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帝国人造絹糸株式会社の創立

 次に金子翁が着目したのが人造絹糸である。およそ世界に織物用の繊維としては生糸、羊毛、綿の三つがあるが、日本にはわずか生糸があるのみで羊毛も綿もできない。何とかして外国の援助を借りずに織物用の繊維を作りたいというのが翁の多年の希望であった。外国から来る商品見本の中に人造絹糸があるの目をつけ、セルロイドと人造絹糸とを一緒にやる約束で明治四十年前後、三菱や岩井商店と提携して播州の網干に、日本セルロイド人造絹糸株式会社というのを起こした。近藤廉平男を社長として事業を始めたが、セルロイドのみこしらえて人造絹糸の方は技術不鍛錬のために後回しということになった。翁は非常にこれを遺憾として会社の松田専務を海外に派したり、また知人で外国に行く人があれば人造絹糸に関する調査を頼んだり、常にその研究を怠らなかった。そのうちたまたま人造絹糸の取り調べを頼んであった専売局の河合勇が帰朝して各国の人造絹糸に関する特許書類を渡してくれたので、これを翻訳させて各国における人造絹糸の研究がどの程度にまで進んでいるか調べてみた。すると、翁がかねて想像していたのと異ならなかったので一層これに興味を感じ、是非これをやりたいという希望がますます湧いてきた。
 その当時東レザーの技師長久村清がヴィスコースの研究をしていて、これから人絹を造ることを考えていたが同社の研究室には動力の設備もなくまた研究費も出ないので誰か相棒を探してこの研究をやってみたいと思っていた。たまたま同学の友人秦逸三が神戸税関の検査官を辞し米沢高等工業学校の教授をしていたので、この人に相談して同校の研究室で人絹の研究をすることになった。
 秦は久村のアドバイスやヒントを得て様々研究した結果、とにかく糸のようなものを作ることができた。しかしそれ以上研究費もないので研究を続けることが出来なかった。そこで久村と相談して相携えて金子翁を訪問し、人絹研究の事を話し、研究費の援助を得たいと頼んだ。金子翁は前記のように人絹に着眼していたところだから大いに喜んで研究費を出すことになり、米沢の高工において人絹の研究が続けられることになった。
 その後ヨーロッパ戦争が始まった時、秦は製品を持参し、学校の実験室ではこれ以上やれないという。見ると、余程前よりは進んでいたがそれでも米沢の機屋では危険がって使ってくれない。ただ紐屋が羽織の紐に使い需要もだんだんと増え、一月五十ポンドや百ポンドは買いましょうというところまで達していた。
 この研究時代にも、東レザーの久村技師の天才的発明力により終始陰に陽に秦技師の研究を助け、指導したことが日本人絹製造の元祖となった。
 大正四年四月桜花爛漫たる時大隈内閣が成立したので、大隈伯は早稲田邸に全国の実業家を招待して祝賀の宴を張った。金子翁もまた宴に列し数多の実業家と歓談していた。そこへ米沢から電信があったということで、東レザーの主管松島誠と小野三郎らが神戸から来て宴席から金子翁を連れ、自動車に乗せ上野駅で米沢行の汽車に乗せた。車中モーニングを背広に着替えさせ、翌朝八時米沢に着き、直ちに工業学校に到り、大竹校長、秦教授に会うと工場の話が出た。それは昔、藩主上杉鷹山公が、維新後旧士族を救済する目的で蒸気機関動力として絹糸事業をやるために建てたという大きな製紙工場であった。雨漏りで軒は傾いていて荒れ果ててはいたが敷地内には桜や桃が数百株もあり咲き誇っていた。明治十三年、明治天皇が東北巡幸の際、ご宿泊になったという質素な便殿もそのまま残っていた。製糸工場は敷地一万二千坪、建坪二千坪もあろうという大きな建物で、その当時にあっては余程奮発してやったもので、さすがの翁もその卓見には驚いたという。そこでともかく右の建物を五千八百円で買い取り、工場の一部に修繕を加え東工場分工場米沢人造絹糸製造所という長々しい名前の看板をかけ、秦には高等工業を辞職させ専門に人造絹糸の製造をやらせた。一日三百ポンドの人造絹糸をこしらえるようになったのは大正五年の春であった。これが工場の第一歩であった。出来た糸は羽織紐、組糸専門に売ることにした。まだデニール不揃いで粗末なものではあったが、戦争中外国から人造絹糸が入ってこないので、それでもかなり売れた。しかし一日に三百ポンドの計画はあったがその半分の百五、六十ポンドしか出来ないのと、糸に光沢がなく毛羽があって製品が悪いということで、絶えずあちこちから苦情が出ていた。秦は技術上では天才久村に一籌を輸するので、久村も常に直接間接秦を指導して人絹製造の工程を助けたため、秦も内心ほっとしていた。こうした状態で大正六年に及んだ。そのころどこからともなく外国の人造絹糸が輸入されてきた。それに比べると米沢のは大分遜色があった。どうにか改良して精巧なものにしなければならないと考え、色々西洋の人造絹糸を調査してみると英国にはコートールド会社というのがあって人造絹糸を一手に握っており、また従業員からは解雇されても十五年は秘密を守るという誓約書をとっているという状態で、どうしても技術上の鍵がつかめなかった。
 これより先とにかく西洋の人絹工場を視察して来る必要があるというので大正五年の暮に秦が洋行した。秦の留守の間は米沢の工場には東レザー会社久村清太に工場を経営させた。久村は小学校時代から物理や化学が好きで青年時代既に発明的奇癖があった。のみならず、経済学、哲学、医学、文学等の書物も相当読んでいる。いわゆる何でもできる天才的な人で秦の洋行中も種々と研究を進めていた。一方西洋に行った秦はモスクワに立ち寄った際人絹工場があることを聞いたが工場は決して見せてくれなかった。その内シベリア鉄道が不通になったので、ペトログラードから、スカンディナビア半島に渡りそれから英国に行った。当時はドイツの潜航艇が軍艦でも商戦でも片っ端から撃沈させるという時代で、小蒸気船に乗って潜航艇の間を縫って行くという危険を冒してようやくたどり着いた。ロンドンには人造絹糸の本場であるコートールド会社の本社があるので、同社の田舎にある工場内を見たいと、当時ロンドン高畑支店長も骨を折ったが、その甲斐なく色々手をまわして苦心したが遂にその目的を達することは出来なかった。高畑の通訳でビスコースの発明者チャールズ・クロッスを訪ねて人造絹糸製造の企図を話したら大いに激励された。その頃松方幸次郎もロンドンで秦の苦心のありさまを見たが、実に惨憺たるものであったと後に金子翁に話したことがある。このように秦は色々と苦心したが、遂に技術の秘密を探ることができないで危険な海上を米国に渡り、米国においても手を尽くし苦心を重ねたが、これまた要領を得ずにただニューヨークでモントゴメリー・ワデルという人絹研究家の指図で遠心分離器、厭濾器、ピスコース溶液熟成器等を注文しその価格八万円のものを買って帰った。そしてその機械を米沢に据え付けて久村と共に研究を続けたが、期待したほどの成績を挙げることはできなかった。
 ここにおいて再び海外へ技術の秘密を探ることとなり、今度は久村清太が秦に代わって行くことになり、大正七年から八年にかけてアメリカに出かけた。この時、久村はナショナル人絹会社という人造絹糸の工場が技術的欠陥のために破産してクリーブランド市の裁判所の判事シャレンバー氏が破産管財人となっているのを聞きつけ、その工場の機械を買うから一応工場内を見せてくれと頼んだ。同人が休んでいる工場を案内して紡糸室に行って見たが、各紡糸毎に小型のギヤポンプが付いている。かつて日本で分からなかった糸の太さを調節する秘密はこれだなと欣喜雀躍し鬼の首をとった気分だった。
 一方秦の研究も大部分進んでいたので二人の研究の結果を総合して従来の欠点を一掃し、コートールドとほとんど同様程度の製品を得ることに漸次成功した。その研究を基礎として創立されたのが広島市千田町にある帝国人造絹糸株式会社である。これが本社となり、米沢の工場は分工場ということになった。
 広島工場は神戸製鋼所鹿島分工場内の空いている敷地内に建てたのであるが、時偶々鈴木商店が米騒動の暴徒のために神戸の事務所が焼き払われ混雑の最中であったので工事は大分遅れた。工事半ばに鈴木商店ロンドン支店長高畑誠一からドクトル・ドレーバー氏が人絹の新製造法を発明したから技術者を派遣せよと金子翁に申し込んできた。高畑は従来から人絹事業について翁に献策し、また声援していたので、久村技師は再び金子翁から洋行を命じられ、ニューヨークで白金のノズル(紡糸口金)を買ったり、ロンドンでドレーバーにも会ってみたがこれという目新しい発明でもなかった。けれども再度の洋行でおみやげの獲物を持参して帰った。丁度その時野口遵がやはり人絹工業を開始するためその視察にロンドンに来た。紹介状の手前もあり高畑邸で久村、野口、高畑会談の結果、野口が同じ人絹をやるなら外国の会社と提携してやろうではないかと説いた。しかし自信たっぷりで、ほとんど独力で成功の域に達した久村技師としては外国の技術に依存の要なしとして鼻柱の強い野口の提案を拒絶し、自己独特の久村式で進んだ。丁度その時、野口はドイツの人絹製造家と提携の意思があり、空中窒素固定でもイタリアのファウザー法の買収を交渉しようとしていた。鈴木商店の金子と野口とは偶然人絹と人造空中窒素固定の二大新事業の衝突を見たのである。
 久村はさらにドイツに渡り斯界の権威者や学会の大家や熟練の技術者に会って色々と意見を聞き、新しい機械や研究報告を買い、さらに繊維素発酵の工場や、リヨンの人絹織物工場等を視察したりして大正十一年八月日本へ帰ってきた。
 帰朝してみると野口が先に帰国してドイツのグランツ・ストッフ会社と契約を結び、前に失敗した旭人絹の敷地を買って旭絹織株式会社を組織しドイツの機械と技術を導入し、非常に傲慢な態度で帝国人絹を攻撃した。しかし久村はそんなことに頓着せず、まず行員を整理して作業能率を改善し、これまで捨てていた廃酸の回収を行った。そのうち注文したドイツからの紡績機が到着すると、従来使っていた四錘連結紡糸機を廃棄してこの型に替え、設備を増設して生産の増加を図り、金子翁の当てずっぽの予言の通り生産原価はどんどん下がり糸の品質も非常に向上するようになった。当初は一日一千ポンドを目的として製造を行ったが、到底一千ポンドは売れまいということで一日五百ポンドの製造をすることにした。しかし糸の品質が良いことと、人造絹糸興隆の機運に際会したのでまもなく広島工場で一日四千ポンド、米沢工場で一千ポンド生産し、次いで広島工場で八千ポンド、米沢工場では二千ポンド、合わせて一万ポンドの糸が毎日生産されるようになった。さらに岩国に新設の大工場を建設し一日に二万五千ポンド、一ヶ年で約一千万ポンドに達する計画を立てた。そのころ世界の人絹産額は八千万ポンドであったから、それだけでも帝国人造絹糸の生産額はその八分の一を占めることになった。さらにその後拡張しているので、従来綿花の輸入が六、七億、羊毛の輸入が六、七千万円で絹の輸出が六、七億円という状態であった。我が国は翁の計画に基づく人絹の発達によって初めて繊維工業上における輸入超過を防遏することができるという重大な結果をもたらすことになったのである。
 人造絹糸はバルブと苛性ソーダ、二硫化炭素、硫酸等を要するもので、紡績や毛織物等のような原料を外国に仰ぐ必要はなく、ことごとく日本の材料で間に合うものである。その上毛織物用の機械も綿紡績の機械も外国から輸入しなければならないが、独り人造絹糸の機械は一から十までことごとく拵えることができるから、この工業は全く日本で独立した繊維工業であると言える。なお化学上技術上久村技師は日本の人絹工業の元祖恩人で、その機械的改善は久村の構想により伊丹技師が引き受け実行に移した。技術上の能力から言えば、製鉄事業のようなものは体力の関係で外国に劣るとも限らないが、繊維工業においては外国人に劣らないだけでなく、むしろ日本人の方が敏捷と器用の点においては遥かに優れており、結局人造絹糸事業は賃金が割安なことも我が国の人絹工業発達の重要原因であることから、天然の絹糸と並んで我が国の立派な輸出品となったのである。
 大正十四年輸出を奨励して外貨を獲得すべしとの与論が盛んになった際、政府も金子翁の意見を聞くことになった。金子翁は人絹の輸入を絶対に防ぎ国内の人絹を増産して生産費を極度に引き下げて、日本人絹の輸出を旺盛にすべきことを主張した。それは政府の方針とも一致して高率の輸入関税を課することになった。そのためその後のバルブの輸入は数千万円に上った。人絹糸および人絹織物の輸出は数億円に増加し、外貨獲得の大役を果たすことになった。
 世人はともすれば人造絹糸を天然絹糸の敵のように考える。しかし、人造絹糸は独自の用途と立場を保持し、羊毛の代用品としてその輸入を減少させ綿糸の代用品として綿花の輸入を防遏する。のみならず、毛および綿に混入させ独自新規の製品を出すことで、むしろ羊毛綿糸の補助品ともなる。また、人造絹糸の発達はさらに内地における天然絹糸の用途にも食い入り、天然絹糸の需要を減少させるからそれだけ多くの天然絹糸の海外輸出を可能にした。その結果、日本の海外貿易上輸入超過を防遏することとなった。
 我が国の人絹工業が勃興して大小三十余りの会社や研究所が出来たが、大半は不成功に終わった。残ったものは次第に発達して大正七年にはその全生産わずかに十万ポンドに過ぎなかった。しかし昭和二年には一千万ポンドを突破し、昭和六年には四千七百万ポンドに増加し帝人のみならず東洋レーヨン、倉敷絹織、旭絹織等の大工場も現れ、昭和十一年には二億七千六百万ポンドを生産し、昭和十二年には一躍三億三千五百万ポンドに達した。この生産量は世界第一位で、第二位はアメリカの三億ポンドであった。そして我が国の最大生産量は帝国人絹であってこの年の生産高は六千万ポンドで二十四会社を有するフランス一国と同じ数字に当たる。帝人は鈴木商店の破綻後、台銀の経営に帰し、昭和八年台湾銀行がその所有株の一部を売却し、取締役に永野護、監査役に河合良成が就任した。その後佐藤社長が病弱のため辞任し代わって高木復亨社長となり、岡崎旭重役に就任した。鈴木商店時代の内海専務は辞し、当時某技師は他の資本家に惑わされて会社の技術者十数名と連袂辞職して新設の会社に身売りなどしてごたごたしたこともあった。しかし大局には影響しなかった。その後台銀が帝人株を売却する際、銀行と買人との間に背任贈賄行為があったとかで新聞紙は帝人事件と見出しをつけ、今日の昭電事件以上に世の中を騒がしたことがあった。それでも帝人会社内部には無関係の事で、これも大山鳴動して鼠一匹も出ず、今日では金子翁と因縁浅からざる久村清太氏が取締役会長、社長が大屋晋三でこの人々らによって経営され、三原に三万四千錘、岩国に三万五千錘の工場を建て人絹会社としては世界有数のものであり我が国の白眉ともいうべきもので他の追随を許していない。帝人の株価が何よりもその内容を表現している。事業を起こした金子翁の先見の明、最初のビスコースならびに人絹研究製造の発意者久村清太氏の達眼と化学の能力、その協力者秦逸三教授が学校で久村氏の要請と慫慂による研究と努力はともに日本人絹工業史から永遠に没することのない功績である。