塩を制する者は化学工業の経営を制する。すなわち、ソーダカリは多くの工業を制するというのが金子翁の信念であった。工業以外我が国民の食料問題の解決、なかんずく食物を安く供給することにも塩の研究はゆるがせにすることはできない。しかし我が国の塩は外国に比べて高い。それは外国と比較して生産が少ないのと生産コストが高いからである。四面環海の国でありながら塩が甚だ不足している。日本の生産費は世界各国に比べて驚くべき割高である。政府が塩を専売品として価格を高くしているのかというと、政府もそれほど沢山の収入を得ているというわけでもない。ただその生産コストが他の国に比べて五倍程度高い。翁は安い良い塩を沢山製造して一般に供給する。これは事業家として国家に尽くす所以であるということに予め着眼していた。折しも名古屋にあった小栗銀行が破綻してその整理委員の田島太郎が色々整理をやってみたが上手く行かない。そこで、関という人が代わってやってみたがどうしても整理がつかない。そこで桂太郎が金子翁を招き「なんとか一つこれを整理する名案はないものだろうか。君一つやってくれないか」と頼んだ。明治四十二年翁は「それはやってもよろしいですが、この芸当をやるには丁度手品の種がいるように、何か種をもらいたい」と言った。桂公は「種なら何なりとやろうではないか」と言われたので、翁は「台湾から内地へ塩を送る権利をもらいたい。そうすればそれを手品の手がかりにして私は整理をやります」と答えた。桂公は「それは安いことだ。それでは台湾から塩を持って来る権利を君にやるからそれで整理をつけてくれ」と頼んだ。そこで金子翁は台湾から塩をもってくる権利を借款に評価して台湾塩業株式会社という会社を創立してその株券を小栗銀行の預金者に分けてやり、とうとう整理を断行した。当時翁は有卦に入っていたので、どんな仕事でも翁が手を付ければ必ず復活する。山下亀三郎は彼を評して「金子さんは壊れた卵でも孵す人だ」と言っている。しかし自分の名聞を立てず、ここでも桂太郎公の弟桂次郎を整理委員にし、精力絶倫の曽根某を計算の任に当たらせた。その曽根を推薦したのが岩谷商店の藤田藤次郎という人であった。しかし台湾塩業会社を組織したものの販路は意のままにはならず、市場の大部分は関東州塩に占領される状況であった。そのような状況を鑑み、金子翁は関東州塩の一手販売を日本塩業へ申し込んだが拒絶された。以後、関東州における製塩を企画し桂総理の紹介で福島関東都督から明治四十五年、普蘭店において三千五百町歩の塩田開発許可を受けた。その翌年藤田謙一、青木一葉らが種々努力工作の結果遂に翁多年の宿望だった日本塩業の株式の過半数は鈴木商店が買い取り営業権獲得に成功し、ようやく日本塩業を兼営することができた。しかしまもなく台湾塩業を日本塩業と合併させここに初めて塩業の統一を見ることになった。その塩業会社は後に資本を増やして大日本塩業となった後、藤田謙一を社長に据えた。
元来、大日本塩業会社は台湾の専売の塩を一手に内地で販売するとともに、かたわら関東州の塩田をほとんど一手に所有してその生産した塩を日本朝鮮の専売局に納入する会社である。その後しばらく利益をあげることができず、その当時既に創立以来二十余念を経過したにもかかわらず、ようやく一割の配当をするくらいで、それまではわずか四分五厘の配当しかしていなかった。そこで鈴木商店では明治四十三年三月、大里に再製塩工場を建設し同年四月一日から生産と販売を開始した。再製塩の原料は関東州台湾の粗製塩を輸入しこれを再生して純白の上等塩にしたものである。販売の結果、市場の評判もよく需要は漸時供給力を増加させ、明治四十五年七月に従来の生産額九百八十万斤を千三百万斤に増加させ、大正二年四月工場を現在の場所に移した。第二次拡張によって千五百万斤の生産能率を発揮するにいたり、大正五年第三次拡張を行い、生産能力を二千万斤にまでした。
販路は主として九州四国地方であったが、後に中国筋を風靡して余力を阪神地方に侵食させ、さらに海外方面では浦塩を中心に露領の一部南洋支那方面にまで伸ばして行った。また大正五年頃には鈴木の経営中の彦島製煉所内に分工場を設けて生産に着手した。これは同工場製煉の余熱を利用して製塩したもので、金子翁が考案した副業である。それでも一か年の生産額は一千万斤に近づこうとする状態であった。このようにして再製塩の方はどうやら採算がとれるが、東洋の原料塩の過半を独占的に扱っている大日本塩業はその利益を挙げることができなかった。それは台湾も、関東州の塩も生産コストが高く、生産された塩も品質が劣っていることが最大の原因であった。翁がどうしても塩の産業上の大革命を促そうと間断なく研究を続け瀬戸内海の十州塩田等を視察した時、非常な労力を費やして塩辛い水をこしらえ、これを平釜で煎烹しているのを見た。塩も砂糖も同一の工程の下に成立するはずであるのに、砂糖を煎烹するにはバキュームバンで一度に五十トンからの砂糖をこしらえている。五十トンといえば、十貫俵の塩二、三百俵にあたる。これだけの砂糖を三、四人の者が四時間足らずで煮詰めるのである。一方、塩はどうかというと二人がかりで一日に五俵か六俵しかできない。まずその生産能率に雲泥の差がある。日本の塩が高いのはその原因が全くここにある。従って塩も砂糖にならって大量生産の工業組織にしたならば良い塩が安く生産されるに違いないと考え、再三専売局長に進言した。その結果であろうか、その後山口県の三田尻に真空管を据え付けたということを聞き、翁は非常に喜んでわざわざ三田尻まで状況を見に行った。しかし、すべて状況は翁の想像と違わなかったがいかにも規模が小さく、こんなことでは参考にも実験にもならないと考えた。
ここにおいて翁は鈴木商店の技師に命じて種々調査させたところ、英国にソルトユニオンという製塩会社があり、翁が考案したような非常に大きな真空管を使って塩の煎烹をやっていた。その真空管の模様が広大さは驚くほどのもので、一見釜とは思えない宛然一つの倉庫のようなものを作り、それにバンの作用をさせていた。一回の煎烹が二百トン三百トンという大量生産で、その生産物がセール・フレーザー商会から日本にも輸入されていることが分かった。その塩は純白で上品で一見したところの感じでは、日本の三盆白という砂糖のようなもので、しかも値段が非常に安い。日本の十州塩田でできた一等塩は九十八%くらいのものが四円五十銭もするのに、ソルト・ユニオンの塩は百%であって、これを麻袋に入れ、約六千里の航程を経てはるか極東に持って来て当時一円七、八十銭で売ることができたのである。
すなわち翁は技師の報告によって日本の塩はソルト・ユニオンを模範としてやれば、確かに一大革命を促して同胞に安くて良い塩を供給することができるということを突き止めたので、工学士織田信昭をロンドンに派遣し、ソルト・ユニオンの機械を造った工場について機械の設計をさせ、同時に技術上の練習をさせた。それが大正七年のことである。大日本塩業会社は資本金三千万円で、一時隆々として栄えたが海外の塩田の全部を失い一大打撃を被った。その現在の社長はやはり鈴木関係の北浜留松氏である。
金子翁はすべて専売が好きであった。煙草、塩、樟脳みな大半が自己の意のままになった。次いで砂糖も専売にしてみたいと濱口さんに進めたので、濱口さんは砂糖も専売にしても良いと思うともらしたところ、翁は熟慮の結果、塩は保存すると苦塩が抜けて五等塩が四等塩になりさらに三等塩になり質がよくなるが、砂糖は逆に保存すれば保存するほどだんだん融けてきて質が悪くなることを知っていたから、今までの勧説を翻して濱口さんに迷惑をかけないようにと良心的に取り下げた。翁は有る商品を選ぶ方法とか保存方法については実に真面目に勉強していた。塩は保存するほどよくなるし、煙草も保存が効く。反対に砂糖は保存するほど質が落ちる一方であるから、もし政府が赤字を出したら同郷の専売局長官である濱口さんに迷惑がかかるのを慮ったのである。
大正二年頃台湾塩業に違反事件が起こった。塩を関東州から内地へ送って来る間に雨にあたったりして自然に目減りする。そこで摘み出す時にはある程度の分量を増すことを認めてくれる。それで内地へ着いて専売局へ収納される時に丁度よい加減になる。ところが減る時もあればそう減らない時もあって、そこにいくらかマージンがある。そこに商売の旨みがある。専売であるから利益は極めて薄いが、マージンが多少ともあるのでようやく息をつくことができる。これは非常に厳格に言うなら専売法違反である。しかし、東京専売局浅草支局に宇賀四郎という課長がいた。どうしたはずみか、お冠を曲げて鈴木のやり方に対して事件を起こし摘発し、専売法違反を強調しテコでも動かなかった。金子翁がいくら平身低頭して陳謝しても輸入塩の権利を剥奪するなどと頑として聞かない。そこで岡烈と長崎英造の両人に懐柔策を依頼した。
長崎は専売局の宇賀を訪ね、「台湾塩業に違反事件が起こっているそうだが台湾塩業の輸送権を剥奪してみたところで塩を内地へ運ぶのにどうするというのか。まさか軍艦で持ってくる訳にもいくまい」と言ったところ、宇賀は「そういう利害得失などは考えてはいられない。鈴木は法律を無視した不都合旋盤な奴だ。ことに上役と結託して俺を圧迫しようとしている。俺は職を賭しても鈴木と争う」と言うのである。そこで長崎は「今後そういう違反が起こらないようにさえすればいいじゃないか。今度は寛大にして許してやって貰いたい。今輸送が止まったら国民が困る」と言ったら、彼は「今後そういうことが絶対にないという見通しがつけば良いことはもちろんだ」という。「よし俺はその方法を講ずる。第一その実務にあたっている宇佐美という男が悪いのだから、彼を辞めさせたら良いではないか。君が辞めさせてくれればよい。しかしそんなことできるものか」と言う。「ようしそれじゃあ辞めさせて見せる。辞めさせたらよいな?」「それは良い。ただしあの時藤田が専務であったから宇佐美と藤田の両人が元凶だから、二人を辞めさせなければならないぞ」「よしよし皆やめさせる」と長崎はこう言って帰って来た。金子翁と岡氏にその談判の次第を話したら「いいじゃないか。宇佐美には気の毒だが。この会社が潰れたら困るから、辞めさせよう」と言って、すぐ宇佐美を呼んで一応辞めさせることにした。金子翁は「藤田はロボットで何もこの事件を知らないのだから何とかならないか」という。そこでその訳を話し、宇佐美を辞めさせただけで、すっかり機嫌を直して許してくれたことがあった。その時さすがの金子翁も「専売もなかなか厄介なものだなあ」と初めて嘆息を漏らした。
鈴木破綻後は一時大日本塩業の株が正金銀行の担保として正金の経営になった時、金子翁はこれを取り返すべく懸命の努力を払った。その熱心は金石を溶かすくらいで、その努力は天地を動かすくらいであったと言っても過言ではなかった。正金の児玉頭取もついにその熱心に感じいり株の返還に応じたことは有名な話である。