松方幸次郎は「ヨーロッパは五年も戦争を続けていたので疲弊しきっているからその回復は三年、五年ではできない。従ってまだ二、三年は警戒の必要はない」と金子翁に強気の電報を打った。金子翁はそれが頭にあるものだから、濱口雄幸が切言した「平和になったら必ず日本の貿易から総退却する。欧州の戦後回復は案外早いぞ。平和になれば必ず軍縮が起こるから、神戸製鋼のようなすべて軍備に関係のあるものはどんどん倒れてしまうから、今のうちに整理しなければ大変なことになるぞ」と政府筋の調査を示して整理を促した言葉を、まだまだと馬耳東風に聞いていた。元来翁は強気一点張りの男だから、強気と弱気の両説があれば必ず強気に付くのが当然である。ところが休戦条約が成立し休戦となるとその日からマーケットは急転直下であった。日本船の傭船をしていて何月何日までに船が来なければそのチャーターは取り消しを喰らうのが船の契約の常習であった。それもそのはず、血を流していてこそ高い値段で輸送する必要もあるが、もう血を流さないようになったら何も急ぐ必要はない。どの貨物も三日や十日遅れても痛くも痒くもないものばかりである。これではならぬと、造船はもとよりすべての軍需品はもう到底見込みがないと一時に縮小しなければならないが、もうその時は実際問題として広げ過ぎていて、にわかに緊縮することはできない状態のまま俄然不景気に襲われたのである。景気が祟ったのである。
当時の船会社は惨めなもので借金をしてまわるのに日もこれ足らぬという有り様であった。大正七年松方幸次郎が外国から帰った当時、せっかくの船成金連が元の木阿弥になりかかったので悲鳴を上げていたが、船舶業の盛衰は原料の輸入と製品の輸出に大影響を及ぼす国策的な仕事であるという理由で船持ちは、よってたかって海運助成法案なるものを考え出し、政府の助けを乞うことになりその運動に着手した。利権をもってすればすぐ食いつく政友会の門を叩き、宿将元田肇を捕まえて具体案を示し「是非ともこれを議会に提案してもらいたい」と頼んだものであった。元田もさる者、「それはもっともな話だから、これは総裁から陣笠に至るまで、かく言う俺がちゃんと賛成させてみせる。だが政友会から提案するとまた何とか彼とか世間の口がうるさいから、国民党に提案させろ」というのであった。船会社の連中が国民党に行って海運助成法案の提案を頼んでみたところ、犬養木堂も蓄音機のように元田と同じ返答をする。政党が頼りないことを今更呆れ返りしおしおと引き下がったのは心細かった。そこで今度は新帰朝の内田嘉吉案に耳を傾けた。内田は滞米中ヴァンダーリップの旨を受けたと称し、「浅野造船所と談合し米国の資本と日本のストックボートをつなぎ合わせ、日米間の貿易をやろう」というのである。それは結構と一同賛成したが、米国で沿岸貿易を許さないのだから、ものになる見込みはないということが直ぐ分かり、これも同じく駄目となった。
本当に困り抜いた挙句、山下亀三郎が浅野の旨を受けて松方に対して「ストックボートぐるみで各造船所の大合同をやりたいがどんなものだろう」と交渉したところ、松方はけんもほろろに拒絶した。そこで金子翁は山下に対し、船価一トン三百五十円の見積もりで各手持ち船を合同し、国際汽船の創立を提案した。これは各社賛同となった。こうして、約五十万トンを一トン三百五十円に評価すると、総計一億七千五百万円になるが、これを担保として創立に半額八千七百五十万円を借り入れる計画をたて、各自船の提供船価に応じその半額を株券で受け取り、他の半額は借入金を受け取りにするという体の良い借金機関を創立し、政府から年利二分の低利資金二千五百万円を借り入れ、十五、浪速、第一、興行の銀行団から六千二百五十万円を社債の形式で借り入れた。しかし、低利資金借入後未だ銀行団から借り入れられない中、少し厄介な問題が持ち上がった。
国際汽船が創立されたのは大正八年八月であった。その創立以前から重役問題でごたごたしていたが兎に角金子翁の指名で二十五人という並び大名が決まった。しかし、元来松方は一本調子の強気で権利の主張には目一杯言い張る男で、「俺が船の過半数を提供したのだから従って重役もまた過半数を提供させよ」というのであった。けれども松方系が過半数の重役の椅子を占領することは誰も賛成しない。それで大分紛糾した。何しろ当時一世に鳴らした船成金の内田、山下の諸重役は過半数の株主権を持つ松方の社長就任には絶対に反対であった。そんなわけで会社は創立の大正八年から一年ほどの間軋轢を続けた挙句、遂に山下、内田、中山の三人が辞表を提出した。金子翁は一生懸命に調停に努めたがさらにその甲斐なく、やむを得ず社長空席のまま金子翁が取締役会長の資格で会社を預かっていた。しかし、何を言ってもイカ者揃いの成金どもの勢力争いだから、まとまる気遣いがない。しかもこれらの暗闘が災いして、まとまりかけた社債も不成立になりかかった。そのため金子翁は大いに心配し毎日二時間くらいは鈴木の店員を引き連れて国際汽船に通ったものだ。そしてその挙句、原敬に頼み原首相官邸で大蔵大臣高橋是清と逓信大臣野田卯太郎を集め、そこへ国際汽船関係者一同を招集して一大協議となり、結局金子翁が逓相野田大魂和尚を別室に呼び出して秘策を耳打ちして仲裁をしてもらったのである。怪漢野田は、独特の技量で人を納得させ融和させ、人と人との間を滑らかにする一種優れた才略を持っている人であった。この日も彼自慢の洒脱と奇矯の音頭をとり、無事に各々の意地張りがまとまり、内田も山下も中山も重役の椅子に舞い戻り、松方は社長になり箔が付き、病める大象のような会社が出来上がった。もっとこれより先、金子翁の差し金で内田信也と山下亀三郎が大蔵大臣高橋是清翁の赤坂邸に呼ばれ「君らは一体何を言うのか。いい年をして喧嘩なんかするということはないじゃないか。やめろよ」と荒ごなしされていた(この事は山下の自著にも出ている)。
大塊布袋和尚の仲裁で重役間のごたごたは無事に済んだが、大正十一年になって海運界は不況のどん底に陥り、国際汽船の五十万トンの船は経費も支弁できない経営難に陥った。できたばかりの会社で定期航路をもたない弱みはトランバーとして不況時の深刻な打撃を受け、神戸港外に十数隻の撃船を見るに至った。これを聞いて金子翁は「これではならぬ。ひとつ孟買航路と台湾航路に割り込もう」と、多忙な時間を割いて阪神間の有力な紡績会社の社長や東京にある台湾の製糖会社の首脳者を歴訪して猛運動を開始した。その絶大な精力には敬服の他はないくらいであったが、さらにこれよりも驚いたのはその運動手段が際立って鮮やかだった事である。訪問先の相手が興味と関心を持ちそうな話題をもって行って該博な専門知識を操り広げつつ説き去り説き来たり相手をして、そぞろに傾聴させ覚えず時が過ぎるのを忘れさせるのである。談論数刻の後、ようやく神輿を挙げる寸前に訪問の眼目である国際汽船の航路割り込みについての了解と援助を懇請して辞去する。その鮮やかな話術と広範な知識はちょっと他人が真似できないやり方であった。その二、三の例を挙げる。
金子翁の自動車は一日住吉村観音林の風流な庭園に囲まれた武藤山治の邸内に入った。主人好みの風雅な茶室造りの座敷へ通され、武藤と金子は向かい合って座を占める。話題は不景気に対する世直し策として高金利か低金利かの論議である。当時新聞雑誌を賑わせていたのもこの議論であった。低金利論の雄は川崎の松方で、武藤は鐘紡の豊富な蓄積資本によって高金利説を唱えていた。金子はそれを承知でやおら低金利論を説きだした。金子翁の話は引証該博凡百の産業、商品をとらえてその生産費運賃等まで数字を暗じて説き去り説き来るのである。時には武藤のお株の紡績製品の輸出競争にまで立ち入り武藤は反駁論をもって応酬し彼我論戦尽きるところを知らず、随行者は酔えるがごとくただ茫然としてその長広告に聞き惚れているその二時間、膝のしびれをも忘れるくらいであった。論戦も大方尽きた頃さすがの武藤も金子の議論には敵すべくもないと見たか、最後に言った。
「金子さんのお説はごもっとものようだが、しかし自分は結論として遺憾ながら賛成しかねる」と言うと、金子は「いずれまた他日の機会に」と、やおら神輿を挙げる。その折手短に「時に国際汽船の現状と印綿積取参加をお願いする」とちょっと願意を述べ、武藤の援助を懇請して引き下がった。東洋紡の阿部房次郎社長、合同紡の谷口房蔵の外紡績総合会の諸星を片っ端から歴訪して頼んで回りその結果遂に翌年から国際の船が印綿積取にインドに行く事となった。
今一つ舞台は東京品川台御殿山、広壮な庭園の砂利道を静かに走って御殿風の玄関先に金子翁の自動車は止まった。広々とした洋風の応接室に小柄な老人が金子翁を出迎えたのは、当時七十余歳の益田孝翁である。金子翁はこの日、台湾製糖現社長益田太郎に会いに行く予定だったのだが、広い屋敷のため総門は同じでも、玄関を異にする孝翁の邸に間違って入ってしまったのである。しかし臨機応変な金子翁のことである。「どっちからでもええわ」と平然として孝翁に会うことにした。さて話題を孝翁の興味の中心である食料問題に見出した。益田翁は日本の人口と食料問題については熱心な研究者であるから「清水の豊年製油でやっている大豆油の揮発油抽出法による脱脂大豆を取り寄せて豆粕パンを造っている」と語られると、金子翁はたちまちそのうんちくを傾けて大豆粕の食料利用からニシンおよびイワシの搾り粕を食料に利用する途からその科学的処理法にまで説き及ぼすと益田翁は一入興味をそそられ、「中言して失礼だがせっかくの御名説をわたし独りで拝聴するのはもったいない。台湾から平田という者(当時台湾製糖乗務取締役工場長)が来ているから一緒に拝聴させてもらいたい」と言ってその席に平田常務が招かれた。金子翁の長広舌はそれからそれへと尽きない。この道の専門家でもたちまち傾聴させてしまうほど内容豊富なものであった。このように相手の性格と時と場合とを巧みに利用する機智は到底常人の企ての及ぶところではなかった。約二時間位して辞去したその帰路の車中で金子翁は秘書に今日はお門違いで面食らったが何かの役に立つだろうと微笑をもらした。
湾糖積取りの話は少しもでなかったが主人側にとって百パーセントの価値ある訪問であった事は疑いない。その後、日を替えて太郎冠者の邸に金子翁は出直した。郵船、商船両者合体で強い反対をしているのを押し切って国際汽船が湾糖の積取りに割り込んだのは一つに金子翁の努力のおかげである。
このようにして金子翁が自ら陣頭に立ち国際汽船の貨物船を東洋各地はもちろん世界各市場に運用し商品を積み、甲地から乙地と海外出先から海外へと大口商品、小麦、塩、木材、石炭と広く貿易を行った。その運賃の収入は一億万円に達し日本海運界の一大勢力たらしむるに至った。しかし、第一時欧州戦後世界的不況のため船価も運賃もともに暴落し国際汽船の運用は意のままにはならず大阪商船は川崎、鈴木の株を債権銀行から買い取り、商船会社の子会社と遂に合併することになった。しかし運賃ばかりは相場と同じで、時に高く時に低い。長期間では平均して必ず引き合う時期が到来する。国際汽船も独自の計算で十分採算がとれる運賃時代も来たことがある。
それはとにかく金子翁の一生に、船舶建造として播磨造船所、船舶の運航として自営の帝国汽船があったことも顕著な事実である。第一次世界大戦後には鈴木のロンドン、ニューヨークを中心として、国際、川崎汽船の代理としてKラインを運航したのも有名な話である。なお国際汽船は設立当時には鈴木を代表して金子と当時ロンドンの高畑が取締役となったが、株の譲渡後二人とも辞し、その後旧鈴木船舶部の荒木、作道の両人が同社の幹部となった。しかし、商船に併合された後は幾分の変遷を経て、今日は荒木忠雄は船舶運営会で活躍し、作道宗作が商船の専務となっている。金子翁も地下で安んじて可なりである。