第一次世界大戦直後、工業界で最も注視されたのは空中窒素固定法である。英国はロイヤルコミッションを組織して政府の大々的調査報告を行わせ、英国内にドイツ同様の工場建設にこぎつけた。クロード式窒素工業会社はロンドン支店長高畑誠一がロンドン滞在中一九二〇年、ロンドンタイムズ紙の一記事を発見したことによる。それによると、パリのエア・リキード社のクロード技師長が空中窒素固定に成功し、ハーバー法の二百五十気圧に対して千気圧近くの高気圧により、しかも工場の固定少なく実験に成功したのみならず、パリ郊外のパイロットプラントの小規模な工場で製造中であるとのことであった。時あたかも戦後日本の財閥三井、三菱、住友、三共の四者が連合して、日本政府が敵国ドイツのパテントは没収したが、製造法を知らないからドイツのハーバー法の製造特許を買収しようと住友家の総理事鈴木左馬也が大掛かりな大名行列で渡欧しようとする直前であった。高畑が考えるには、「ハーバーはとても並大抵の金ではドイツが手放すはずはない。むしろクロードの新方法こそ日本で買い取るべきだ」と信じ、友人のオスカー・ランゲンバッグに相談したところ、不思議なことにランゲンバッグの親友英人バートンが英国のこの特許を買い入れるために交渉中であるとのことであった。高畑は大いに喜び金子翁にこの記事を送ると同時に高畑は独断専行で、ロンドンでバートンを通じ直接エア・リキード社と交渉を始め、日本へ特許買入れの議を進めた。これは一九二〇年の夏が過ぎた早秋の半ばであった。
高畑の着眼は、「日本は将来無から有を生ずる化学工業によって立つ他ない。空中窒素固定は、水と電気または石炭のみでアンモニアができる。平時にも戦時にも必要不可欠である」ところにあった。これと同時にロンドンのコートドルの人造絹糸は馬鹿に儲かる。このような会社は他にない。資本は二十万ポンドだが、株主に一回も払い込みをさせずに配当で増資し、三千二百万ポンドとなり、かつ当時その市価は十倍の三億二千万ポンドになっていた。これは帝人の発展に酷似している。
「日本も将来やって行く仕事はこの空中窒素と人造絹糸以外ない」とこの二事業を一九二〇年に金子翁に提案し、大いにこれを焚き付け無理矢理に買わせた。しかし、この時は鈴木商店は金融難で大分困っていた。
高畑がその後ランゲンバッグ・バートンと共に三人でパリまで数回赴き、工場を見学し、クロードにも会い、エア・リキード液体空気会社の社長デローム、支配人デシャーらにも数度面談した。その結果、高畑がかねて万一に備えるためにロンドンで秘密に蓄積しておいた二十五万ポンドと、本社から無理算段して送ってきた二十五万ポンドとを合わせて計五十万ポンドの大金を出してようやくクロード式のパテントを買い取ることが出来た。
交渉成立後本店から来ていた二階堂、かねて塩の研究で来英していた織田らともパリ郊外の該工場を見学した。また金子翁の命で高畑は当時パリにご遊学の北白川宮殿下を工場に案内して実験見学されたこともあった。
この譲り受けたクロード式窒素工業を基礎として資本金千五百万円、払い込み千二百五十万円でクロード式窒素工業株式会社というのを創立し、その工場を関門の彦島においた。このクロード式というのは如何なるものかというと、これを説明するには一応ハーバーの方法から説かなければならない。
ハーバー式窒素固定法、すなわちアンモニア合成法というのはハーバー博士の発明で一九一三年この方法をハーバー博士が発表すると、ドイツ皇帝は非常にお喜びになり激賞のあまり一億万マルクという大金を与えて急に工場を造らせ、ドイツはこれによって起こったとまで言われたほどであった。ドイツが英仏を敵として戦争を始めたのも、全くこのハーバーの発明の結果であるとさえ言われた。すなわち戦争するには火薬が必要である。その火薬を製造するには多量の硝酸がいる。しかしドイツには従来南米から硝石を輸入していたが、もし英国を敵として戦うことになれば英国の優勢な艦隊によって海上を封鎖されドイツは硝酸供給道が途絶して火薬を製造することができなくなる。また窒素肥料を使って耕作していた農村は肥料の供給を絶たれてしまうため、戦争が長引くと火薬とともに国民の食料が欠乏し、戦は負けになる。
しかしハーバー博士の発明によって空気中の窒素をアンモニアにし、さらにこれを硝酸に変化させることができるから、最早硝酸の供給を他国に仰ぐ必要がなくなる。そのハーバー博士の方法というのは空気を圧搾して窒素を取り出しこれを水素と化合させてアンモニアを作り、それから出発して硝酸または硫酸アンモニアを作るというものである。そのため、その製造には非常な高気圧が必要となる。結果、機械はしばしば破損するから製造工場の設備からはむしろ機械の修繕工場の方が複雑で規模も大きくしなければならない。このハーバー博士が使用した気圧が二百五十という高気圧で、当時における大砲気圧と同一程度のものであったため、機械が破損する欠点があった。そのハーバー博士の方法に米国の学者が改良を加えて百五十気圧で行う一種の合成法を発明しその特許をとった。この特許に対しては米国政府も大いに嘱目し、政府においてこれが官営の計画をたて五千万ドルを投じて工場をこしらえるということになった。そしてそのとき政府委員が議会での説明に、「もしこれをやらないと日本と戦争をした場合、日本は智利と北米合衆国間の交通を遮断して火薬の製造を不可能にさせる恐れがある」とまで言ったとのことである。当時米国にあった高峰譲吉博士はこの事業が極めて不利なことを信じ、米国の学者の発明の特許を日本に分譲してもらいたいという交渉を遂げ、その契約の成立と共にこれを日本に持ち帰り、三井、三菱、住友、古河等の富豪にはかり、日本窒素工業株式会社を創立した。
その権利金が一節によれば千三百万ドルで、支払いは工場完成後製品の成績が上がった上ということであったが、その成績が期待するようにはいかなかった。講話成立後、住友の一行がドイツに入り込んだ使命の一つが、空中窒素にあったのも以上のような関係からであろう。
しかしクロードの方法はどうかというと、ハーバー博士が使用した二百五十気圧が高すぎるということを世界の技術者がほとんど一様に批判したのに対して、クロード博士はかえって反対に二百五十ではまだ低すぎる、一千気圧まで上げた方が宜しいという意見であった。その理由は、「ハーバー博士の二百五十気圧だと圧縮した時に合成するものは3ないし4%に過ぎないが、千気圧にすると一度に、3,40%合成できる。ハーバー博士の方法でやると、二十五回も合成しないと百%に達しない。すなわち、ハーバー博士の方法は合成の度数が多くなるからそれだけ機械の破損の度数も多く、修繕に巨額の金がかかり不経済に陥る。これに反して千気圧にすれば二回半か三回で百%に達するから修繕工場も簡単ですむ」というものである。クロード博士は実にこの点に着眼したのである。しかしクロード博士はドイツのリンデ式と並んで称されるクロード式酸素窒素分離機の世界的権威で、金属が気圧に耐える力についての研究にも造詣が深かった。かつ合成に最も必要な媒介材カタライザーの合金の研究も進み、どのよな合金の方法によればどれだけの気圧に耐え得るかということも既に試験済みであった。すなわち、博士はその専門の知識を応用して、一種の合金を作りこれに成功していたのである。そしてこれを工業的に応用して見ると、果たして博士の想像に違わず、従来のような複雑な設備を要せず、生産費も非常に低廉に済んだ。当時、フランスの他、ベルギー、スペイン、米国にもこの方法の買収交渉が始まりつつあった。鈴木商店はこのクロードの方法を採用したわけである。高畑はクロードに面会の時、「人造石油はできないか」との質問に、彼は「できる」と答え、次はその研究に没頭したいとのことだったから、このことも金子翁に通信した。それかあらぬか、金子翁はその後満州で石炭の液化にも関係斡旋していった。
我が国は輸入超過に困っている。その輸入超過のうちには肥料の輸入高二億三四千万円。その中、窒素肥料が二億円という驚くべき数字に達していた。しかし幸いなことに鈴木商店の計画が実現しクロード式窒素工業会社から低廉な製品が予期のとおり得られるようになったなら、確実に右の輸入が防遏されることになるのであった。しかもそのために要する原料はわずかに石炭または水力電気、硫酸であり、ことごとく内地において求めることが出来る。機械も一部分だけをフランスから輸入すれば足りる程度のものである。その結果として一面輸入を防遏し農村に低廉な肥料を供給して農村問題の解決に資し、従って食料問題の解決にも一道の光明を与え、戦時にあっては火薬の独立を図ることができるという一挙両得の好結果を見ることができたわけである。このクロード式窒素工業会社はその後、三井の手に帰し、九州で東洋高圧として盛んに硫安を製造している。これは先刻ご承知の通り、米国では有名なデュポンがクロード高圧法を取り入れ、これに改良を加えて盛んに製造している。
この頃は金子翁の事業生涯最高潮の時で、その功績は独り鈴木商店の関係事業だけにとどまらなかった。日本の実業家としてその着想経綸が最も巨大な存在となり、総理大臣や各宮家の実業界功労者招宴にもしばしば招かれるようになった。