大正四年の夏、翁は例の如く東京に出てステーションホテルに陣取って色々な商用をしているうちに赤痢のような病気に罹った。そこで内幸町の長興病院に入院し一、二週間治療を受けていると、陸軍省の某がロシアのブリーネル商会の店員という男を紹介してきた。ブリーネルは露国政府の内命を受けて六寸の野砲の砲弾五百万発、信管五百万発およびそれにかなう無煙火薬の注文にやってきたというのであった。
その頃ペトログラードからは商品の注文が盛んに来て五十万円、百万円くらいのものはいくらでもあったが、一口何千万円と儲かるほどのものはなかったので、余り相手にしていなかった。しかし長興病院の二階で寝ながら勘定してみると一発二十円としても一億円である。多少骨は折れても仕事になりそうだから、これをひとつやってみようかとロシアから来たブリーネルの代表者と病院で会見すると、値段は何程で引き受けるかという。腹の中で計算してみると信管の方は混みいっていてちょっと計算がつかないが、砲弾はおよそ目方も分かっているから見当がつく。そこで「六寸の弾体一個十八円なら引き受けよう。そして十八ヶ月で揃えあげる」と即答した。するとブリネールの代表者は「日本に来てあちこち注文を持ち歩いたが値段から期日まできっぱり言ってくれたのは貴下が初めてである」と言って非常に喜んだ。段々交渉していよいよ話が決まりそうになったので利益を積もってみると、原価一個十円につかない。少なくとも四、五千万円は儲かるので面白くなってもうじっと寝ていられない。医者や友人から止められても商売には変えられない。商売は平和の戦争である。商人は商売のため生命などかまっていられないと言って、無理に神戸に向かって出発した。途中大阪によって念の為砲兵工廠に行って信管を作る工場を見せてもらったが、これは実に製作が厄介であったからその引き受けは断ったが、後にそれを引き受けたのが大阪の小西喜代松一派で、結局大失敗し大穴をあけ、大阪経済界に大波乱を起こしたのが落ちであった。
神戸に帰り着いた翁は即時製鋼所の技術者と幹部を呼び機械から弾体を作るまでの準備をさせたが材料は得難いというので翁自身がこれを引き受けた。その材料は亜鉛、鉛、銅、錫でこれらの非鉄金属はどこの国でも当時輸出禁止になっていて容易に手に入らない。銅は日本が産銅国であるから差し支えないが鉛と亜鉛には困った。欧州大戦当時真っ先に困ったのもこの亜鉛であるが、鉛も二万トンほどいる。これまで鉛を日本へ輸出していたのは豪州であるが、これも戦争になってからは入ってこないので非常に困っていると、「ロシアのテチヘにドイツ人が経営していた鉛の鉱山があって掘り出されたままの鉱石がかなりある」との話を聞いた。段々調べてみると、テチヘの鉱山管理人がブリーネルであったので幸いにも鉛の鉱石は手に入れることができた。けれでも鉱石から鉛を生成するのがまたひと仕事で、亜硫酸ガスが飛散するため普通の場所ではやれない。幸い岡山県の日比という人里から離れたところに銅の精錬場の売物があってこれを買収した。後の日本金属会社の精錬所がそれである。
次に亜鉛であるが、豪州が輸出を禁止して以来値段が暴騰して困っていたが、支那の内地を調べると厘銭がたくさんあった。それを分析してみると銅が五十五%、亜鉛が三十五%、アンチモニー鉛が十%から成り立っていることがわかり厘銭を買い集めた。しかし、これを日本へ持ち帰るには税関その他の面倒があるので、当時軍政のしかれていた青島に一度持ち込み、それから内地に送って大里精錬所をこしらえて、銅と亜鉛と鉛との三つに吹き分けた。だがそれだけではまだ粗製品で砲弾の材料にならないので、更に電気分銅所をこしらえた。銅は電気分解を行い、亜鉛は彦島に蒸留炉をこしらえてこれを精錬した。しかし厘銭からとった亜鉛のみでは都合が悪いというので、更に豪州から亜鉛鉱石を買いこれを混ぜて彦島で亜鉛精錬を行った。後の日本金属会社の彦島亜鉛精錬所がそれである。これだけの準備により、やっと出来上がりいよいよこれから砲弾をこしらえて金を貰うという段取りになっていると、思いもよらずロシアの帝政は巨木の如く倒れたので、長興病院の二階で氏が想像に描いた一挙四、五千万円という大金儲けは結局一場の夢と化した。しかし、買い集めた鉛、銅、亜鉛はいずれも相場が暴騰していたのでそれでも相当利益を見ることができた。
製作の裏面に販売の手腕がなければ事業は発達するものではない。神戸製鋼所について金子翁の商略と手腕の一、二を述べてみよう。神戸製鋼所の最初の大口注文は横須が工廠の軍艦薩摩の艦尾材、一個の重量が五トン大のものであったが、これが納期に遅れ罰金を取られることになった。係りの者一同は青くなったが、翁は、こんな重量物は鈴木の他にできるところはありやしないと平気で解約罰金を納めた。さらに再入札になったが、果たしても誰も入札する者がなかったのではやり鈴木商店が落札し、罰金以上の高値で落札し、損を償ってなお余りある利益を得て納入し無事に片付けたことがある。
次に明治四十四年頃のこと、鉄道の高架金具鋳鋼品六百数十個を新橋駅から東京駅までの連絡の高架橋梁に使用することになり、石川島造船所で高架橋梁全部の注文を引き受けその鋼の鋳物だけ神鋼が引き受けた。その価格は三万何千円であった。しかし鋳鋼物の湯口のところどころに巣ができた。それを電気鋳掛けして納期が遅れ、石川島の契約からすると三万何千円ほど延滞罰金となった。代金の支払いがないと石川島から言って来たので、その係の松島誠は閉口した。丁度の時金子翁が上京中なので、日本橋の旅館島平に飛んで行って相談したら金子翁は翌朝人を鉄道院総裁後藤新平伯のところへ使いをやり、総裁の紹介名刺をもらい、松島同道新橋の鉄道院経理課購買係を訪問し、白杉という係長に会った。金子翁は至極丁寧に平身低頭して納品の延滞を侘び、「鋳鋼は我が国では民間工業として初めてのもので、困難な仕事であるから普通鋼鋳物のように美しくは仕上がらないが、巣湯口は電気鋳掛で十分入念に直してあるからその強力さは一向に影響なくかつ使用上危険等は絶対にない。これはいかなる方法で試験されても大丈夫である」と説明した。松島らは既に再三このような事は頼んだのであるが、金子翁は上手に軽く詳細を極めた話をするので先方も同情し、二、三の技術員を呼び寄せ色々尋ねられた結果、鉄道院でも鋳鋼物は初めての購入で検査にも素人で不慣れのため不合格とあったのであるが、一つは後藤総裁の名刺が光ったのか、罰金全部免除の恩恵に浴し、三万何千円の延滞金は棒引きとなり、請負代金全部を領収することができた。このような交渉は実に見事なもので相手を満足させ、知らずしらず相手を魅惑する話術と手腕を持っていたのは傍の人々どもが常に感心にたえないものがあった。