておけば大儲けするに違いないが、惜しいや、既に大里製糖所の建設中であり、なおそれに加えて住友樟脳も買った後であるから到底資力が足りない。二兎追うわけには行かないと一度は断念してみたが、日を経るとまたこのことが頭からふらふらと湧出し、いやしくも商人としてこのような大利を見逃すことはいかにも意気地がなさすぎる。なんとかしようがありそうなものだと考え、友人日向君が百三十銀行の頭取松本重太郎氏と親善であることを思い出し直ぐに同君に面会し、西宮紡績を年賦で売ってくれるよう君から相談してくれないかと頼んでみた。ところが、同君は、なかなか債権者が多数のようであるから私談では売らないだろう。必ず一旦公売にするけれども、指値に届かないので差押えとなり、それから後は私談で話ができようから、その機会を待ち給えと言う。これはもっともだと考え、その後は絶えず新聞記事を注意していたのであるが、ある日元の住友樟脳工場で股火をして朝日新聞を見ると、西宮紡績が内外棉会社へ売られたという記事があるから、おやっと思って読み下してみると、最も安い値段でしかも長年賦で内外棉会社に買われているのである。ここにおいて掌中の玉を失うかのような失望落胆を禁じえず、股火が衣服の裾に燃えつくのも知らずただ呆然と天井を眺めていると、後方に誰か人が来たような気配がする。顧みると後藤鉄二郎が莞爾として立っている。曰く、金子さんどうした、今日はいつもの元気が無いようだが、というから、まあ聞いてください。僕もこれほどの馬鹿ではないと思っていたが、実は本来大間抜けの骨頂だと応酬し、それはかくかくの次第でこうである、と西宮紡績を内外棉会社に買われた話をすると、同君は懐から紫色の風呂敷に包んだ書類を取り出し、これはどうです、東京の親爺から貴下に相談せよと言って寄越したのです、と言って見せられたのが、すなわち小林清一郎君の仕事として小杉辰三君の計画になる半製の神戸製鋼所を引き受けてくれないかという書類であった。
 元来鈴木は、砂糖、樟脳、ハッカのような商品を取り扱っていて誠に地味な商店であって、鉄を湯にして鋼をこしらえるというような荒仕事はやりたくもしたくもないのであった。しかし、この時ばかりはかの西紡の件で全く脳神経が麻痺していたものと見え、鉄二郎に一応考えてみようと色よい返事をしてその書類を受け取ったのである。そしてその翌日先輩であり同僚である柳田君に会って、西紡は鳶に油揚げを奪われたようなものであったが、鉄二郎君からこのような製鋼の話を持ち込まれたと言って彼の書類を見せた。同君が言うには、この工場で釘のような物もできようか。僕らは初めから砂糖ばかりやっていたが、中島保之助さんの店では古くから釘の取引を行っていた。それを見ると、鉄の方はなかなか面白そうであった。と言われたので、小杉辰三君にこの工場で釘ができるかと問うと、釘も鋼であるから訳もなくできると言われた。ここにおいて再び柳田君に相談すると、それなら誰に行ってもらうかと言われたから、大里に田宮嘉右衛門という男がいる。あれはどうだろうと言うと、良かろうと言われたから仕事はまず田宮くんにやらせると決めておき、小林君の代理小杉辰三君とるる折衝して今日の神戸製鋼所を鈴木商店で引き受けたのである。ゆえに神戸製鋼所を引き受けたのは鈴木商店の本意でも希望でもなかった。全く西紡を取り損なった精神が空虚になっていたところへ持ち込まれたから製鋼業の至難なことも大資本を要することも一向頓着なしでスラスラと引き受けてしまったのである。ゆえに鈴木商店における神鋼の引き受けはまずその日の出来心で浮気をしたようなものであった。
 本社の事業はすなわちこのようにして鈴木商店が引き受けたのであるが、当時田宮君が支配人で小林恒四郎、松島誠の両君がこれを助け、技術は小林辰三君、石沢命春君、浜嶋平吉君らが担当して開業した。しかし、この時分の日本における製鋼技術は甚だ幼稚であったが、呉の海軍工廠においては鋼の製造に成功し、しかも誠に立派な成績で海軍用の鋼はほとんど自給自足の勧があり、そして神戸製鋼所は小林辰三君がその呉海軍にあって設計し小杉君以下職工長に至るまで技術の担当者は多く、英国の製鋼所において練習し、来れる人々を網羅されていた。そのため、創業当時から世人に多大な期待を持たせ何人も好成績を予期していたのである。ゆえに開業式の日は東京阪神等の金物屋さんがこぞって工場に参列ししかも羽織袴の盛装で威儀を正して炉辺にたたずんだのであるが、ようやくトリベが動いてシーメンス炉から熱湯が伝わり、トリベの央に満ちたくらいの時に出湯は漸次減少しかけた。そうすると小杉君らは周章狼狽色々と手段を尽くしたが、その中に湯道が段々黒くなって全く出湯が止まってしまった。そこで既にトリベに出ている湯をインゴットケースに流下させようとするもこれもまた不成功で淋病患者の小便のように段々出なくなってついにはトリベの中で真っ黒に硬化してしまった。
 すなわちこのように第一回の製鋼は不成績であったが、来賓に対しては小杉君が恐縮的に良い加減の挨拶をした。曰く、何分にも開業早々のことであり、思わぬ手違いによってこのような不成績であるけれども、後日を期し遺憾なき準備を整え、好成績をご覧に供するからなにとぞご再来を祈ると挨拶し引き取らせた。しかし、その翌日になって炉中を覗いてみると赤い溶鉄は既に黒く硬化してしまっているから、その改善に数日を要するということで、ついに開業式はお流れになってしまったのである。
 それから小杉君以下技術部の人々は専心炉の復旧にかかったが溶解した鋼の湯は黒くなって炉底に固まっているからなんともしようがない。炉の天井を破壊して取り出そうとしてみたけれど、その冷塊を釣り上げるクレーンがないからやむを得ない。ゆえに炉底を残して上部のすべてを破壊しようやくにして炉底の鋼塊を取り出すことが出来たのである。そうすると新しく炉を築造するのと変わらない労力と費用を要し、数日かかって出来上がったが、それが乾燥するのにまた相当数日を要すると聞かされたのは痛く閉口した。生乾きで火を入れると裂傷ができるため駄目だと言われるからやむを得ず、乾燥して再びガスを入れたところ、今度は一回だけかろうじて無事に湯を出すことができたのであるが、二回、三回以後は甚だ不満足であった。しかし幸いにも炉底に鋼が固着するようなことはなかったので、とにかく作業は継続することができた。それでもその時分の鋼の注文量ときたら誠に心細いもので、一週間に五トン炉を五回動かすだけのものがようやくあるかないかというくらいであった。しかもその五回の中四回は必ず失敗して一回しか成功しないありさまであったからとてもたまらない。
 そのうち技術は漸次進歩を示したものの、当時製鋼品の需要が少ないので、収支計算は相変わらず赤字のみを続けて一年くらいが経過した。鈴木の方ではこの損失に耐えられないから、小林君を始めとして工場員に迫って改善を促していた。こうなると工場全体が落ち着かないので、昼食の前後がくるといろいろの取り沙汰もあり、種々の批評や噂話で持ち切るようになったため、ついに技師長石沢君と技師浜嶋君は辞職した。よって新進抜擢の案を立て田宮君と相談して断行したが、小杉君と意見が一致せず同氏はついに辞職するに至ったので、田寺君と木村君と今一人は今日唯一の現存者である三橋君とをもって技術部の担当者とした。こうして一、二年が経過したと思われるが、何分にも需要が増加しないので収支償わず、むしろ思い切って廃業することを決心したことも度々であった。そしてその度ごとに田宮くんと相談すべく製鋼所を訪問したのであるが、製鋼所の門へ入ると直ぐに事務所へは行かずにまず工場に入って各部を実見することがほとんど常例であった。その度毎に旋盤が回転して鋼を削っているところをみると、硬い鋼があたかも木材のように処理されその削り屑が連続しておちつつあるところや、木魂を返すようなハンマーの音に何となく興味がそそられ愉快でたまらない。ここにおいてこの仕事はまだ捨てたものでない、回復の道があろうから今日は田宮君にこの不詳な話は聞かさないで帰ろうというような気持ちになり、田宮君のところへ顔を出さないでそのまま工場から店へ帰ったのである。
 このようなことは一度でなかった。ほとんど幾回になるか分からないくらいであるが、その最後にいよいよ損失が多くて最早到底背負いきれないというわけで田宮君に下記のことを相談したのである。

 『現状では到底引き合いはない。しかし注文が今日の倍くらいになればどうにか収支が償うが、鋼の利用を今ようやく世人が認めかけている時であるから今一年くらい経過すれば需要は今日の倍額に達しよう。その時はこの仕事の維持ができると同時に歳月を経るに従い注文が増加すれば結局相当儲かるようになろう。しかし今後一年間の損失に耐えられないから、この工場を門司方面に移転しよう。その時は一年間の損失で移転費ができよう。そして一年後に門司で開業すれば石炭と労賃の安いところであるから、仮に需要が増加しないとしても収支相償うようになるのは自明の理であろう』。

 田宮君すなわち即時これに同意したのでその準備を行うため、内々土地を探すと同時にいよいよその年の暮れに年末休みを機会とし製鋼所の炉の火を消すことを田宮君とともに決意していたのである。しかしその当時鈴木が製鋼所で毎月損失を重ねているというので各取引銀行がやかましく、鈴木の一般的商売にも多少障っていた。その中で最も冷酷に批評していた三井銀行を訪問し、製鋼所は今月限り炉の火を消すからご安心くださいと話しておいたのである。
 しかしその後、三井の小野友次郎君が店へ来て老生に面会し、君は先日製鋼所の火を消すといったが、あれは二ヶ月ばかり待ってくれないかと言う。どういう訳だと聞くと、三井と三菱とで相談し神戸製鋼所を買うという話が進行しつつあるからだと答える。ここにおいて老生は冷やかしでは困るが事実であり成功の見込みがあれば二ヶ月待ちましょうと答えた。小野君はありがとうと言って引き取られた。ここにおいて田宮君にそのことを通じ、炉の火を消すことを見合わせて三井の返事を期待していたのである。それからしばらくして栄町の本店の倉庫から失火して水よポンプよと騒いでいるところへ小野君がやって来た。火事見舞いか製鋼所の件かと思って会って見たところが製鋼所の件だが、せっかく待ってもらったけれども不調に帰したと言う。これは怪しからぬ酷いことだと思ったけれども、鈴木から見れば三井銀行の返事は不可抗力であるから、左様ですか承知しましたとあっさり答えて返したのである。このため製鋼所は穏やかに炉の火を消して円満に休業する機会を失ったのである。
 こういう工場を体裁よく少しも騒がれないで休業できるようにするには、すなわち年末の休みを利用するより他にないものである。その好機会を取り逃してしまったから、次の年末を待つより他に機会がないが、そうすると大変な損失であるからそれまで待つことが出来なければ行き倒れる。そうなれば仕方がない。あまり悔しいので三菱に行き木村久寿弥太君に会い、一部始終の話をすると、それはおかしい。このことは東京で三井から相談があり承諾を与えておいたことである。今二週間ほどすれば長崎から副社長(岩崎小弥太氏)が来るから僕が聞いてやろう。僕は製鋼所は三井、三菱合弁で経営するものだと今でも考えている、と言う。それならばお願いすると答えて引き取って色々考えてみたが、他にしようがないからただただ木村君の返事を待っていたけれど、ついに色よい返事がない。ここにおいて千思万考してみたが、結局意を決して事業を継続するより他に対策がない。
 思うに製鋼所は国家的事業であり、西洋諸国の例を照らしてみても全然これで失敗したものは少ない。途中はよほど苦しいが最後は皆大成功しているから、左のみ縁起が悪いものでもあるまい、と糞度胸を極めたのであるが、その時分幸いに大里製糖所が日糖に高く売れた後のことで財力も大分豊かになっていたから、必要な機械なども増設し陣容を整え老生らも第一線に立って田宮君のお手伝いをし諸官衛や大会社へ注文を取りに参ったのである。
 その後一年ばかり田宮君はじめ所員一同必死と奮闘を続けられたが、いわゆる駑馬に鞭打つようなものでなかなか進歩しない。そして経済方面もまた大いなる赤字というほどではないがジリ貧状態を続けていた。ところがある日東京の吉井伯爵がある用件で呉へ旅行され、その帰途鈴木商店へ立ち寄られて言うには、呉の山内(当時呉鎮守府長官)の話であるが、鈴木が神戸製鋼所をもっているからあれを俺の方(海軍)から援助しようかというのでその旨をお伝えする、と老生に話された。そこで直ぐにそれを田宮君に伝えたところ同君大満足でよろしく頼むとのことであった。故に依岡省輔君を吉井伯に付き添わせて呉へ行ってもらった。ところが、山内氏が言われるには、民間で製鋼業が発達することは海軍が喜ぶところであるから神鋼においても大いに努力してもらいたい。しかし今の処理技術は未熟なようだから、俺の方から相当の技術者を割愛しよう。そして注文品も出そう、とのことであった。依岡君は直ぐに鋼鋳物若干の注文を引き受け、帰神の上報告された。実はこれが製鋼所助けの神様であったから田宮君は雀躍した。その後、呉から技術者の割愛を受け、順次運勢は正しく向上の一途を昇り、収支計算もまたこの時から黒字に転ずるに至ったのである。その上、呉を始めとして横須賀、佐世保、舞鶴等の海軍からもまた相当の注文が続々到来するようになったのであるから製鋼所は春風秋水一時にいたり、にわかに面目を革め黒川勇熊少将を迎え社長に専任し初めて陣容を整えた次第である。もっとも元来老生は当初から専門的に機械類を造らせる考えではなく、柳田君の説のように、洋釘、丸角棒、鉄板のような商品を製造させるつもりであったから、海軍の注文を引き受けてほとんど機械類を専門とすることには少々気が向かないところがあった。けれどもここに至ってこれに賛成せざるを得なかったのである。そして以後、黒川勇熊少将、鈴木岩治郎君、伊藤乙次郎中将、永安晋次郎中将を経て現社長田宮嘉右衛門君に至ることは何人も先刻ご承知のはずである。
 そして大正三年欧州大戦に当たり鉄の大飢饉と諸機械類の大欠乏に遭遇すると、製鋼所は献身的に従来のうんちくを傾けつくし、内外の需要に応じ世の称賛を博した。またこの頃から丸角等鋼材商品類の製造をも開始して工場の大拡張を行い、かつ造船部を新設し大いに社業を拡大させた。これが社長以下重役職員の努力によることは世の知るところとなったことはここに記すまでもない。不幸にして始めから本社を支持し本社の原動力だった鈴木商店が突如昭和二年支払停止を行い、その主権が台湾銀行に移るとと共に、一時各般の事業に多少の蹉跌をきたしたのは千古の遺憾と言わざるを得ない。そしてその罪は全く老生にあり、老生不敏の致すところであることを自覚しているのでこの機会に謹んで陳謝の意を表する。
 そして台銀時代に入り一般の景気また不振にして業績意の如くならざる場合に処し、田宮君以下職員の努力また大いに称賛に値するものあり。すなわちすべての仕事を緊縮し万事万端節約を基とし整理を行い、ただ利のみこれを拾い、収支の均衡を整え、なおその間現在最も有用なる線材工場を新設し置きたるが如きすなわち是なり。そしてまた台銀時代の末期よりいわゆる満州事変なるものの勃発するを見るや、従来の海軍の他に陸軍省の御用をも引き受くることに努力し、同省より相当の信任を与えられ、現在多大の注文を受けつつあり。そして資本金を二千万円から四千万円に増加し以って軍国の要求に応じつつあり。すなわちこれらは田宮君以下職員の努力によるものであるから株主として大いに感謝して可なり。
 要これに神戸製鋼所は鈴木商店が引き受ける当初から専ら現社長田宮君が経営しているが、途中において依岡省輔君と松尾忠二郎君がこれを援助した。それでももし田宮君がいなければ鈴木商店が同所を引き受けることはなかったかも知れない。故に今日同所の盛観ならびに信用等はすべて同君の誠実勤勉なる努力の賜物であると言うことが出来る。そして創業の際の小杉辰三君らにいたっては肝心の製鋼作業を失敗しついに辞職された半生半熟の一技術者として葬り去るには忍びないものがある。
 すなわち、神戸製鋼所は専ら小杉くんの計画になるものであるが、その設計は誠に用意周到なものであって、今日製鋼所が鋼の質につき絶大な信用を有する理由もまたその一つであり、実に同君の賜であることを思わずにはいられない。すなわち同所総合当時は諸機械とともにフィラデルフィアから燐と硫黄の最も少ない優良な特別のスクラップを多量に輸入されており、最初からいつもこれを原料として製鋼したのであるから、作業に失敗を続ける間にも生産した鋼の性質はすこぶる優良であり、当時日本における鋼の創業時代であって各所に製鋼所というものが建設されていたが、いずれの製品もその材質は神戸製鋼のそれに及ばなかった。すなわちこれが同君用意の行き届いたところであって、今日神鋼の材質がどこでも最優なりと歌われる江湖に信用を博している所以であるから、この点大いに同君に感謝しなければならない。
 そして小杉君の例を他に求めるなら若松製鉄所における和田博士のようなものだと思う。すなわち和田維四郎博士は四十年ほど前に若松の製鉄所を創立されたが創業七八年間はその成績が不良で無能、無識だと攻撃されていたけれども、その後に至って和田博士の設計は実に優良であった。それが当を得ているから今日の盛況を呈するわけだと何人も礼賛の辞を惜しまないのである。小杉君もまたこれに匹敵する。ついに臨んで汽車の窓から大陸を眺めてその地理を論ずるようなものではあるが、鋼鉄技術の推移と神鋼の地位とその行方を論じて筆をおこう。すなわちいずれの学者も鉄のことを大層に論じているけれども、その学理はともかく技術はさほど至難なものではない。ただこれを実験する場合に他の化学物のように試験管を上下したレトルトで煮たり沸かしたりするような手軽いことではいかない。少なくとも何トンかの炉を動かさなければ実験ができないから、この技術の進歩は誠に遅いのである。
 当初老生は神鋼で鉄の商品類を造ろうと当事者に度々相談してみたが、それを行うことはなかった。なぜ行わなかったかというと神鋼が従来造っている鋳物あるいは諸機械の材料は当時トン二百円くらいであった。しかし、アングルのような商品は百円内外でなければ売りに行かないが、原料のビッグやスクラップの代価から論ずると採算があいそうに思われたがこれを実験して見なければその当否は分からない。そしてこの実験はすなわち短時日と少ない費用ではできないという理由で行われなかったのである。
 しかし欧州大戦が始まると鉄類が暴騰しついには一トン千円近くになったからこの相場なら実験をしなくてもインゴットを製造しても引き合うということで、普通は鋼鋳物ばかり造っている製鋼所でもにわかにインッゴトを製造しそのまま転売したりまたは引き伸ばして普通はアングルと称するものをこしらえ売りに出すことになったのである。これは小倉と神鋼が一番早かった。そして始めはインゴット一トン三百円くらいかかったようであるが、原料のビッグやスクラップが低落するに従って百二、三十円くらいでできるようになったそしてこの時分から将来百円以下で製造することは難しかろうと誰しも言っていた。ところが、歳月が経つに従って技術が進歩するのとますます原料が下がるためにインゴット一トンがたったの五、六十円でできるようになったのである。
 すなわち、鉄の市価が暴騰したら実験などは度外視しインゴットを製造して採算が合うことが分かった。そのため、いずれの製鋼所も引き続き鉄の商品を盛んに造るようになり、その中大阪が最も盛大で一時は大製鉄所無用論まで起こったくらいである。そして神鋼としては今は陸海軍および民間注文の機械類とともに線材、丸角棒等商品類を盛んに製造しているのであるが、製鋼所の当事者として将来はいずれかといえば線材、その他の商品類の方に大いに望みもある。しかし日本の商業史によると、今日までの機会制作作業は誠に振るわなかった。どこの機械製作者もジリ貧状態で銀行から愛想をつかされ通しであったが、それは機械の製作が未熟であるのと外注の機械が安かったからである。今日は事態は一変しており、日本で製作する方が外注よりも安く、かつ性能もまた外品に劣らずかつ諸工業勃興の時代に移っているのであるから、機械製作業の今の地位は福の神に恵まれていてすこぶる安固である。のみならず神鋼は重工業の機械製作者として相当の権威者で顔が広く売れているのである。いやしくも神鋼に職を奉ずる人としてこれを自覚せずして可ならんやだ。故に製鋼所としては今後も商品製造の方も機械製作の方も大々的進歩発達を期して可なりである。そしてその外に造船業と電機と軽金属の冶金業を有しているが、いずれも時代の要求にかなったもので今後ますますその盛況を占うに足るものである。しからば神鋼は将来何を目標として進むべきか。もちろん老生に関する限りではないが、アームストロングたるべきや、クルップたるべきや、またベツレヘムたるべきやであろう。

 さてここにまた第一次欧州大戦当時の製鋼所と金子翁の話に戻るが、翁が常に命を顧みずに事業に活躍したその頃の翁の面目躍如たらしむるに足る一挿話がある。