大正九年頃、朝鮮に南朝鮮鉄道株式会社を設立し、社長に坂出鳴海を据え、大正十一年から同十四年頃までに南鮮馬山府晋州間七十キロメートル、および松汀里、光洲、潭陽三十六キロメートルを敷設した。ちなみにこの鉄道は馬山府から木浦に至る産業開発と交通を目的としたものである。
また大正十三年七月、下関山陽電気軌道株式会社を創立したときに、重役連は彦島から宇部まで線路を拡張する方針だったが、金子翁は、西は彦島から小倉、八幡へ船の連絡を行い、東は三田尻まで延ばす目論見で進める案を与えた。その旨に従い、社長林平四郎の指揮のもとに次々に拡張され、現在では下関長府間延長十キロメートルおよび下関、幡生間延長六キロメートル合計十六キロメートルを広軌道電車が連絡し、自ら同地方工場および下関国際飛行場ならびに鉄道操車場と関門間との連絡を便利にし、下関市の発展を助け、その運輸交通に貢献し、自動車不足時代の今日、特に重大使命を果たしつつある。
翁得意の繊維事業の中、人造羊毛会社は豊橋の杉浦文一を中心に作ったが、技術者にその人を得ず上手くいかなかった。一時金光庸夫が社長となり昭和九年二月創立されたが、豊橋市民や漁師の反対があったため、金光の郷里大分に持って行き、人絹の原料パルプを阿蘇山の芽から取ろうと試み実験した。金子翁は芽を原料にすることが有利であることを考え、朝鮮から苗を取り寄せて青島、北海道はもちろん六甲までにも植え付けて大を成そうとしたが、大した成績も挙げることができ来ず、第二次世界戦争になってから会社も鐘紡に吸収され、自然にこの仕事も鐘紡が引き継いだ。
昭和十六年頃大陸運河予定線を計画したことがある。これは従来の華北交通株式会社が現在運営する邯鄲から天津、天津から北京に至るものと錯交して、新たに石門から安平を経て、子牙河に接し天津に至り、さらに北京まで北運河に接し、北京からは新たに門頭溝、豚鹿、陽原を経て吉家庄まで開穿する計画であった。しかし未だ完成に至らずに終わってしまった。
昭和十年頃、防石鉄道株式会社を買収し、三田尻沢および堀駅間約二十キロメートルの交通、木材、農産物等資源物資運輸の役を果たしている。羽幌炭鉱鉄道、昭和十七年北海道苫前郡羽幌炭鉱から省線終端駅、築別駅まで延長二十キロメートルの鉄道を敷設し時局石炭輸送に努力している。
この他、淡路島と阿波との間に架橋してこれを山陽線に結びつける計画も立てたが、計画膨大にして実現に至らなかった。
昭和九年十二月、我が国はワシントン条約を破棄するとともに、準戦時体制を急ぐこととなったが、昭和十一年二月二十六日俄然帝都に不詳事件が勃発し、戒厳令の施行を見るに至った。このいわゆる二・二六事件は結局において国民を一層緊張奮起させ時局に対する真剣な認識を促し、必然的に避けられない近い将来の国家の有事の日に対する上下の決意を固めるところとなった。しかしこの間、国際情勢はますます緊迫の度を加え、昭和十一年十一月、遂に我が国は東西において立場と利害を等しくするドイツと防共協定を締結しこれに調印することとなり、陰惨な雰囲気は全世界を包み、山雨まさに至らんとする風情を示すに至った。