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桜ビールと鈴木商店

 創立難に悩んだ帝国麦酒会社を引き受けて創立した金子翁も、ビールのことは全く不案内で困っていた。ある人は「ビールの販売は色々複雑で難しく、砂糖麦粉商売の鈴木商店としては不向きの事業だから今の内に断念したらどうか」と献策した。しかし強情な金子翁は「一旦引き受けた以上は必ず成功させる。今に見ていろ」と言い、懸命に努力した結果、売り出しの初年に初配当を行うという破天荒の成績を上げた。ビール売り出しの際、金子翁は自ら神戸の販売責任者となり、柳田翁は大阪の販売主任として互いに身をもって活動したのである。当時、金子翁は飲めないビールを口にしながら、「この甘口ビールは純ドイツ式に醸造したものである」などと喋喋として宣伝していた。これを追憶し今更ながら感慨に耐えない。
 その後鈴木商店の悲境に伴い同社は昭和四年に破綻に瀕したが、青木一葉を代表とし金子翁は普段の激励と助力を惜しまず、遂に同社の大改革を断行し、鈴木商店の保証債務を無償で取り消し、翁も初めて安堵の思いであった。ここにビール会社は鈴木商店の煩わしい羈絆を脱することができたと愁眉を開いたのである。
 翁は以上の他、数知れないほど関係会社の事業についてもすみからすみまで通暁しないものはなく、いちいちこれらを指図していた。それでいてあれだけの直系傍系の会社に自分が重役として名を列していたのはわずかに国際汽船の会長、大正生命の監査役、日本樟脳の取締役のみで、それも無理に頼まれてやむを得ずその名を出したに過ぎない。いつも黒幕の中で大仕事をやっていたので得体の知れない怪物のように世間から見られていた。その怪物も船鉄交換問題で活躍して以来、段々と表舞台に姿を出してきたが、これと反比例に鈴木商店の事業は大正十一年二月ワシントンにおいて調印された軍縮会議を一転機として以来凋落を示し、南風競わず遂に昭和二年四月に至ってとうとう大蹉跌を来したのである。