「目の寄る所へ玉が寄る」という諺がある。鈴木商店に集った人材は実に多士済々で、天下に有名なのは藤田、金光、長崎、田宮、北村、久村、大屋、高畑、永井等上げて数えるのに暇がないが、ここに述べる依岡省三、同省輔は曽我兄弟のように揃いも揃って異彩を放っている。しかも彼は金子の郷党の子弟であってともに金子なる伯楽に見出され大いにその長所と鋒頭を顕した人物である。金子直吉という人だからこそ依岡兄弟を発見し、これを適用し、信頼し、活用したのである。金子は依岡兄弟の人物を最もよく把握した伯楽であった。彼はこの兄弟を評して「依岡一家は非常に覇気があり、島稼ぎが好きであった」と言っている。日本語に「島稼ぎ」といった熟語はない。金子直吉がこれを創作して「依岡一家」の人物評に用いたのである。けだし、省輔の伯父伊太郎、兄省三ふたりの生涯はこの一言に尽くされている。そして省輔もまた「島稼ぎ」の一人であった。ただこの「島稼ぎ」は前二者よりも多難、多彩であった点だけが多少趣きを異にしている。
依岡君(省輔)が住んでいた所は高知の新町といって高知藩士の多くが住んでいたところであった。そこから多くの人物が輩出された。鹿児島の加治町は多くの偉人を出しているが、それほどではなかったとしても多少の類似点はある。依岡君の同輩は皆相当な人物である。陸軍にも海軍にも傑出した人物が多い。永野海軍大将もその一人であると記憶している。依岡省輔君はそれら第一流の人物とは異なっている一種の傑物である。この「一種の傑物」を縦横の快腕で揮わせた金子直吉その人こそまた一個の偉人である。
依岡省輔の六十五年の生涯は実に波瀾重畳である。依岡と金子翁の関係および神戸製鋼所や鈴木商店の波乱多き浮沈の問題を記すとまるで一遍の小説のようである。
省輔がかつて下関を去る一里余りの小港、長府において色々な事業を計画したがことごとく失敗に終わり、明治四十一年神戸にやって来て、同郷の先輩金子直吉翁を尋ねたのが事の起こりである。この事についてはーー金子直吉自身の談話および手記によると、金子と省輔とのつながりは明治三十五年からである。三十五年に、省輔が坂出鳴海の妹、龍子と結婚した。その坂出鳴海の父楠瀬氏こそ鈴木商店の一柱石となって多くの仕事を残した人物である。鳴海はその次男であり、龍子は次女に当たる。そして楠瀬は金子の先輩として私淑信頼していた人物であった。そこで省輔と龍子との結婚式には金子も招かれて出席し、「楠瀬さんの婿さんはこんな人か」と意識したが、もとよりその時は省輔と通り一遍の挨拶を交わしただけであった。明治四十一年になって、坂出鳴海が金子を訪れた。坂出は当時朝鮮総督府の土木技師で、鴨緑江の開閉橋架設工事や、釜山築港桟橋建設の責任者として盛名を馳せていた。彼は金子に省輔のことを頼んだ。
「依岡も清津から半島の方で仕事をやっておりましたが、少々失敗のようで、時々私のところに無心に来て困ります。しかし、あの男はまだまだ捨てたものでもありませんから、どうか彼の前途についてお考えおき願います」
ということであった。金子は先輩楠瀬の次男である坂出のことを無碍に断ることもできず、いい加減な挨拶をしながら、「実はいささか迷惑を感じたくらい」であった。ところが、この年明治四十一年、省輔の世話で大東島の砂糖栽培の事業を、金子が経営している東洋製糖で買い受けることになった。こんな因縁が出来たところへ、省輔がいよいよ長府から神戸にやって来るという内報が金子の所に伝わった。
省輔がどのような動機で長府から神戸に行くようになったかと言うことについては、省輔自身の記録はない。ただ、長府を去る決心は十一月初めにしていたことは日記でわかる。十一月六日の日記に、
「終日取り片付けのために多忙。
明日より雨に嵐に麻耶時雨 岳子」
とあるところを見ると、神戸で大いには働く決心をしたようである。そして、十一月十一日に長府を出立している。
「十一月十三日(土)朝九時、第二南越丸から神戸に上陸して薩摩屋で休憩する。午後三時、鈴木商店にて金子氏を訪問した。五時に金子氏来る。十六日再会を約束して帰る。
十一月十六日(火)鈴木商店にて金子様を訪れ、四時五十分から六時まで会談の後、東京行と決する。金子氏から夕方六時、旅費一〇〇を受け取る」とある。省輔が金子に会うまでには、これだけの緊張した準備があったのだ。金子はこの時はまだ省輔を鈴木商店に入れることについては何も考えていなかった。省輔は全く背水の陣を布き、妻子を伴い家財をとりまとめて出て来ているのだ。彼のある友人の手記によると、彼は上京の途次神戸に立ち寄り、金子に会見したところ、東京まで行かなくてもここで働いたらよかろうと言われて上京を思いとどまり、家族を神戸に上陸させたとのことである。これが真実ならばいよいよこの時省輔は背水の陣を布いていたわけである。しかし恐らくは、最初から金子をたよって神戸に出たものであろう。
金子直吉と依岡省輔の対面の場は、事、省輔の一生の浮沈をかけた大切な場面であるだけに諸説紛々として確たる資料を得るのに苦しむのである。ある人(依岡栄二)の話によると、金子は後で、「わしゃ、あないな横柄なルンペンを初めて見た」と言ったとのことである。また、浅岡信堂の手記は更に愉快なもので、さながら当人が側で傍聴していたような書きぶりである。左にその原文のままを抄録しよう。
金子氏は彼(省輔)に向って、「おまさんの最も得意とするところは何かな」と問うた。彼は言下に答えた。
「私は別段すぐれたものを持ちません。強いてお答えすれば、体が大きいから人並以上に大食いをすることと、知事や将軍を説き伏せるくらいのことです」
金子氏はこれを聞いて笑いながら、
「それは立派な技術じゃ。当今、閣下連中を説き伏せることの出来る人は少ない。それがおまはんに出来れば見上げたことじゃ。それなら東京に行かんでも、神戸にも相当な仕事があるじゃろうから、まあ、ともかく神戸に足を止めて見てはどうじゃろか」
思いがけない親切な金子氏の言葉に、一身を托することとなり、船から家族、家財を神戸に揚げ、東上を断念して、某家の二階を借り受け、金子氏の命を待つこととなった。
浅岡信堂の手記によると、省輔は本来東上の目的で神戸に立ち寄り、たまたま金子に引き止められて神戸で働くことになったと言うのだが、これは省輔自身の日記の方が正しいとせねばなるまい。
最後に、この対面については金子直吉自身の手記を見る必要がある。それによると、
「省輔が神戸へ乗り込んで来ると言う内報があったから、どんな顔をして来るかと思って待っていると、やがて須磨の私の宅に来た。会って見るとなかなか活発で落ち武者のような熊度は少しもない。すこぶる元気で、何でも知っている、何でも出来る、という風で、相当に見識もあり、意見も立つようであったから、これなら何か役に立つであろうと思って鈴木商店の事業の端くれをボツボツやってもらった」
こうして依岡省輔は、金子直吉と会見の結果、神戸鈴木商店に入った(明治四十三年十一月十三日)。そして神戸製鋼所に入るようになった当時の事情も金子の手記によって分かる。
鈴木商店は当時すでに神戸製鋼所を設立して鋼を造り始めていた。金子のペンによると、「その頃日本で鋼を造ることが一つの流行となっていた」。まさか「流行」したのでもあるまいが、金子のように自家の事業を通じて時代を見ると「流行」とも見えたのである。ともかく、製鋼事業台頭の時代で、呉の海軍工廠から製鋼材料の大きい注文が出た。そこで鈴木商店もこの注文の入札に参加することになり、井田亦吉、依岡省輔の両名を呉に派遣した。ところがその注文品の規格と、鈴木が供給しようとする規格とが、百分の一か千分の一か、極めてわずかの相違があって、鈴木はその入札に参加することができない。省輔は井田と共に空しく神戸に帰った。しかし、金子はそのままで引き下がるような男ではない。彼はかねて懇意な間柄である吉井伯爵が呉の山内海軍工廠長と同窓であるということを知り、直ちに吉井伯に電報で懇請し来神してもらい、依岡省輔を付き添いとして重ねて呉の当局ヘ相談に行ってもらった。すると山内工廠長は吉井伯に、「お前のいうことであるから聞いてやりたいけれども、その万分の一、千分の一が国家の強弱に関するのだから、とてもできない相談だ」ときっぱり断わった。
吉井伯も取り付く島もなく宿屋に帰り、まさに停車場に行こうと支度していると、山内工廠長が追いかけて来て吉井伯に言うには、「今、鈴木が世話をしている神戸製鋼所と言うものを俺の『海軍』の方で世話してやろうか」とのことだった。吉井伯は、これには即座に返答ができないのでいずれ後から返事をすると言って帰神した。その報告を聞いた金子は、直ちに神戸製鋼所の田宮嘉右衛門に伝えた。田宮は手を打って喜び、早速その申入れを受けることにした。そこで省輔がすぐ呉に引き返して、山内工廠長に神戸製鋼所のことを頼んだ。山内工廠長は即座に相当の注文を出し、かつ技術者も派遣することとした。その当時は鋼を造ることがなかなか困難であって、神戸製鋼所もその技術が未熟で、内々困っていたところであったが、呉の工廠から技術者が来ると、その指導によって初めて立派な鋼ができるようになった。これで神戸製鋼所は全く生き還ったようなものであった。また、海軍部内には省輔の同郷の先輩、後輩が相当有力な地位を占めていることがわかった。すなわち、山内工廠長の後任に省輔の同郷の友人坂本中将が就任し、それから次第に各部面の幹部の人々と因縁がついて、製鋼所の仕事もだんだん拡充されるようになり、省輔は大いに手腕を振るうことができた。もちろん吉井伯が海軍部内とよく連絡をとっていたことも製鋼所の信用を高めていたが、省輔の盛んな活動力がなかったならば神戸製鋼所の発展は望まれなかったであろう。
その頃はまだ神戸製鋼所は鈴木商店の一部として存在していたに過ぎなかった。しかし、省輔の活動の効果が著しく現れ出して将来有望なことが分かったので、明治四十二年十一月、株式会社として独立させ、依岡省輔はその専務取締役に就任した。
なお依岡の功績については、神戸製鋼所内の記録にこうある。
「明治四十二年十一月、株式会社神戸製鋼所専務取締役として就任、これ以来在職十八年間、同社が神戸脇浜における一小工場だった時代から鋭意これの成長に尽力し、よく陸海軍需品の用命を果たし、国家国防の上に貢献した。そして、依岡の経営が良かったため、逐次内容の充実と施設の完備を見るに至り、現在公称資本二千万円、全国各地における分工場ならびに満洲における満洲鉄鋼所を擁し斯界に大いに貢献した。これは、実に依岡の刻苦の経営の功が至大であったからである」
まことに、神戸製鋼所は省輔の全霊をぶち込んだ事業であり、その全人格の現われであった。
彼の業績は、彼の生活と性格と精力と精神とをことごとく傾注した結果であった。
「依岡君が専務に就任してから、同君は益々敏腕を振われ、海軍との関係を密接にし、神戸製鋼所を今日のように大きくしたのみならず鈴木商店に様々な貢献をした。すなわち、現在の東洋ファイバー会社も依岡君がアメリカで盛んになっているのを知ってすすめられた。日本冶金会社のやっている電灯のフィラメントも依岡君の建議によって始めた。水力電気も二つ三つやりましたが、それは今は残っておりません。兎に角非常に頭が鋭く、かつ進歩的であった。一寸欧州に行っても今のネオンガスを見てその権利を取って帰った。それから兄さんの省三君を私に紹介して、省三のやっている日沙商会のゴム園の事業を、鈴木商店に持ち込み、これの経営についても努力されている」
昭和二年の金融恐慌から鈴木が破綻し我が財界の動揺と混乱の波濤は神戸製鋼所にも真っ向から浴びせられた。専務の依岡省輔は持ち前の豪腹でこれを乗り切ろうとしたが、信用と現金を失った大会社を一省輔の力で支えることは到底不可能であった。
事々に銀行側の態度が強化されても豪傑省輔は断じて屈服しなかった。短気な彼は少々嫌気がさしたと見え、直に辞表を親友田宮に渡して多年手塩にかけて育て上げた製鋼所を去った。彼が神戸製鋼所を去る前にある人にかけた電話の言葉に「私は鈴木のためにやり通す決心です!」と言ったのである。如何に依岡が鈴木に対して深い恩義を感じていたかが分かる。彼は神戸製鋼所在勤当時から兄省三の遺志を尊重して日沙商会の社長をやっていた。神鋼引退後は残りの生涯を全力を挙げて日沙商会の経営に捧げた。