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日沙商会と依岡省三

 金子翁の周辺には幾多の名物男が往来している。ここに記す依岡省三も確かに一風毛色の変わった一人である。彼は金子に拾われて神戸製鋼所の専務となった依岡省輔の兄で、容貌魁偉の快男児である。彼は社会的な世評にはあまり上らなかった言わば無名の士であるが、いわゆる知る人ぞ知るである。その為人と器の大きさはそこやここにある通俗人のそれとは甚だわけが違ったものであった。彼は早くから図南の雄志を抱いていた。南洋でゴム栽培の事業を始めた無名の先駆者であり、鈴木商店に関係する「日沙商会」の創立者である。この依岡省三と金子翁との交際は決して深いものではなかったが、依岡の人物と彼の志望を大いに助長してそれを実現具体化したのは、我が金子直吉翁である。
 この事については、別に依岡省三伝という書がある。その書には金子翁が自ら書いた左のような序文が載っている。それは非常な名文で、翁会心の作である。悠揚迫らず、形容面白く、媚びず、諂わず、筆端にその為人を躍動させ、かつ当時の傑物をひしきって依岡その者にさらに一段の光彩を添えている。

依岡省三君と小生の交際は極めて短い。令弟省輔君を神戸製鋼所へ招聘したのが明治四十二年十一月であって、翌四十三年四月、省輔君から小生に対し、家兄省三が南洋に行きゴム園の経営をやりたいと言うからその便宜を得るため、佐久間台湾総督閣下に紹介状を与えろ、との依頼があった。よって小生は、総督閣下の秘書官齋藤参吉君にそれを頼んだ。たまたま、当代の豪傑杉山茂丸君が、南洋における調査事項があると省三君に面会を求めて来た。そこで小生は杉山君宛の手紙を省三君に渡したところが、杉山君と齋藤君と省三君と三人で懇談の結果、南洋の調査を省三君が引き受けられた。その際、省三君は齋藤君から台湾総督宛の紹介状をもらって、台湾を経て南洋に向かった。時は明治四十三年五月であった。
 その後、省三君は帰朝するにあたって、香港から病気になって神戸に上陸し、杉田病院に入院されたけれども、病状が面白くないので、さらに京都大学病院に入院して伊藤博士の外科手術を受けられたが、これまた不結果で、ついに明治四十四年一月死去された。
 右のような次第で、小生と省三君との交際は一年足らずであり、その間わずかに三回しか面会していないけれども、省三君が偉大な人物であった証拠として、小生の脳裏に極めて興味深い印象が残っている。すなわち同君の人となりは、近代の人士が金銭を愛好し、しきりに財産を増やすことに熱中するのと同じように、人煙まれな離島や不毛の山野を開拓し、領土の拡張を図ることが三度の飯よりも好きで、このためにはいわゆる生命を鴻毛よりも軽んじる気概があり、どれだけ危険な仕事でも平気で一身を投ずる志を持っていた。しかも、言葉使いは極めて静かに、極めて穏やかであった。しかし、風貌は昔の加藤清正とか佐久間玄蕃盛政とかいうような堂々たる偉丈夫で、少々無理難題を言われても即座に押し返し断ることのできないような威力を備えた人であった。
 思うに、省三君がもし戦国時代に生まれていたならば必ず五万石か十万石の領主になったか、あるいは遠島流罪となって離れ島で月を眺めて世を恨んで死んだかも知れない。幸か不幸か明治の聖代に生まれ、天稟の本領を充分に発揮しえなかったのは同君のためすこぶる遺憾とするところである。せめても七、八十年以前に在世したならば、ただに孤舟大海を渡り太平洋上に掌大の土地を求め密煙瘴霧の南洋に農村を作り、さては無人島を発見するようなことに止まらず、今日の我が領土は君の雄図によって既にシンガポール以西に延長していったかも知れない。
 わが郷土に無名の豪傑がいて、死ぬ時に「口惜しや畳の上の野垂れ死に、めでた過ぎたる御世に生まれて」と言う辞世を述べられたが、もし省三君の霊がいれば、これと同じ感想をもっているものと思われる。今や南洋ボルネオ島に同君の尊霊をまつり、同君の履歴が公刊されるにあたり、所懐の一端を記して序文に代える。
金子直吉

 右の序文からも、依岡省三の風格が彷彿と想像されるが、さらに金子翁は彼を評して次のように述べている。

「まず依岡という男は強い実行家であるとともに、ひとつの達見を持っていた。わたしが省輔君の紹介によって会った時にこういうことを言った。『日本は天然資源の少ない国である。そして人口はだんだん繁殖している。今日までの日本人としては武断主義によって、新しい領土を求めるということを策してきたのであるが、もう今日ではそれは時代が許さない。平和主義で植民地をこしらえなければならない。植民地をこしらえるということは、その得た新しい領土に対して日本人がひとつの産業を植えつける。そしてその産物を自分の国に持って帰って、物資が足りないところを補給するか、またはその産物を売っ払ってしまって、国際経済の決済の一部に充当する。この二つの他にはないのである。新しい植民地をこしらえるということは、この二つの目的以外にないとすれば、あえて流血の惨事を演じて世を騒がせなくても、平和の中それくらいのことはできるであろう。すなわちそれは拙者が遠くないうちに必ずやって見せる』と。随分大言壮語であって、実は疑っていたのであるが、彼のことであるからある程度まではやるであろうと思っていたが、ご承知の通り、日沙商会でゴム事業をサラワク王国と契約し、その後、鈴木商店がその仕事を引き取ってやることになった。そのあとの経営には弟の省輔君が非常に努力されたのである」。

 依岡省三君がこの「平和主義で植民地をこしらえなければならない」と述べ、「それは拙者が遠くないうちに必ずやって見せる」といった識見と気魂は金子翁の心を打ったのであった。おもうに省三のこの大決心は軍艦比叡による南洋視察の時から心に熟していたに違いない。営利を超越して国家のため、大和民族のために「平和主義で植民地を求める」という彼の抱負も尋常でないが、それを受けて調査させ、実行させた金子直吉翁もまた傑物である。金子は省三を信頼していたから、当時意気合い通ずる杉山茂丸に省三を紹介した。当時の模様は金子直吉翁の談によって次のように伝えられた。

「私は依岡君を杉山茂丸氏に紹介したのです。この杉山茂丸という人は依岡君とは弟たり難く兄たり難くというくらいの人であります。この人が、依岡君が南洋に行くなら俺が会いたいから寄こせということで、私が添え書きを書いてやった。それから一月ばかりして杉山氏に会うと次のような話であった。貴様の寄越した鐘馗の親方のような男は、初めは実に馬鹿な男だと思ったが、段々聴いてみるとなかなか面白い男だ。南洋においてある事業を調査するため、俺が五千円を渡して、これでやってくれといったら、あれが、貴下のお貧乏の中から五千円を頂戴してはまことに気の毒だといった。俺が貧乏している。その貧乏に「お」の尊称をつけるような男に仕事を頼んでも駄目かと一時は失望した。ところが段々話が進んでくるとなかなか面白い。俺や貴方様や、それからその他の人の考えている意見とばったり一致する。あるいは彼は俺の先輩かも知れないと思って、それで頼んでおいたが、もう安心じゃ。あれくらい大きな立派な体をもっていたなら、馬鹿でも何かできる。いわんやあの魂をもっているのだから、日本もまず安心してできる。六千万同胞安心できる。と言われた」。

 こうして金子直吉が依岡省三を信頼し、そして杉山茂丸もまたすっかり省三の人物に魅惑された。
 また、金子翁は後藤新平、杉山茂丸その他当時の新人と海外のことについて意見を買わされ、それらの人たちと連著で台湾総督に意見書を提出したこともある。それは、「シンガポールを中心とする南洋には色々な天産物と仕事がある。そこへ日本人を移住させたいというのである。しかしその方面には風土病がある。うかつに日本人が行けば十人中二、三人は死んでしまう。そこでまず風土病に耐える医師や看護婦、医薬を携行し、耐乏と衛生の道を講じ、徐々に移民と通商の方法をやらせることが肝要であると説いた。
 編者は依岡省三の伝記を読んで、その人物がいかにも小気味の良い男であることが分かった。しかし、書中、金子翁のことについてはごく断片的で、いわば舞台の脇役としての形である。しかし金子翁が当時の政界、財界、その他重要な名物男の間に友人として親しまれ、かつ相往来していたことが分かる。
 一代の英傑は後世の英傑を育むという諺がある。もし天が依岡省三になお半世紀の生命を与えていたとしたら、恐らく日本人の通商貿易方面にも多くの貢献をもたらしたことであろう。まことに惜しいことは早く世を去ったことである。依岡が残した日沙商会の事業は鈴木商店が受け継いだが、その後国際情勢の変化により海外から全く手を引くことになった。金子翁は、彼の早逝を悼んだことは一通りではなかった。依岡も全く金子翁に私淑し信頼し、終生その知遇を感謝した。
 ただに依岡のみならず金子翁存命中、一度でもその為人と知遇に接したことのある人は誰しも深くその心のそこに潤沢に持っている暖かい芳情を感受しない人はいなかった。
 これが物故された後にもなお一入忍ばれて誰しも一代の偉人として尊敬している。
 依岡省三は翁の声援と加護によって一層その精彩を放ち自己の目的と基盤の上に雄々しくも邁進することが可能となり、世の中に深い意義と教訓を残している。
 省三が逝った後、その残された事業である日沙商会は鈴木商店で力を入れた。省三の弟省輔は、鈴木倒産とともに銀行側の圧迫に憤懣して神戸製鋼所専務の職を弊履のように捨て、兄省三の魂がこもる南瞑サラワク王国のゴム栽培の事業開発という平和的事業に精進した。これが熱血漢省輔の不幸中唯一の幸福であった。そしてこれは鈴木の日沙商会の事業としてあの財界混乱期にもなんら影響を受けずに経済恐慌を無事に突破することができたのである。しかしその事業は敗戦と同時に国家と運命を共にした。